何のことだと、つづいて第二号室に足を踏み入れた三千子は、思いがけなく眩しい光の下に放りだされて、目がくらくらとした。
瞳をよく定めて、その部屋を見廻すと、なるほど、これは鬼仏洞へ来たんだなという気が始めてした。横へ長い三十畳ばかりのこの部屋には、中央に貴人の寝台があり、蒼い顔をした貴人が今や息を引取ろうとしていると、その周囲にきらびやかな僧衣に身を固めた青鬼赤鬼およそ十四五匹が、臨終の貴人に対して合掌しているという群像だった。像はすべて、等身大の彫刻で、目もさめるような絵具がふんだんに使ってあって、まるで生きているように見えた。
赤鬼青鬼の合掌は、一体何を意味するのであろうか。三千子は、気をのまれた恰好で、唖然としてその前に立っていた。
するとそのとき、どやどやと足音がして、一団の人が入ってきた。見ると、それは、逞しい身体つきの、中年の中国人が六七名、いずれも袖の長い服に身を包んでいた。彼等は、三千子よりも遅れて、この鬼仏洞を参観に入ってきたものらしい。
「さあ、いよいよこれが鬼導堂です。赤鬼青鬼が引導を渡して、貴人がこれから極楽往生を遂げるというところ。人形のそばへよってごらんなさい。よく見ていると、息が聞えるようだ。はははは」
案内役らしい背のひょろ高い男が、一行を振りかえって大笑した。
三千子は、この第二号室の人形の意味が分って、なるほどと肯いた。
恐しき椿事
三千子は、それとなく、この一行の後について、各室を巡っていった。案内役の中国人は、一室毎に高まる怪奇な鬼仏の群像にてきぱきと説明をつけるのであった。
三千子は、その説明を聞きたさのあまり、ついて歩いているのであったが、鬼仏の群像には、二通りあって、一つは鬼が神妙らしい顔つきをして僧侶になっているもの、それからもう一つは、顔は阿弥陀さまを始め、気高い仏でありながら、剣や弓矢などの武器を手にして、ふりまわしている殺伐なものと、だいたいこの二つに分けられるのであった。
「仏も、遂には人間の悪を許しかねて、こうして剣をふるわれるのじゃ。はははは」
かの案内人は、説明のあとで、からからと笑う。
あたり憚からぬその太々しい説明をだんだんと聞いていると、この案内人は、この洞に飾ってある鬼仏像の一つが、台の上から下りて来て説明役を勤めているのじゃないかと、妙な錯覚を起しそうで、三千子は困った。
そのうちに、例の時刻が近づいた。南京豆売りの小僧が教えてくれた午後四時半が近づいたのである。三千子は、この一行に分れて、一刻も早く、例の第三十九号室へいってみなければ間に合わないかもしれないと思った。そこで彼女は、一行の前をすりぬけ、かねて勉強しておいた洞内の案内図を脳裏に思い浮べ、最短通路を通って、第三十九号室へとびこんだのであった。
第三十九号室! そこは、どんな鬼仏像が飾りつけてある部屋だったろうか。
そこは、案外平凡な部屋に見えた。
室は、まるで鰻の寝床のように、いやに細長かった。庭には、桃の木が植えられ、桃の実が、枝もたわわになっている。本堂から続いているらしい美しい朱と緑との欄干をもった廻廊が、左手から中央へ向かってずーっと伸びて来ている。中央には階段があって、終っている。その階段の下に、顔が水牛になっている身体の大きな僧形の像が、片足をあげ、長い青竜刀を今横に払ったばかりだという恰好をして、正面を切っているのであった。人形はそれ一つであった。この人形の前を通りぬけると、すぐその向うに次の部屋へいく入口が見えていた。
(この室で、やがて誰か死ぬって、本当かしら)
と、三千子は、桃の木の傍で、首をかしげた。一向そんな血醒い光景でもなく、青竜刀を横に払って大見得を切っている水牛僧の部が、むしろ間がぬけて滑稽に見えるくらいであった。いくぶん不安な気を起させるものといえば、この部屋の照明が、相当明るいには相違ないが、淡い赤色灯で照明されていることであった。
そのときであった。隣室に人声が聞え、つづいて足音が近づいて来た。
(いよいよ誰か来る)
時計を見ると、もう二三分で、例の午後四時三十分になる。すると、今入ってくる連中の中に死ぬ人が交っているのであろう。三千子は、その人々に見られたくないと思ったので、人形と反対の側の入口の蔭に、身体をぴったりつけた。
すると、間もなく見物人は入ってきた。見れば、それは先程の五六人連れの中国人たちであったではないか。
(やっぱり、そうだった)
三千子は、心の中に肯いた。部屋部屋を、順序正しく廻ってくれば、この一行は、まだもっと遅れ、二三十分も後になって、この部屋へ巡ってくる筈だった。ところが、例の不吉な定刻にわざわざ合わせるようにして、この第三十九号室へ入ってきたというところから考えると、いよいよこの中の誰かが、死の国へ送りこまれるらしい。これは自然な人死ではなく、たしかにこれは企まれたる殺人事件が始まるのにちがいないと、風間三千子は思ったのであった。
一行が、この部屋に入り、人形の方に気をとられている間に、三千子は、入口をするりと抜け、その一つ手前の隣室、つまり第三十八号室へ姿を隠したのだった。そして入口の蔭から、第三十九号室の有様を、瞬きもせず、注視していた。
「これは、水牛仏が、桃盗人を叩き斬ったところですよ。はははは」
案内役は、とってつけたように笑う。
「水牛仏はこの人形だろうが、桃盗人が見えないじゃないか」
と、一行の中の、布袋のように腹をつきだした中国人がいった。
「や、こいつは一本参った。この鬼仏洞のいいつたえによると、たしかにこの水牛仏が、青竜刀をふるって、桃盗人の細首をちょん斬ったことになっとるのじゃが、どういうわけか、始めから桃盗人の人形が見当らんのじゃ」
「それは、どういうわけじゃ」
「さあ、どういうわけかしらんが、無いものは無いのじゃ」
「こういうわけとちがうか。この鬼仏洞の中には、何千体か何万体かしらんが、ずいぶん人形の数が多いが、桃盗人の人形は、どこかその中に紛れこんでいるのと違うか」
「あー、なるほど。なかなかうまいことをいい居ったわい。はははは。しかしなあ、紛れ込んどるということは、絶対にない。もう何十年も何百年も、毎日毎日人形の顔はしらべているのじゃからなあ。それに、その桃盗人の人形の人相書というのが、ちゃんとあるのじゃ」
「本当かね」
「本当じゃとも、その桃盗人の人相は、まくわ瓜に目鼻をつけたる如くにして、その唇は厚く、その眉毛は薄く、額の中央に黒子あり――と、こう書いてあるわ。まるで、そこにいる顔子狗の顔そっくりの人相じゃ。わはははは」
「あははは、こいつはいい。おい、顔子狗、黙っていないで何とかいえよ」
「……」
顔子狗と呼ばれた男は、無言で、ただ唇と拳をぶるぶるとふるわせていた。そのときである。どうしたわけか、室内が急に明るく輝いた。急に真昼のように、白光が明るさを増したのであった。人々の面色が、俄かに土色に変ったようであった。これは天井に取付けてあった水銀灯が点灯したためであったが、多くの人は、急にはそれに気がつかなかった。
「やよ、顔子狗。なんとか吐かせ」
「それで、わしを嚇したつもりか、盗人根性をもっているのは、一体どっちのことか。おれはもう、貴様との交際は、真平だ」
そういって顔子狗は、さっさと、向うへ歩みだした。
「おい顔子狗よ」と例の案内役が、後から呼びかけた。
「お前とは、もう会えないだろう。気をつけて行け。はははは」
「勝手に、笑っていろ」
顔子狗は、捨台辞をのこして、一行の方を振りかえりもせず、すたすたと、水牛仏の前をすり抜けようとした――その瞬間のことであった。
「呀っ!」
顔の身体は、まるで目に見えない板塀に突き当ったように、急に後へ突き戻された。とたんに彼は両手をあげて、自分の頸をおさえた。が、そのとき、彼の肩の上には、もはや首がなかった。首は、鈍い音をたてて、彼の足許に転った。次いで、首のない彼の身体は、俵を投げつけたように、どうとその場に地響をうって倒れた。
一行は、群像のようになって、それより四五メートル手前で、顔子狗のふしぎなる最期に気を奪われていた。
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