「さあ、これでいい。……じゃア、飛びこむのだ」
私たち三人は、抜き足さし足で、この建物の周囲をグルリと廻った。表の大戸は、埃がこびりついていて、動く様子もない。裏手に小さい扉がついていて、敷居に生々しい泥靴の跡がついている。これを引張ったが、明かない。
「いいから、内側へ外して見ろ!」
経験がいかなる場合も、鮮かに物を云った。戸の端がゴトリと内側へ外れた。それに力を得て、グングン圧すと、苦もなく入口が開いた。――内は真暗だ。
懐中電灯の光が動いた。階下には、大きな古樽がゴロゴロ転がっている。その向うには一斗以上も入りそうなそれも大きな硝子壜が並んでいる。ひどい蜘蛛の巣が到るところに掛っている。埃っぽい上に、なんだか鼻をつくような酸っぱい匂いがする。しかし犯人らしい人影は見えない。
「じゃあ、おれは入って見る」と折井刑事は低声で云った。「山城君はここで番をして居給え」
「うん」
「私もお供しましょう」と申し出た。
「そうか。……だが危いぞ。おれはピストルを持っているけれど……」
「なーに、平気ですよ」
折井刑事と私とは、一歩一歩用心しながら建物の中に入った。樽の間を探してみたが、何も居ない。――刑事は頤をしゃくった。その方角に梯子段が斜めに掛っていた。
(階段をのぼるのだな)
と私は思った。そのとき突然に、刑事の懐中電灯が消えた。
階段を一歩一歩、息を殺し、足音を忍んで上っていった。いまにも何処かの隅から、ピストルが轟然と鳴りひびきそうだった。
そのとき、折井刑事が私の腕をひっぱった。そして耳の傍に、やっと聞きとれる位の声で囁いた。
「二階に手が届くようになったから、一度懐中電灯をつけて見る。ピストルの弾丸が飛んでくるかも知れないが動いちゃいけない。その後で懐中電灯を消すから、その隙に階上へとびあがるのだ。わかったかネ」
私は低声で「判りました」と返事した。私を縛ろうとした刑事と、同じ味方となって相扶け相扶けられながら殺人鬼に迫ってゆくのだ。なんと世の中は面白いことよ。
折井刑事が、また一段上にのぼった。するとサッと一閃、懐中電灯が二階の天井を照した。灯は微かに慄えながら、天井を滑り下りると、壁を照らした。それから四囲の壁を、グルグルと廻った。――しかし予期した銃声は一向鳴らない。途端にパッと灯が消えた。
(今だ!)
私は階上に駈け上った。その拍子に、いやというほど、グラグラするものに身体をぶっつけた。見当を違えて、樽にぶっつかったものらしい。
十秒、十五秒……。
パッと懐中電灯が点った。しかし何も音がしない。
(さては、自分の思いちがいだったのか)
私はイライラしてきた。
「さあ、こんどは君がこいつを持って」と刑事は私に懐中電灯を握らせ「先へ立って、この部屋を廻って呉れ。危険だからネ」そういって彼はピストルで敵を撃つ真似をした。
私は電灯を静かに横へ動かした。部屋には階下同様、大きな硝子壜だの、樽だのが並んでいた。しかし階下には無かった変な器械が一隅を占領していた。それは古い化学工業の原書にあるようなレトルトだの、耐酸性の甕だの、奇妙に曲げられた古い硝子管だのが、大小高低を異にした架台にとりつけられていたのだった。
(さてはこの建物は、強酸工場と倉庫とを兼ねているんだな)
と私は気がついた。これは横浜へ明治年間に来た西洋人が、その頃日本に珍らしくて且つ高価だった硫酸や硝酸などを生産して儲けたことがあるが、それに刺戟せられて、雨後の筍のように出来た強酸工場の名残なのだ。恐らく震災で一度潰れたのを、また復活させてみたが、思わしくないので、そのまま蜘蛛の棲家に委ねてしまったものだろう。それにしても……。
と、突然に、後方にガタンと樽の倒れる音がした。ハッと振りかえる間も遅く、飛び出した黒い影が飛鳥のように階段を駈け下りた。
「待てッ」
折井刑事は叫び声をあげるが早いか、怪影を追跡して、階段の下り口へ突進した。そして転がるように、駈け下りた。
激しい叫喚と物の壊れる音とがゴッチャになって、階下から響いてきた。出口にいた城山刑事に遮られて、怪漢は逃げ場を失い、そこで三人入乱れての争闘が始まっているのであろう。
しかし私は、懐中電灯を持ったまま、じっと階上の部屋に立ち尽していた。目の前にある何に使うとも知れない化学装置が、ひどく私の心を捉えたのだった。それは奇妙な装置でもあったが、私の興味を惹いたのは、それが奇妙なことよりも、むしろ生々しい感じがしたからだった。室内は荒れ果て、樽は真白な埃にまみれ、天井には大きい蜘蛛の巣が懸っているという古めかしさの中に、その化学装置ばかりは、埃のホの字も附着していなかったからであった。
私は事件の謎が、正しくこの場に隠されていることを感づいた。
「よしッ。この秘密を解かずに置くものかッ」私は腕ぐみをしたまま、石のように、何時までも立ち尽したのだった。
怪しき取引
その次の日の夕方、私は同じ伊勢佐木町で、素晴らしい晩餐を執っていた。前日と違っているところは、連れが一人あることだった。壮平爺さんという頗る風采のあがらぬ老人が、私の客だった。
「ほんに政どん」と壮平爺さんは眼をショボショボさせて云った。「あんたに巡りあわなければ、今頃わしゃ首をくくっていたかも知れん。あのカンカン寅が、人殺しの嫌疑でお上に捕ったと聞いたときは、どうしてわしゃ、こうも運が悪いのかと、力もなにも一度に抜けてしまってのう」
カンカン寅というのは例の仙太の親分に当る男で、昨夜あの海岸通の古建物で、折井山城の二刑事に捕った怪漢のことだった。彼は始め階上に潜んでいたが、私たちをうまくやり過ごしたところで階段を下りて逃げだしたが、出口に頑張っていた山城刑事に退路を絶たれ、逡ろぐところを追いすがった折井刑事に組みつかれ、そこで大乱闘の結果、とうとう縛についたというわけだった。二人の刑事は、案の定大手柄を立てたことになった。その悦びのあまり、一旦不審を掛けた私だったが、何事もなく離してくれたのだった。
しかし捕えたカンカン寅というギャングの顔役は、当局の訊問に対して、思うような自白をしなかった。彼の手先である赤ブイの仙太殺しの一件を追求しても、首を横に振るばかりか、例の証拠をさしつけても一向恐れ入らなかった。かねがね手強い悪党だとは考えていたが、あまりにもひどく否定しつづけるので、係官もすこし疑問を持つようになったと、きょう折井刑事が不満そうに語ったことだった。
それに引きかえ、カンカン寅捕縛と共に、明かな失望を抱いたのは、この壮平爺さんだった。彼はあの古い建物の持ち主だった。彼は本牧で働いている彼の一人娘清子を除いては、この古い建物が彼の唯一の財産だった。ところで壮平爺さんは、目下大変な財政的ピンチに臨んでいるのだった。それは先年、ついウカウカと高利貸の証文に連帯の判を押したところ、その借主がポックリ死んでしまって、そのために気の毒にも明日が期限の一千円の調達に老の身を細らせているのだった。下手をすれば、娘の清子を棲みかえさせて、更に莫大な借金を愛児の上に掛けさせるか、それとも首をくくって死ぬより仕方がなかったのだった。詮方なく、物は相談と思い、カンカン寅の許を訪ね、あのボロボロの建物を心ばかりの抵当ということにして(あれでは二百円も貸すまいと云われた)、一千円の借金を申込んだ。
寅は何と思ったか、それを二つ返事で承知して、壮平爺さんを帰らせた。それは今から一月前のことだった。しかしカンカン寅は一向に金の方は渡す様子がない。それで催促にゆくと、期限の前日までに渡してやろうという話だった。ところが明日が約束の日という昨夜になって、カンカン寅が突然警察へ監禁されてしまったので、爺さんは失心せんばかりに駭いた。顔色を変えてカンカン寅の留守宅へ行って、いままでの事情を話すと共に、この際是非に融通を頼むと歎願をした。しかし留守を預る人達は、老人の話を鼻であしらって追いかえした。親分がこんなになっていて、そんなことが聞かれると思うか、いい年をしやがってという挨拶だった。
心臓が停まるほど驚いた壮平爺さんは、泣く泣く我が家へ帰っていった。路々、この上は娘に事情を云って新しい借金を負わせるか、さもなければ首をくくろうかといずれにしても悲壮な肚を決めかけていたところへ、私が背後から声をかけたのだった。爺さんとは、私が少年時代からの知り合いの仲だった。――と、まアこういう訳だった。
「じゃあ爺さん。私がカンカン寅に代って、あれを千円で譲りうけようと思うが、どうだネ」
と、事情を訊いた私は、相談を持ちかけた。
「えッ。あんたが、代って千円を」爺さんは目を瞠って云った。
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