遥か後方にはいたが、風間三千子は、煌々たる水銀灯の下で演ぜられた、この椿事を始めから終りまで、ずっと見ていた。いや、見ていただけではない。
(あ、あの人が危い!)
と思った瞬間、彼女は、ハンドバックの中に手を入れるが早いか、小型のシネ撮影器を取り出し、顔子狗の方へ向け、フィルムを廻すための釦を押した。煌々たる水銀灯の下、顔子狗の最期の模様は、こうして極どいところで、彼女の器械の中に収められたのであった。
自分でも、後でびっくりしたほどの早業であった。職務上の責任感が、咄嗟の場合に、この大手柄をさせたものであろう。
だが、彼女は、さすがに女であった。顔子狗の身体が、地上に転ってしまう、とたんに、気が遠くなりかけた。
もしもそのとき、後から声をかけてくれる者がいなかったら、女流探偵は、その場に卒倒してしまったかもしれないのだった。
だが、ふしぎな早口の声が、彼女の背後から、呼びかけた。
「おっ、お嬢さん、大手柄だ。しかし、早くこの場を逃げなければ危険だ」
「えっ」
三千子は、胆を潰して、はっと後をふりかえった。しかし、そこには誰も立っていなかった。いや、厳密にいえば、青鬼赤鬼が、衣をからげて、田を耕している群像が横向きになって立っていたばかりであった。
だが、どこからかその声は又言葉を続けるのであった。
「お嬢さん。おそくも、あと五分の間に、裏口へ出なければだめだ。知っているでしょう、近道を選んで、大急ぎで、裏口へ出るのだ。扉が開かなかったら、覗き窓の下を、三つ叩くのだ。さあ急いで! 彼奴らに気がつかれてはいけない!」
その早口の中国語は、どこやら聞いたことのある声だった。だが彼女は、それを思い出している遑がなかった。
「ありがとう」一言礼をいうと、彼女は、一旦後へ引きかえし、宙で憶えている近道をとおって、一目散に裏口へ走った。そして扉をどんどんどんと叩いて、ようやく鬼仏洞の外へ飛び出すことが出来た。
空は、夕焼雲に、うつくしく彩られていた。彼女は、鬼仏洞に、百年間も閉じこめられていたような気がした。
帆村探偵登場
特務機関長が、最大級の言葉でもって、風間三千子の功績を褒めてくれたのは、もちろん当然のことであった。
「ああ、これで新政府は、正々堂々たる抗議を○○権益財団に向けて発することができる。いよいよ敵性第三国の○○退却の日が近づいたぞ」
そういって、特務機関長は、はればれと笑顔を作った。
「抗議をなさいますの。鬼仏洞は、もちろん閉鎖されるのでございましょうね」
「やがて閉鎖されるだろうねえ。しかし、今のところ、抗議をうちこむため、鬼仏洞は大切なる証拠材料なんだ。現場へいった上で、あなたが撮影した顔子狗の最期の映画をうつして見せてやれば、何が何でも、相手は恐れ入るだろう」
特務機関長は、もうこれで、すっかり前途を楽観した様子である。
その翌日、新政府は、○○権益財団に向けて、厳重なる抗議文を発した。
“わが政府は、○○の治安を確立するため、同地に、警察力を常置せんとするものである。之につき、わが警察力は実力をもって、第一に、鬼仏洞を閉鎖し、第二に、鬼仏洞内にて殺害されたるわが忠良なる市民顔子狗の死体を収容し、第三に、右の顔殺害犯人の引渡しを要求するものである”
といったような趣旨の抗議文であった。
ところが、相手方は、これに対し、まるで木で鼻をくくったような返事をよこした。
“○○の治安は、充分に確保されあり、鬼仏洞内に殺人事件ありたることなし”
これではいけないというので、新政府は、更に強硬なる第二の抗議書を送り、且つその抗議書に添えて、風間三千子が撮影した顔子狗の最期を示すフィルムの一齣を引伸し写真にして添付した。
これなら、相手方は、ぎゃふんというだろうと思っていたのに、帰って来た返事を読むと、
“なるほど、洞内に於て、何某が死亡しているようであるが、その写真で明瞭であるとおり、何某から五六メートルも離れた位置より、彼等の内の何人たりとも何某の首を切断することは不可能事である。況んや、彼等の手に、一本の剣も握られていないことは、この写真の上に、明瞭に証明されている。理由なき抗議は、迷惑千万である”
とて、真向から否定して来たのであった。
なるほど、そういえば、相手方のいうことも、一理があった。
だが、一旦抗議を発した以上、このまま引込んでしまうことは許されない。そこでまた、相手方の攻撃点に対して、猛烈な反駁を試みた。
そのような押し問答が二三回続いたあとで、ついに双方の間に、一つの解決案がまとまった。それはどんな案かというのに、
“では、鬼仏洞内の現場に於て、双方立合いで、検証をしようじゃないか”
ということになって、遂に決められたその日、双方の委員が、鬼仏洞内で顔を合わすこととなった。
新政府側からは、八名の委員が出向くことになったが、うち三名は、特務機関員であって、風間三千子も、その一人であった。
その朝、新政府側の委員五名が、特務機関へ挨拶かたがた寄ったが、三千子は、その委員の一人を見ると、抱えていた花瓶を、あわや腕の間からするりと落しそうになったくらいであった。
「まあ、あなたは帆村さんじゃありませんか」
帆村というのは、東京丸の内に事務所を持っている、有名な私立探偵帆村荘六のことであった。彼は、理学博士という学位を持っている風変りな学者探偵であって、これまでに風間三千子は、事件のことで、いくど彼の世話になったかしれなかった。殊に、仕事中、彼女が危く生命を落しそうなことが二度もあったが、その両度とも、風の如くに帆村探偵が姿を現わして、危難から救ってくれたことがある。
そういう先輩であり、命の恩人でもある帆村が、所もあろうに、大陸のこんな所に突然姿を現わしたものであるから、三千子が花瓶を取り落としそうになったのも、無理ではない。
帆村は、にこにこ笑いながら、彼女の傍へよってきた。
「やあ、風間さん、大手柄をたてた女流探偵の評判は、実に大したものですよ。それが私だったら、今夜は晩飯を奢ってしまうんですがねえ」
「あら、あんなことを……」
「いや、遠慮なさることはいらない。何しろあの場合の、咄嗟の撮影の早業なんてものは、人間業じゃなくて、まず神業ですね」
「おからかいになってはいや。で、帆村さんは、政府側の委員のお一人でしょうが、どんなお役柄ですの」
「僕ですか。僕はその、戦争でいえば、まあ斥候隊というところですなあ」
「斥候隊は、向こうへいって、どんなことをなさいますの」
「そうですねえ。要するに、斥候隊で、敵の作戦を見破ったり、場合によれば、一命を投げだして、敵中へ斬り込みもするですよ」
「まあ、――」
といったが、三千子は、帆村の身の上に、不吉な影がさしているように感じて、胸が苦しくなった。
鬼気せまる鬼仏洞内での双方の会見は、お昼前になって、ようやく始まった。尤も明り窓一つない洞内では昼と夜との区別はないわけである。
○○権益財団側からは、やはり同数の八名の委員が出席したが、その外に、前には姿を見せなかった鬼仏洞の番人隊と称する、獰猛な顔付の中国人が、太い棒をもって、あっちにもこっちにもうろうろしていた。
いよいよ交渉が始まった。
相手方から、背のひょろ高い一人の委員が、一番前にのりだしてきて、
「わしは、この鬼仏洞の長老で、陳程という者だ。お前さん方は、この鬼仏洞の治安が乱れているとか、中で善良な市民が謀殺されたとか、有りもしないことを、まことしやかにいいだして、わが鬼仏洞にけちをつけるとは、怪しからん話だ」
と、始めから、喧嘩腰であった。
三千子は、後から、その長老陳程と名乗る男の顔を一目見たが、胸がどきどきしてきた。この長老こそ、先日顔子狗たちを連れて各室を廻っていた莫迦笑いの癖のある案内役であることを確認したからである。
彼女は、そのことを帆村にそっと告げようとしたが、その前に帆村は、前へとび出していた。
「やあ、陳程委員さん、私は帆村委員ですがね、こんなところで押し問答をしても仕方がない。現場へいって、常時の模様をよく説明してください」
「現場かね。現場は、ちゃんと用意ができている。すぐ案内をするが、あなた方は、洞内の規定を守ってもらわなければならん。第一、わしの許可なくして、物に手を触れてはならない。第二、煙草をすってはならない。第三に……」
「そんなことは常識だ。さあ、現場へ案内してください」
一同は、やがて問題の第三十九号室に、足を踏み入れた。
室内の様子は、前と同じで室内には例の赤色灯が点いていた。ただ、顔子狗の斃れていたところには、白墨で人体と首の形が描いてあることが、特筆すべき変り方であった。三千子は、あの日のことを、まざまざと思い出した。あやしい振動が、足の裏から、じんじんじんと伝ってくるような気がした。
「……顔の自殺死体のあったのは、あそこだ。われわれは四五メートル離れたこのへんに固っていた。これは、お前方の提供した写真にも、ちゃんとそのように出て居る」
陳程長老は、手にしていた白墨で、欄干の下に、大きな円を描いて、
「こんなに遠くへ離れていて、顔の首を斬ることは、手品師にも、出来ないことじゃ。それとも出来るというかね。はははは」長老は、勝ち誇ったように笑った。
帆村探偵は、別に周章てた様子も見せなかった。彼は、長老の方に尻を向けて、顔の倒れていた場所へ近よった。
「ほう、ちょうどこの水牛仏の前で、息を引取ったんだな。水牛仏に引導を渡されたというわけか。すると顔は、丑年生れか。ふふふん」
帆村は、いつもの癖の軽口を始めた。そして手にしていた煙草を口に啣えて、うまそうに吸った。
「おい、こら。煙草は許されないというのに。さっき、あれほど注意しておいたじゃないか」
長老陳程が、顔を赤くして、とんできた。
「ほい、そうだったねえ」
帆村は、煙草を捨てた。火のついた煙草は、しばらく水牛仏の傍で、紫煙をゆらゆらと高く、立ちのぼらせていた。
そのとき帆村は、なぜか、その煙の行手に、真剣な視線を送っていた。
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