「文句がなければ、金はいまでも渡そう」
「そうけえ。済まないが、そうして貰うと……」
「ホラ、千円だア。調べてみな」
私は人気のない室に安心して、千円の紙幣束を壮平に手渡した。その千円は、実を云えば銀座を出るとき、仲間から餞別に贈られた云わば友達の血や肉のように尊い金であったけれど、老人はワナワナ慄える手に、それを受取った。そして指先に唾をつけて、一枚一枚紙幣を数えていった。
「確かに千両。わしゃ、お礼の言葉がない」
「お礼は云うにゃ及ばないよ。それよか爺さん、ちょっと云って置くことがある」
「へーい」
「私が金を出したことは、誰にも云っちゃならないよ。しかしそれがためにあの建物がまだ爺さんの手にあるのだと思って、買いたいという奴が出て来たら、あの建物はいつでも返してやるから、直ぐ私のところへ相談に来なさい。いいかい爺さん」
「へーい、御親切に。だがあれを買いたいなんて物ずきは、これから先、出て来っこないよ、あんたにゃ気の毒だけれど……」
「はッはッはッ」
私は壮平爺さんを外に送りだした。老人のイソイソとした姿が、町角に隠れてしまうと、私は船会社と、東京から連れてきた身内の者とに電話を掛けた。それから外へ飛び出した。それは私が横浜に来た仕事の片をつけるためだった。
どんな仕事?
ギャング躍る
その夜はたいへん遅くなって、宿に帰った。私はなんだか身体中がムズムズするほど嬉しくなって、寝台についたけれど、一向睡れそうもなかった。とうとう給仕を起して、シャンパンを冷やして持って来させると、独酌でグイグイひっかけた。しかしその夜はなかなか酔いが廻らなかった。
その代り、いろいろの人の顔が浮んで消え、消えた後からまた浮びあがった。――銀座の花村貴金属店の飾窓をガチャーンと毀す覆面の怪漢が浮ぶ。九万円の金塊を小脇に抱えて走ってゆくうちに、覆面がパラリと落ちて、その上から現れたのは赤ブイの仙太の赤づらだ。すると横合から、蛇のような眼を持ったカンカン寅がヒョックリ顔を出す。とたんに仙太の顔がキューッと苦悶に歪む。カンカン寅の唇に、薄笑いが浮かんで、手に持ったピストルからスーッと白煙が匍い出してくる。二人の刑事の顔、壮平爺さんの嬉しそうな顔、そして幼な馴染の清子の無邪気な顔、――それが見る見る媚かな本牧の女の顔に変る。
「明日になったら、清子に一度逢ってくれるかな。清子も逢いたいと云っているって、壮平爺さんが云ったが……。莫迦莫迦。手前はなんて唐変木なんだろう。自惚が強すぎるぜ。まだ仕事も一人前に出来ないのに……」
自嘲したり、自惚たりしているうちに、ようやく陶然と酔ってきた。――そして、いつの間にかグッスリ睡ったものらしい。
コツ、コツ、コツ。
慌ただしいノックの音だ。それで目が醒めた。気がついてみると、空気窓からは明るい日の光がさしこんでいた。時計を見ると、午前九時。
「なんだア」
まだ早いのに……と、私は不満だった。
「朝っぱらから伺いやして……」
と、扉の向うでしきりに謝っているらしいのは、どうやら壮平爺さんの声だった。私は思わず、ギクンとした。
扉を開いてやると、転がるように壮平爺さんが入ってきた。顔色は真青だ。不眠か興奮のせいか、瞼が腫れあがっている。
「早いもので、ボーイさんも相手にせず、電話も通じて呉れないんで……」
と老人は恐縮した。
「なんだネ、こんな朝っぱらから」
私はチェリーをとって口に銜えた。
「イヤ政どん、今日は早朝から、わしも大騒ぎさ。アノ、カンカン寅の一家が、わしのところへ押し寄せてきやがった」
「ほうほう」私は紫の煙を、天井高く吹きあげた。美しい煙の輪がクルクル廻る。
「昨日はてんで相手にしなかったあの海岸通の建物を買うというのさ」
「うん、うん」
「わしは腹が立って、手厳しく跳ねつけてやったよ。あれはもう売っちまった。もう遅いよとナ。すると、それはいかん、是非こっちへ売れという。それは駄目だと、尚も突っぱねると、向うは躍気さ。こっちへ買い戻さねば親分に済まねえ。売らないというのなら手前は生かしちゃ置けねえと脅しやがる。それがどうも本気らしいので、政どんの昨夜の話もあり、じゃあ一寸相談してくるといってその場は納めたが……」と壮平は顔を慄わせた。
「――じゃあ、売っておやりよ」
「えッ」
「売ってやるが、すこし高いがいいかと云うんだ。五千円なら売るが、一文も引けないと啖呵を切るんだ」
「そいつはどうも」
「云うのが厭なら、私はあの建物を手離さないよ。……そいつは冗談だが、こいつは儲け話なんだ。相手は屹度買うよ。彼奴等はきっと今朝がた、留置場のカンカン寅と連絡をしたのだ。そのとき買っとかなけれア手前たちと縁を切るぞぐらいなことを云って脅したんだよ。カンカン寅から出た話なら、五千円にはきっと買う。やってごらんよ」
壮平爺さんは、私が心を翻さないと見て、諦めて帰りかけた。
「ああ、ちょっと」と私は呼びとめ、「いいかい爺さん。五千円を掴んだら、直ぐ横浜を出発んだ。娘さんも連れて行くんだぜ」
「どうして?」
「もう此上横浜に居たって、面白いことは降って来やしないよ。お前たちは苦しくなる一方だ。いい加減に見切をつけて、横浜をオサラバにするんだ。ぐずぐずしていりゃ、カンカン寅の一味にひどい目に遭わされるぞ」
「……」
「そしてその五千円だが、それも爺さんにあげるよ。小さいときいろいろと可愛がって貰ったお礼にネ」
「五千円を?」と壮平老人は目を丸くして「五千円よりもその言葉の方が嬉しいが、一体わし達はどこへ行けばいいのかネ。こうなると、わしはお前のところから遠く離れるのが心細くなるよ」
老人は悦びのあとで、また両眼をうるませた。
「満洲へゆくんだ。丁度幸い、今夜十一時に横浜を出る貨物船清見丸というのがある。その船長は銀座生れで、親しい先輩さ。そいつに話して置くから、今夜のうちに港を離れるんだ」
「満洲かい。……それもよかろう」
「じゃ娘さんに話をして、直ぐに仕度にかかるんだ。外には誰にも話しちゃ駄目だぜ」
「そりゃ大丈夫だ」と老人は肯いて「じゃ、万事お前さんの云うとおりにしよう。それでは順序として、まず五千円の商談をして来よう」
「ちょっと待った」と私は老人を呼び止めた。「あの建物の取引だが、今夜の十時にするといって呉れ」
「莫迦に遅いじゃないかネ。いま直ぐじゃ拙いのかい」
「ちょっと拙いのさ。というのは、あれを私が買ってから、中身を少し搬び出してしまったのよ、そいつを元通りに返すとすると、どうしても午後十時になる」
「へえ、中身をネ」老人は訝かしそうに呟いた。「中身というと、あの酸の入っている……」
「そうさ、酸を或る所へ持っていったのさ。買ったからにゃ、宝ものは私のものだからネ」
「そういえばカンカン寅の一味も、あの中身をソックリつけてと云っていたよ。こいつは変だぞ。……オイ政どん、噂に聞くと、あのカンカン寅が銀座の金塊を盗みだしたというが、お前は昨日、あの建物にカンカン寅が隠してあった九万円の金塊を探しだして、搬びだしたんだナ」
「金塊は無かったよ」と私は朗かに云った。「金塊どころか、金の伸棒も入っていなかったことは、警官たちが一々検査して認めているよ」
「ほほう、そのとき警官が立ち会ったのかい」
「立ち会ったともさ。何しろその中身はいま警察へ行っているんだぜ」
「へへえ、中身が警察へネ。わしにゃ判らない。一体その酸をどうしようというので……」
「いまに号外が出る。そのとき訳が判るよ」
上一页 [1] [2] [3] [4] [5] 下一页 尾页