サイゴン港
虎船長の説得が、功を奏して、さしもの平靖号の若者たちも、別人のように、しずかになった。
竹見水夫も、妙にはにかんだようなかおをして、ふたたびノーマ号への使者となって、ボートにのって出かけた。
船長ノルマンは、竹見の口上をきいて、わがことなれりと、大よろこびだ。
「うわっはっはっ。はじめから、あっさり、それを承知すればいいのに。つまらんことで、いい加減、手数をかけやがった。さあ、おくれた船足をとりかえして、先へいそごうぜ」
「はい、はい。心得ました」
一等運転士は、操舵当番へ、大ごえで進航命令を下した。それと同時に、平靖号へも、全速力で、ノーマ号の先登に立って、ドンナイ河の河口をさかのぼるようにと、信号旗を出した。
目的地のサイゴン港は、ドンナイ河をさかのぼること六十キロのところにある。つまり、陸岸にはさまれた河のみなとで相当まがりくねっている。だから、港の中は、たいへんおだやかである。軍港はすこしはなれたところにあるが、こっちの港には、大小おびただしい数の汽船が、安心し切ってぎっしりと舷と舷とをよせ合って、碇泊している。
平靖号は、後から監視の目を光らせているノーマ号からの指令にしたがって、なにごとにもさからわず、命令どおり忠実に港へ入っていった。連日みたし切れないむねを持てあましていた平靖号の船員たちも、異色ある亜熱帯地方の風物が、両岸のうえにながめられるようになって、すこしばかし、なぐさめられた。
「いよいよ、やってきたぜ。あれみろ、妙なかっこうの寺院みたいなものが見えらあ」
「ふん、あれはノートル・ダムだろう。おれたち俘虜ども一同そろって、はやく武運をさずけたまえと、おいのりにいこうじゃないか」
「やかましいやい。捕虜だなんて、おもしろくねえことを、いうもんじゃない」
そのうちに、両船は相前後して、投錨した。お互いに、すねにきずをもっていることとて、仏官憲の臨検を、極度に気にした。だが、そこはどっちも、相当のしたたかもののことだから、なんとかかんとかいって、うまく仏官憲を丸めて、退船してもらった。狐と狸とで、同じ人間を化かしっこしたようなものだった。臨検官は、御丁寧にも二重に化かされていながら、なんにも気がつかないというのだから、まことに御苦労さまな次第だった。
怪人ポーニンが、平靖号にのりこんできたのは、その夜ふけてのことだった。
丁度虎船長は、明日積荷を売るについて、その準備に、帳簿と書類の間にうずもれて、きりきりまいの最中だった。そこへ、当直の二等運転士が、注進のため、船長室へとびこんできた。
「船長。いよいよ来ましたぜ。船長ノルマンが、七八人ひきつれて、船長に会いたいといってやってきました。竹見の奴も、いけしゃあしゃあと、案内に立っていやがるんです」
「なに、もうノルマン一行が来たか。おい、事務長。ここはいいから、お前がすぐいって、応接しろ」
そういっているところへ、ノルマン以下は、竹見を先に立てて、つかつかと、船長室へふみこんだ。
「おい、竹。どれが船長だ」
竹見は、唇をぎゅっとかんで、無念そうにノルマン船長の命令を、きいている。
「そこにすわっているのが、虎船長です。両脚がないんだから、椅子から下りて、気をつけをしろなどとは、いわないようにねがいますよ」
「ふん、そうか。わしは、足のない船長に、用事をいいつけようとはおもわない。新しい船主のフランス氏も、同じことをいっていられるよ」
ポーニン氏は、眼をぎらぎら光らせながら、虎船長の、こしから下を、見ていたが、
「なるほど、これじゃあ、船長のやくめをやってもらうのは気のどくだ。よろしい。この船は、貨物ぐるみ、一千五百フランで買うことにして、このロロー氏を、新たに船長に任ずる。よいかな、虎船長とやら」
よいもわるいもない。虎船長は、フラン紙幣をうけとって、その代り、船長の服と帽子とを、ロロー氏に手わたした。
「たしかに、引きうけました」
と、ロロー氏は、にこにこがおでいって、虎船長の手をにぎった。ロロー氏というのは、外でもない。警部モロの変名だった。
新船長
「ええ、船主のフランスさま。この船が、つんでいる雑貨は、どのくらいの利益で、売りはらえばいいですかなあ」
警部モロは、虎船長がまだ、しょうちしたともいわないさきから、もう船長気取りで、船主となったポーニンに、相談をかけた。
虎船長も、さすがに、ゆがんだかおで、この場の成行をじっと見おくっているばかりであった。だから、若い船員たちは、或る者は、紙のように白い顔となり、また或る者は朱盆のように、真赤な顔になっていた。一等運転士が、それをしきりに、止めている。
フランス氏を名乗るポーニンは、にやりにやりと、あたりをながめまわし、
「いや、本船の積荷を売りはらうことは、いずれゆっくり、かんがえることにして、まず大いそぎで、この積荷を下ろしてもらいましょう」
「へえ、すぐというと、今夜にもといういみですか」
「そうです。夜分の荷役は、なかなかむずかしいというかもしれないが、やってやれないことはない。さあロロー船長。はじめて船長になったあなたのうでだめしだ。すぐはじめてください」
ポーニン氏は、平靖号の荷を下ろすのを、たいへんいそいでいる様子だ。
「下ろしただけで、いいのですか。そんならやりましょうが、下ろしたあとで、船員たちの労をねぎらう意味で、酒をのませてやってください」
と、新船長さんは、なかなかぬけ目がない。他人のふんどしで、相撲をとるのたぐいであった。
「酒? 酒はのませるが、もっと後のことだ」
ポーニンは、難色をしめした。
「もっと後とは、いつのことですか。酒なんてものは、はやい方がいいのだが……」
「それは、私がゆるしません。酒をのめば、仕事をする力がなくなる。ここはなんでも、私の命令どおり、まず雑貨をいそいで下ろし、それに引きつづいて、セメントをいそいでつみこんだ上で、酒宴をゆるすことにしましょう」
「ははあ、セメントを、はやくつむことが必要なのですね。どうして、そんなにセメントをはやくつみこまなければならないのですか」
警部モロらしい質問のもっていきかたであった。
「それは、こっちに必要があるからだ。そうすれば、ロロー船長、あなたのもうけも、うんとふえる」
そうはいったが、それは返事になっていないようであった。
「私も、大金儲けはしたいですがね」と、警部モロは、わざとにやりと笑顔をつくり「だが、船長となった以上は、船員の厚生福利をかんがえてやらねばなりませんでねえ。まるで牛馬か人造人間のように、部下を使役することは、できません。もっともこれが船火事になったというような非常時なら、べつですがね」
船長ロロー役の警部モロは、下心があって、なかなか怪人ポーニンの意にしたがわない。
ポーニンとしては、ロローに金もはらったことだし、今さら予定を変えることもできないので、だんだん船長ロローにひきずられていく形となった。
「うう、こまったやつだ」
と、ポーニンは首をふって、
「おい船長。われわれは、いま事業のうえで、非常時に立っているのだ」
「どうも、わかりませんね。雑貨をセメントにつみかえることが、なぜ非常時なんですか。私は船長として、部下にたいし、わけのわからないことに、無闇に力を出せとは、命令しかねます」
「どうも、こまったやつだ」
と、さすがの怪人ポーニンも、ここでいらだたしさを、かくすことができなくなってしまった。
「じゃあ、仕方がない。おい、船長ロロー。君だけに、わけをはなそう。他の者は、ちょっと、この部屋から、出ていってくれ」
といって、ポーニンは、虎船長をはじめ余人を、ことごとく去らしめ、そのうえで、なおもこえをひそめて、モロにいうには、
「君、こまるじゃないか。すこしは、こっちのむねの中を察してくれなくちゃ。日ごろ、あたまのいい君にも似合わないぜ」
「一体どうしたというんです。そのわけというのは」
「あべこべに、取調べをうけているようなかっこうだ。いやだね」
と、ポーニンは、あごへ手をやって、
「じつは、こうなんだ。私が今、うけおっている仕事というのは、海の底に、潜水艦の根拠地をつくるという大仕事なんだ」
「ええっ、海のそこに、潜水艦の根拠地を? 一たいそれは、どこの国の計画なんですか」
身辺の危険
怪人物ポーニンと警部モロとの間に、どんな程度のはなしがとりかわされたかは、つまびらかでない。が、とにかく二人は、間もなく平靖号の船長室から、至極仲がよさそうに、すがたをあらわした。
もとの虎船長、つまり虎松となにか無駄話をしていたらしいノーマ号の船長ノルマンは、これを見ると、立ち上って、
「どうしました。荷あげのはなしは?」
といった。ノルマン船長も、ポーニンには一目も二目もおいているらしい様子だ。ポーニンは、にやりと、うす気みわるいわらいをもらし、
「ふふん、どうもこうもない。計画したことは、途中でどんな邪魔がはいろうと、かならずその計画どおりにやりとげるのが私の主義だ」
「すると、すぐ、この平靖号の荷役がはじまるというわけですな」
「もちろん、そのとおりだ。君の船からも、出せるだけの人数を出して手つだわせてもらおうかい。あの方の仕事は、一日でもはやくかからないと間に合わないからね」
「はい、わかりました。では、帰船して、力のあるやつを、できるだけたくさんかり出しましょう」
「うん、そうして呉れ、私も一しょに、君の船へいこう。ほかに、すこし相談したいこともあるから……」
怪人物ポーニンは、警部モロや、虎松以下の乗組員におくられ、船長ノルマンとともに、平靖号を退船した。
あとで、平靖号のうえでの、ひそひそばなし。
「なんだい、あの白人は。いやに、すごい目を光らせていたじゃないか」
「あいつが、この船を買って、セメントをつみこむんだとさ。どうも、この平靖号もおかしなまわりになってきたのう」
「虎船長にもう一度いって、今夜のうちに、サイゴンからずらかることにしちゃ、どうかな」
「そうもなるまい。ノルマンのやつは、どうやらこの土地でも、にらみが利く男らしいから、うっかりしたことはできない。まあ、虎船長のはなしじゃないが、こちとらは時節をまっているんだね」
「どうも、いまいましいあのノーマ号だ」
さだめし、ポーニンとノルマンは、小艇をノーマ号の方へ走らせながら、たびたびくさめを催したことであろう。
そのポーニンとノルマンは、小艇のうえで、ぴったりよりそって、ぼそぼそと、秘密の会話をつづけている。
「とにかく、私の失策だ。どうも、すこし功をいそぎすぎた恰好だ」
そういったのは、ポーニンだった。
「どうもよくのみこめませんが、一体どういうわけで……」
「さあ、それだがねえ、ノルスキー」と、ポーニンは、船長ノルマンのことを、ノルスキーと呼んで、「ちょっと頭脳がきくやつだとおもったから、これは金さえくれてやれば、うまくこっちの役に立つとかんがえたんだ。まさか、そのすじのものとは、おもわなかったよ。つまりあの船長ロローは、そのすじのまわし者にちがいないということが、はっきりしたんだ」
「へえ、おどろきましたな。どうもまずいことになったものだ」
本名ノルスキーの船長ノルマンは、ちょっと、くさった様子であった。
「船員に酒をのませろとかなんとか、いいがかりをつけて、そのじつ、こっちの仕事の様子をさぐるのが彼奴の目的だった。さすがは商売だけあって、はじめのうちは、至極すらすらと、私にしゃべらせおった。近ごろにない私の大黒星だ」
二人の話していることは、警部モロの身の上にちがいなかった。モロの追窮があまりにきびしかったので、ポーニンもようやくそれと、彼の素性に気がついたのであった。
「このうえは、彼奴を、なんとかしなければなりませんね」
「そうだ、そのことだ」
とポーニンは、またさらに顔をノルマンの方に近づけ、
「さっきから、それをかんがえていたが、こういうことにしようとおもう。耳をかせ」
ポーニンは、船長ノルマンの耳に、なにごとかをささやいた。
すると、ノルマンは、急にはっと息をとめ、
「えっ、青斑の毒蛇を……」
「これ、声が高い!」
ポーニンは、ノルマンの口に手をあてて、あたりへ気をくばった。
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