幻影の静止仏
(水牛仏がふりまわしているあの青竜刀は、本当に斬れそうだな。しかし、まさか顔子狗は、わざわざあそこへ首を持っていったわけではないのだ。こっちで斃れていたんだからなあ)
帆村は、興味ありげな顔付で、じっと水牛仏が、右へ払った青竜刀を瞶めた。帆村は、その青竜刀が、高さからいうと、ちょうど、人間の首の高さにあり、その刃は水平に寝ているのが気になった。
(なるほど。すると、この人形が、このまま一まわりぐるっと廻転したとすると、あの青竜刀はここに立っている人間の首をさっと斬り落せるわけだ。してみると……)
帆村は、長老の傍へいって、
「長老、あの水牛仏は動きだしませんかね。いや、ぐるぐると廻転しませんかね」
長老は、それを聞くと、かっと眼を剥いたが、次の瞬間には、口辺に笑みを浮べ、
「とんでもない。人形が動いたり廻ったりしてはたいへんだ。傍へいって、よく調べたがいいじゃろう」
「調べてもいいですか。あなたは、困りゃしませんか」
「あの人形が動いているのを見た人があったら、わしは水牛の背に積めるだけの銀貨を呈上する」
「本当ですな、それは……」
「くどい男じゃ、早く調べてみたがよかろう」
帆村は頷いて、後をふりかえると、水牛仏に、じっと目を注いだ。
そのとき、室内が、俄に明るくなった。天井の水銀灯が、煌々と点火したのであった。
「誰だ、照明をかえたのは……」
「照明は、自然にかわるような仕掛になっているのじゃ」
長老が返事をした。しかし帆村は、長老がひそかに廻廊の柱に手をかけて、ちょっと押したのを見落しはしなかった。
(へんなことをしたぞ。とたんに照明がかわったところを見ると、あの柱に、照明をきりかえるスイッチがついているのかもしれない)
煌々たる青白い光線が、室内を真昼のように照らしつける。水牛仏の顔が、一段と奇怪さを増した。
帆村探偵は、つかつかと水牛仏の方へ近づこうとしたが、そのとき、何に愕いたか、
「呀っ」
と、低く叫んだ。
「おい、その棒を貸せ」
帆村は、後を振返って、傍に立っていた番人の手から、棒を受取った。
「さあ、皆、僕に注意していてください」
そういったかと思うと、帆村は、その場に跼んだ。そして跼んだまま、そろそろと水牛仏の方へ歩きだした。
「この棒に注意!」
帆村は、跼んだまま棒を高く差上げた。そして、しずかに水牛仏の前に近づいていった。一同は、声をのんだ。
風間三千子だけは、帆村が何を見せようとしているかを感づいた。
ぴしり。
高い金属的な音がした。と思った刹那、帆村の差上げていた棒は、真二つに折れた。なぜ棒が折れたのか、一同にはわけが分らなかった。何にもしないのに、折れるというのはおかしいのだ。しかし棒はたしかに、真二つに折れた。
帆村は跼んだまま、後に振り返った。
「見えましたね。この太い棒が、鋭い刃物で斬られると同じように、切断されたのです。棒の切口の高さを目測してください。もしも僕が、こうして跼まないで、直立したまま真直こっちへ歩いて来たとしたら、この棒の代りに、僕の細首が、見事に切断されてしまった筈です。どうです、お分りですかな」
委員たちは、首を左右に振った。帆村の首が切断されたらということは分るが、なぜ、そうなるのか分らなかった。
「棒を切ったのは、鋭い刃物です。その刃物は、皆さんの目には見えないと思うでしょう。ところが、ちゃんと見えているのですよ。この水牛仏が手にしている大きな青竜刀――これが、今この棒を叩き斬ったのです」
「おい君。そんな出鱈目をいっても、誰も信用しないよ」
長老陳程が、憎まれ口をきいた。
「出鱈目だというのか。じゃ、君は、立ったまま、ここまで来られるか」
「行けないで、どうするものか」
「えっ、ほんとうか。危い、よせ!」
帆村が叫んだときは、もう遅かった。
長老は、つかつかと帆村の方へ駈けだした。
「ああッ」
次の瞬間、長老陳程の首は、胴を放れていた。そして鈍い音をたてて、床の上に転った。
「あ、危い。誰も近よってはいけない。われわれの目には見えないが、この水牛仏は、青竜刀を手にもったまま、独楽のように廻転しているのだ。生命が惜しければ、誰も近よってはいけない」
帆村は、そういうと、跼んで、一同のところへ引返してきた。
一同は、急に不安に襲われ、帆村より先に、前室へ逃げだそうとしたが、そこを動けば、また自分の首が飛ぶのじゃないかという恐れから、どうしていいか分らず、結局その場にへたへたと坐りこんでしまった。
ふしぎな残像
「風間さん。あれは、人間の眼が、いかに残像にごま化されているかという証明になるのですよ」
事件のあとで、帆村は風間三千子の質問に応えて、重い口を開いた。
「残像にごま化されているといいますと……」
「つまり、こうですよ。今、目の前に、回転椅子を持ってきます。僕がこれを、一チ、二イ、一チ、二イと、ぐるぐる廻します。そこであなたは、目を閉じていて、僕が、一とか二とかいったときだけ、目をぱっと開いて、またすぐ閉じるのです。つまり、一チ二イ一チ二イの調子にあわせて、目をぱちぱちやるのです。すると、この椅子が、どんな風に見えますか。ちょっとやってみましょう」
帆村は、廻転椅子を三千子の前において、それに手をかけた。
「さあ始めますよ。調子をうまく合わせることを忘れないで……。さあ、一チ、二イ、一チ、二イ、……」
三千子は、いわれたとおり、調子をあわせて、目をぱちぱちと開閉した。
「三千子さん、椅子は、どんな具合に見えましたか」
「さあ――」
「椅子は、じっと停っていたように見えませんでしたか」
「あ、そうです。椅子は、いつも正面をじっと向いていました。ふしぎだわ」
「そうです。それで実験は成功したのです。つまり、僕は椅子を廻転させましたが、あなたには、椅子がじっと停っているように見えたのです。これは、なぜでしょうか。そのわけは、あなたは、僕の号令に調子を合わせたため、椅子がちょうど正面を向いたときだけ、ぱっと目をあけて椅子を見たことになるのです。だから、椅子は、じっとしていたように感ずるのです」
「まあ、ふしぎね」
「そこで、あの恐しい水牛仏のことですが、あれも青竜刀をもって、ぐるぐる廻転していたのです。とても、目にもとまらない速さで廻っていたのです。しかしちょっと見ると、じっと静止しているように見えるのです」
「そう見えましたわ。でも、あたしたちは、誰も、目をぱちぱち開閉したわけではありませんわ」
「もちろん、そうです。しかし目をぱちぱち開閉するのと同じことが行われていたのです」
「同じことが行われていたというと……」
「水銀灯がつきましたね。あの水銀灯が、非常な速さで、点いたり消えたりしていたのです。しかも、水牛仏の廻転と、ちょうど調子が合っていたのです。つまり、水牛仏が正面を向いたときだけ、水銀灯は点いて、あの部屋を照らしたのです。だから、水牛仏は、廻転しているとは見えないで、いつも正面をじっと向いていたように見えたのです。お分りになりますか」
「ええ。それは、そうなりそうですけれど、しかしあたしは、あの水銀灯が、別に点滅しているように感じませんでしたわ」
「それは、人間の眼が残像にごま化されるからです。あなたは、普通の電灯が、明るくなったり暗くなったり、ちらちらしているように感じますか」
「いいえ。電灯は、いつも明るいですわ」
「ところが、あの電灯も、実は一秒間に百回とか百二十回とか、明暗をくりかえしているのです。しかし人間の眼は、大体一秒間に十六回以上明滅するちらつきには感じがないのです。本当は明滅するんだけれど、明滅するとは感じないのです。映画でも、そうですよ。あれは、一秒間に十六齣とか二十齣とかの規定があって、画面がちょうどレンズの前に一杯に入ったときだけ、光源から光がフィルムをとおして、映写幕のうえにうつるのです。その間は、映写幕は、まっくらなんですが、人間の眼には残像がしばらく残っているから、画面がちらちらしない。だから、フィルムをうんと遅く廻すと、画面がちらついて見えます」
「そのお話で、いつだか教わった映画の原理を思い出しましたわ」
「それが分れば、しめたものです。猛烈な勢いで廻転している水牛仏が、あたかも、じっと静止しているように見えるわけがわかったでしょう。分らなければ、今の廻転椅子のことを、もう一度思い出してください」
「やっと、分ったような気がしますわ。しかし水牛仏の前を通った人で、首を斬り落とされなかった人が沢山あるのじゃないでしょうか」
「そうです。赤色灯のついているときは、安全なんです。そのときは、水牛仏は静止しているのです。そして水銀灯に切り替ると、水牛仏が廻転を始めるのです」
「あの水牛仏が、廻りだしたことが、よくお分りになったものね。危かったわ」
「いや、本当に危いことでしたが、僕にそれを知らせてくれたのは、煙草でしたよ」
「煙草?」
「そうなんです。長老陳程に叱られて、僕が捨てた煙草は火のついたまま、真直に煙をあげていたのです。その煙が、急に乱れたので、僕は、はっと気がついたんです。尤も、それまでに、あの水牛仏の人形が、或いは廻りだすのじゃないかと疑いをもっていたが、煙草を捨てた直後には、煙がしずかにまいのぼるのを見たので、そのときは人形が動いていないことを知ったのです」
「そのときは、まだ赤色灯がついていたのですね」
「そうなんです。――そうそう、いいわすれましたが、自殺した長老陳程は、われわれにとっては悪い奴でしたが、永く某国で働いていた機械工だそうです。顔子狗を私刑したことから、はからずも一件の仕掛がばれて、彼の運命が尽きてしまったというわけです。
科学を悪用する不心得者の末路は、いつもこのように悲惨ですよ」
そういって、科学者の探偵帆村荘六は、彼の愛好惜まない紙巻煙草の金鵄に、又火をつけたのであった。
●表記について
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