ノールウェーの汽船
「あっはっはっ。さすがの海軍さんも、この平靖号にあきれてかえったようだな」
例の大々しい水夫の竹見太郎八は、甲板のうえにはらをゆすぶってからからとわらう。
「ちえっ、自分のことをたなにあげて、なにをわらうんだよ」
すぐ横槍が入った。それは、デリックの下にあぐらをかいて、さっきからのさわぎをもうわすれてしまった顔附で、せっせと釣道具の手入れによねんのない丸本慈三という水夫が、口を出したのである。
「な、なにをッ」
「なにをじゃないぜ。さっきお前は、もうすこしで水兵の銃剣にいもざしになるところじゃった。あぶないあぶない」
この丸本という水夫は、竹見の相棒だった。年齢のところは、竹見よりもそんなに上でもないのに、まるで親爺のような口をきくくせがあった。この二人の口のやりとりこそ、はなはだらんぼうだが、じつはすこぶるの仲よしだった。
「なんだ、丸本。貴様は俺がいもざしになるところをだまってみていたのか。友達甲斐のないやつだ」
「ははは、なにをいう。お前みたいなむこう見ずのやつは、一ぺんぐらい銃剣でいもざしになっておくのが将来のくすりじゃろう。おしいところで、あの水兵……」
「こら、冗談も休み休みいえ。あの銃剣でいもざしになれば、もう二度とこうして二本足で甲板に立っていられやせんじゃないか」
「そうでもないぞ。あの、われらの虎船長を見ろやい。足は二本ともきれいさっぱりとないが海軍さんを見送るため、ああしてちゃんと甲板に立った。お前だって、いもざしになってもあれくらいのまねはできるじゃろう」
「おお虎船長!」
と、竹見太郎八は、なにかをおもいだしたらしく、
「そうだ、俺は虎船長に用があったんだ。おい、ちょっといってくるぞ」
水夫竹見は、軽く甲板を蹴って、船橋へのぼる階段の方へ歩いていった。
船橋では、虎船長をはじめ、一等運転士や事務長以下の首脳者が、しきりに、はるかの海面を指して、そこに視線をあつめている。
「おお、あの船が、やっと旗を出した」
「なるほど、あれはノールウェーの旗ですな、ノールウェーの船とは、ちかごろめずらしい」
いま船橋で話題にのぼっているのは、さっきまでこの平靖号を臨検していたわが駆逐艦が、その臨検中に見つけた新しい一隻の怪船のことだった。わが駆逐艦は、その間近かにせまっている。そのとき怪船は、とつぜんノールウェーの国旗を船尾にさっと立てたのである。
「どうもあのノールウェー船はあやしいよ。むこうも貨物船だが、あのスピードのあることといったら、さっきは豆粒ほどだったのが、今はこうして五千メートルぐらいに近づいている」
「ノーマ号と、船名がついていますぜ、一体なにをつんで、どこへいく船なのかなあ」
「きっと軍需品をつんでいるよ、あのかっこうではね。たしかにあやしいことは素人にもそれとわかるのに、ノールウェーでは、海軍さんも手の下し様がないんだろう」
「残念、残念。宣戦布告がしてないと、ずいぶんそんだなあ」
幹部たちは、ノーマ号と名のるノールウェー船のうえに、すくなからぬ疑惑をもって、ざんねんがったのである。
はたして、一同が見ているうちに、わが駆逐艦松風は、ノーマ号からはなれ、舳をてんじて北の方へ快速力で航行していった。
ノーマ号も、その後を追って北上するかとおもわれたが、どうしたものか、急に針路をかえ南西に転じた。
「あれっ、こっちと同じ方向へいくぞ!」
事務長が、目をぱちくりとやった。
「おい、へんだぞ。ノーマ号は、一向前のようなスピードを出さないじゃないか」
足のない虎船長がさけんだ。
「これじゃ、間もなく本船は、ノーマ号においついてしまいますよ。なにかむこうは、かんがえていることがあるんですな」
頭のいい一等運転士の坂谷が、早くも前途を見ぬいて、船員の注意をうながした。
坂谷のいったとおりだった。わが平靖号は、どんどんノーマ号の後に接近していった。
水夫の竹見は、さっきから船橋の入口に立っていたが、この場の緊張した空気におされて、無言のままだった。
「おや、竹見。なにか用か」
と、かえって虎船長からとわれて、彼は、はっといきをのんで二三歩前に出た。
「ああ船長。私は、折角ですが、この船から下りたいのであります」
「なにィ……」
虎船長は、あっけにとられて、竹見の顔をあらためて見なおした。
信号旗
「なに、もう一度いってみろ」
船長は虎の名にふさわしく、眼を炯々とひからせて、水夫竹見をにらみつけた。
「はい。私は本船を下りたくあります」
「な、なにをいうか、本船にのりこむ前に、あれほど誓約したではないか。本船にのったうえからは、本船と身命をともにして、目的に邁進すると。ははあお前は、南シナ海の蒼い海の色をみて、きゅうに臆病風に見まわれたんだな」
竹見は、目玉をくるくるうごかしつつ、
「臆病風なんて、そんなことは絶対にありません。私は……」
といっているとき、横から一等運転士の坂谷が
「船長。ノーマ号が、本船に“用談アリ、停船ヲ乞ウ”と信号旗をあげました。いかがいたしましょうか」
「なに、用談アリ、停船ヲ乞ウといってきたか。どれ、向うはどういう様子か」
船長は、ノーマ号の様子をみるため、一旦双眼鏡を目にあてようとしたが、気がついて水夫竹見太郎八の方を向き、
「お前のはなしは、後でよく聞こう。それまでは下にいってはたらいていろ。じつに厄介なやつだ」
と、はきだすようにいった。
ノーマ号は、もうすこしで平靖号と並行しそうな位置まで近づいていた。そしてヤードにはたしかに用談アリ、停船ヲ乞ウの信号が出ていた。甲板を見わたすと、赤い髪に青い眼玉の船員や水夫が、にやにやうすわらいしながら、こっちを見おろしていた。
虎船長は、うむとうなって、
「用談とは何の事だ。聞きかえしてやれ」
といった。
信号旗は、こっちのヤードにも、するするとあがった。
すると、すぐノーマ号から返事があった。
“飲料水、野菜、果実ノ分譲ヲ乞ウ。高価ヲ以テ購ウ”
それを見て虎船長は、
「駄目だ。本船にも、その貯蔵がすくないから、頒けてやれない。香港か新嘉坡へいって仕入れたらよかろうといってやれ」
と、命令した。
その信号は、再び平靖号のヤードに、一連の旗となってひらひらとひるがえった。
すると、また折かえして、ノーマ号からの返事があった。
“ゼヒ分譲タノム。量ノ如何ヲ問ワズ、本船ニ[#「ニ」は底本では「に」]壊血病多数発生シ、ソノ治療用ニアテルタメナリ”
ノーマ号は、壊血病患者がたくさん発生しているから、ぜひ野菜や果実をわけてくれという信号なのである。
「壊血病とは、気の毒じゃ」と、虎船長はいって、くびをふった。
「じゃあ、すこしわけてやることにするか」
と、いって、事務長の方をふりかえった。
「でも、本船の貯蔵量は、ほんとにぎりぎり間に合うだけしかないのですから、どうですかな」
事務長は、分譲に反対の口ぶりだった。
「うむ、まあ海のうえでは、船のりと船のりとは相身互いだ。すこしでいいから、なんとか融通してやったらどうじゃ」
虎船長は、若い日の船乗り生活の追憶からして、相身互いの説もちだした。
事務長は、だまっていると、傍にいた一等運転士の坂谷が、船長と事務長の間にわって入り、
「じゃあ、こうしてはどうですかなあ。こっちからノーマ号へ出かけていって、むこうのいうがごとくはたして壊血病患者がどんなに多数いるかどうかをたしかめたうえで、野菜や果実をわたしてやったがいいではありませんか」
坂谷は、なかなかうまいことをいった。
「ああ、それならよかろう。事務長も、賛成じゃろう」
と虎船長は、事務長の同意を確かめたうえで、飲料水一斗、野菜二貫匁、林檎三十個を、ボートで持たせてやることにして、その指揮を事務長にやらせることにした。
「よろしい、行ってきます」
事務長は、気がるに立ち上った。
そのときであった。
「船長。私も、事務長と一緒に、ノーマ号へやってください」
船橋の入口に立っていた水夫竹見が、いきなり船長の前へとびだしてきた。
「ううっ、竹見か、お前は、行くことならんぞ。下船したいなどといい出すふらちなやつだ……」
「ちがいます。私が下船したいといったのは……」
「だまれ、竹見」と船長は、あかくなってどなりつけた。
「わしは船長として貴様にめいずる。只今からのち貴様は本船内で一語も喋ってはならん。しかと命令したぞ。下へいって、謹慎しておれ」
船長は竹見に対して、たいへん不機嫌をつのらせるばかりだった。
一体竹見は、なぜ下船したいなどと、とんでもないことをいいだしたものであろうか?
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