名探偵ノート
その夜、田鍋課長と部下二名は、帆村荘六を交えて、ひそかに赤見沢博士の研究所を指して出発した。このことは絶対に秘密裡に行われた。捜査課長ともあろうものが、私立探偵の手を借りたなどという風評がたっては、田鍋警視は甚だ困るのであった。
もっとも課長は、今夜の行動を、役所の用事とはしないで、お化け鞄と猫又に興味を持つ帆村荘六を援助するための特別行動である――と、彼の部下二名に説明してあった。
帆村は、お化け鞄については、前章に述べたような見解を持していた。しかし彼は、この鞄の素性についてまだ突き留めていないことは、田鍋課長の場合と同じだった。
だが彼が、この事件に異常な興味を持って、解決に一生懸命の努力を払っていることは誰の目にも明白であり、従ってそのお化け鞄についての考察については、誰よりも深いものがあり、そのことを田鍋課長もはっきり認めていたればこそ、こうして帆村荘六のうしろについて行く気にもなったのである。正直な話が、課長としては、このお化け鞄事件ぐらいやりにくい事件は、本庁に奉職以来に一度も先例のないものだった。
今夜の行動は、帆村の示唆するところに従って、田鍋課長が蹶起したという形になっていたが、実のところ課長としては何等自信のあることではなかった。行きあたりばったりに何か掴めるかもしれない、とにかく助手の小山すみれを絞ってみれば何か出て来やしないか――ぐらいの予想しか持っていなかった。
これに対して帆村荘六の方は、ずっと確かな筋として、今夜の行動を割り出しているのだった。すなわち帆村の考察によれば、まず第一に、お化け鞄の誕生は赤見沢博士の研究所に違いないから、どうしてもそこをもっと詳しく調べる必要がある。誠に彼はその研究所へ一度も足を踏み入れたことがないのであるから、今夜はぜひ入って調べてみたい。
第二に、あのお化け鞄の製作を注文したのは元知事の目賀野であることは、臼井の話から想像がつくが、目賀野は一体その鞄をどんな目的に使用するつもりであったか、そのことは注文主として当然赤見沢博士に語ったことであろうし、従ってその製作の助手をつとめた小山すみれ女史にも全部又は一部が通じられている筈である。一体その目的は何であるか。それが分ればこの事件の解決はずっと早くなろう。また、それが分れば、或いはこの事件は更に重大なる特性を曝露して前代未聞の大事件に発展するのではなかろうか。これは永年探偵等をつとめて来た帆村の第六感であった。
それから第三に、お化け鞄と、赤見沢博士が電車の中で後生大事に抱えていた鞄――その中には杉の角材四本などが入っていた方の鞄――この両者の関係が、まだはっきりしないのであるが、これもなかなか重大問題だと思う。なぜなればこの問題には、赤見沢博士の遭難事件が関係している。つまり赤見沢博士が怪漢のために襲撃されたのは、お化け鞄を持っていたことによるらしく思われる節がある。博士はお化け鞄を怪漢のために奪われたのではあるまいか。そしてその代りとして、只の鞄が博士の昏睡体の横に置かれてあり、共に目白署に収容されたのではないか。
帆村は、この二つの鞄を区別して考えていた。係官の中には、両者を同一の鞄とし、それが時には普通の鞄であり、また時には化けるのだと考えているようであったが、帆村はこの二つが別物だとしていた。それを区別するのに最もはっきりしている点は、赤見沢博士の昏倒している傍にあった鞄には、ちゃんと鍵がかかるようになっていたのに対し、かのお化け鞄を手にしたことのある人々の話によると、そのお化け鞄には鍵がかからない、つまり錠前がついていない。それともう一つは、お化け鞄には特別に立派な把柄がついているとのことであった。
もし出来るなら、この二つの鞄を並べてみればよく分るのであるが、今はそんなことが出来ない。お化け鞄は相変らず神出鬼没だし、目賀野たちが出頭して引取っていった只の鞄の方は、目賀野たちと共に目下行方不明とある。
もう一つ、帆村が特に重大視していることがあった。それは案外誰も大して気にかけていないことであったが、例の「赤革トランク紛失」の新聞広告のことであった。
あの三行広告は、同じ日の同じ新聞の広告欄に、同じような文句でもって、二つの広告が並んでいた。「拾得届出者に相当謝礼」と書いてある「姓名在社三二五番」と、もう一つは「拾得届出者に莫大謝礼」と書いてある「姓名在社三二六番」との二つだった。
一体これは何者が出した広告なのであろうか。帆村が調べたところでは、前者は「葛飾区新宿二丁目三八番地松山」が出したものであり、後者は「板橋区上板橋五丁目六二九番地杉田」が出したものであった。それらの番地を当ってみたところ松山という家も杉田という家もちゃんとあったけれど、その当人はこの広告主ではなく、本当の広告主は別にあった。それに頼まれて名前を貸しただけのことで、その当時毎日何回か、連絡の人が尋ねて来たそうだが、もうこの頃は来なくなったそうである。そして連絡に来た者は、松山の場合には、長屋のお内儀さん風の女であったそうだし、杉田の場合は、目の光の鋭い、そしていやに丁重な口のきき方をする商人体の者だったという。そこまでは分っているが、その先のところは帆村にも調べがついていない有様だ。
一体何者だろう、この二人の広告主は?
このことについては、帆村は田鍋捜査課長にも報告して、その注意を喚起した。課長は帆村ほどこの問題を重大視はしていない。そしてこの二人の広告主の一人は、博士を昏倒せしめ、お化け鞄を奪った姓名未詳の兇賊であり、もう一人は例の目賀野であろうと考えていた。
だが帆村は、田鍋課長と考えを異にしていた。
広告主の一人は目賀野だと課長は推定している。しかし帆村は、そうでないと思っていた。なぜならば、目賀野ならば一度もそのお化け鞄を手にとって見たことがないから「特別美且大なる把柄あり」などというその鞄の特徴を知っている筈がない。だから目賀野ではないと思われる。
しからば二人の広告主は何者か。
酒田であろうか、外濠の松並木の下を歩いていた男であろうか。いやいや、そのどっちでもない。新聞広告の出たのは、彼らがお化け鞄に始めてめぐり合ったどりもずっと以前のことになる。
トランクをトラックに受取って走ったそのトラックの運転手でもないことは、彼が酒田と満足すべき取引をしたことを考えれば、すぐに分る。では、新宿の露店で、この鞄を店に並べて売っていた店員であろうか。いや、彼でもなさそうである。なぜならば三行広告代金と鞄の値段とは殆んど同じであるので、広告を出したとて大抵戻って来ないことが分っているのに広告をする筈がないと思われる。
すると、広告主はもっと以前から、このお化け鞄に関係していた人物に違いない。この十五坪住宅の主人が夜厠の窓から何気なく外を見たところ、トランクが月の光に照らされて、ひとりで道を歩いていたという東都怪異譚の始まり――あの頃更に以前の関係者に相違ない。
一体、誰と誰であろう。
一人は、田鍋課長の指摘したとおり、多分お化け鞄を博士から奪った兇賊であろうと思われる。しかしこのことも、博士が意識を恢復して、遭難談を詳しく述べてくれる日までお預けとしなければなるまい。今一人の人物については、全く五里霧中である。
が、この二人の正体を突き留めさえすれば、この事件の解決は一層早くなるものと、帆村は確信し、いま推理を懸命に働かせている最中なのであった。
なにさま、帆村探偵の考え方は、田鍋課長のそれとは大分違っている。
深夜の研究室
闇に紛れて、四名は赤見沢研究所の建物の壁際にぴったり取付いた。
時刻は午後十一時であった。
研究所のすべての窓は真暗であった。みんな寝てしまったであろうかと始めは思ったけれど、窓の一つからすこし灯が洩れているので、一同はそれを目当てにしてその窓下へ身をひそめたわけである。
ジイイイ……と、妙な音が、室内にしている。
中を覗こうとしたが、窓が高い。
そこで田鍋の部下二名が台の代りになり、帆村と課長を肩車に乗せた。この珍妙な形でもって、透間を通して窓の中を覗いた。
カーテンの隙間から、室内の模様をうかがうことが出来た。
「おやア……」
「あッ」
帆村も田鍋課長も、思わず愕きの声を発して、あわててあとの声をのみこんだ。
室内には、まことにふしぎな光景が展開していた。
その部屋は、赤見沢博士の研究室の一つで、多数の器具機械がごたごたと並んでいた。そしてそこに三人の人物が居た。
そのうちの一人は、助手の小山すみれ女史であって、彼女がそこに居ることには格別愕きはしない。
もう一人は、若い男であった。かなり背の高い、立派な顔立の青年であって、にこやかな笑いをたたえて、小山すみれの方を見つめている。
この男の顔を見て愕いたのは帆村荘六ではなく、田鍋課長であった。
(はてな。この女たらしの男は、どこかで見たことがあるぞ)
たしかに課長の記憶の中にある男であった。しかしどこで見た男だったか、すぐにはそれを思出すことが出来なくて、課長はいらいらして来た。帆村はこの青年の顔に、何の記憶も持っていなかった。ただ、小山すみれ嬢とはおよそ反対の立派な男子で、皮肉な対照をなしていると感じたことであった。が、しかし、彼はあまりながくこの美貌の青年に見惚れていることが出来なかった。というのは、残るもう一人の人物が、彼の注意力の殆んど全部を吸取ってしまったからである。そのことは、田鍋課長にとっても亦同様であった。
(あれは赤見沢博士に相違ないが、一体どういうわけで博士はここにいるんだろうか)と帆村は不審の目をぱちくり。課長の方は(誰が赤見沢博士を病院から出したんだろうか、わが輩の許可を得もしないで……。何奴が出したか、怪しからん奴どもだ)
と、かんかんになって、頭から汗が出て来た。
その赤見沢博士は、肘懸椅子に凭れ、頭を後の壁につけていたが、その恰好がへんにぎこちなかった。博士はまだ意識混沌としているので、あのような恰好をしているのであろうが、両眼を大きく明けているのが、ちと腑に落ちかねる。
そのときであった。小山すみれが脚立から下りて、二本の綱を引張って、赤見沢博士の傍へ来た。その綱は、天井から垂れていた。よく見ると、天井には滑車がとりつけてあり、綱はそれに掛っていて、上下自在になっていることが分った。
小山女史は、その綱の一本を、いきなり赤見沢博士の頸にぐるぐるっと巻きつけた。顔色一つ変えないで……。美貌の男は、あいかわらずにこにこ笑っている。小山嬢は綱に結び目をつくると二三歩うしろへ身を引いて、もう一方の綱をぐんぐんと下にたぐった。すると博士の頸に搦みついている綱がぴーンと張った。それでも小山嬢は、自分の手にある綱をぐんぐんと下にたぐった。博士の身体が椅子から浮きあがった。小山嬢が綱をたぐるたびに、博士の身体は上へ吊りあげられた。博士の絞首刑である。それを自らの手によって行っている小山すみれの顔は、始めと同じく無表情で、悔恨の色もなければ憎悪の気も見えない。
とうとう赤見沢博士は、背広姿のまま、室内にぶら下った。博士の足が、実験台よりもすこし高くなったところで、小山嬢は、手にしていた綱を壁際の鉄格子にしっかりと結びつけた。そして首吊り博士の下までやって来て、美貌の男の方へ何とかいって、博士の足を指した。
田鍋課長は先刻から愕きの連続で、息が詰まる想いだった。かねて怪しいと睨んでいた小山すみれが、博士の首に綱をかけてくびり殺すところをまざまざと見せられ、全身の血は逆流した。現行犯にしても、これほど鮮かに恐ろしい現行犯を見たことは、今までにないことだった。彼は、自分が部下の肩車に乗っていることを忘れて、窓を叩き割ろうとして、帆村に停められた。
「ちょっと、静かに……」
帆村は、室内を指した。
小山嬢は博士のズボンを手にとって、ズボンの裾を持ち上げた。
奇怪なことに、そのズボンには脚が入っていなかった。つまりズボンだけであった。
小山嬢は、実験台の下に跼むと、間もなく台の上に大きな靴を持出した。彼女はそれを博士のズボンの下のところへ持っていって、靴をはかせるような恰好をしてみせ、それから靴をまた台の上へ置いた。博士にその靴をはかせるつもりらしいが、ズボンだけで足のない博士が、どうしてそんな重い靴をはくことが出来るだろうかと、田鍋課長は気がかりであった。
小山嬢は、その靴を指して、美貌の青年の顔を見上げた。青年は肯いた。小山嬢は靴の中をあけて見せた。中には何やら詰まっていた。それは何かの小型の器械であるらしく、小さい部分品が組合わせられていた。そんなものが入っていては、靴の中に足を突込むことが出来ないではないかと、田鍋課長は更に気がかりになった。
小山嬢の指は敏捷に動いて、その部分品を一々指した。彼女はそれについて説明しているらしいが言葉はさっぱり分らない。しかし帆村は、その小型器械が、無電装置であることに気がついた。
小山嬢は、もう一つの靴の中からも、別の器械を取出した。その器械は、著しい特徴があるので、帆村にはすぐ分った。それは放射能物質から出る放射線を捕えて、その放射線の強さを検出する計数管の装置であった。
(無電装置と放射線計数管と――妙なのが靴の中に収ってある?)と、帆村は首をひねった。田鍋課長には、そんなことは分らないので、どうしてあんなものを靴の中に入れてあるのか、あれでは足が入るまいなどと、そんなことばかりを心配していた。
小山嬢は、靴を手にぶら下げた。そして指をしきりに動かして、計数管と無電装置との間に連絡のあることを示したのち、靴をいじっていたが、靴のフックのところに突然赤い豆電球がついた。
すると、殆んど同時に、靴の底から熊手のようなものがとび出して、下に向って開いた。その恰好は、がんじきをつけた雪靴にどこか似ていた。その熊手様のものは、蟹のように爪をひろげ、びくびく慄えていたが、そのうちにその爪がだんだん内側へ曲って来て、遂には靴の下で何物かをがっちりと抱きしめたような恰好となった。
小山嬢は、そうなった靴をしきりにさしあげて、美貌の青年の注意を喚起している風に見えた。すると青年は感激の面持で、つと小山嬢の方に寄ると、靴もろとも両手でぐっと抱きしめた。青年の腕の下にある小山嬢の顔が、急に蒼くなり、それからこんどは赤くなった。彼女のしっかり閉じられた瞼の下に大きな眼玉がごろんと動くのが見えた。彼女は恍惚境に入っているらしい。
青年が腕を解いて小山嬢を離すと、彼女は靴を持ったまま傍の椅子の上へ、へたへたと崩れるように腰をおとし、しばらくは動こうともせず、口もきかなかった。
(無電装置と放射線計数管と浚渫機とを備えている靴――とは、妙な靴があったものだ。一体この三題噺みたいなものをどう解くべきであろうか)
帆村は、小山嬢がまだ持続する恍惚境から醒めやらぬのを見やりながら、心のなかにメモをとった。
そのうちに小山嬢は、やっと正気に戻ったと見え、靴を抱えて椅子から立上った。
彼女はその靴の紐を、博士のズボンの下端にまきつけて縛った。ズボンが靴をはいたように見える。
それがすむと、小山嬢は、飾椅子に結きつけてあった綱をほどき、宙に首吊りを演じている博士の身体を下におろし、前のとおり肘懸椅子に腰を掛けさせた。博士の死体は、綱を首にまきつけたまま、目をかっと剥いて、天井を見詰めている。
小山嬢は、美貌の青年に向って手真似と共に何事かを命じた。すると青年は、くるっと後を向いた。青年の顔は、今や窓外から室内を窺う帆村と田鍋課長の方へ正面を切った。
(あっ、そうだ、思い出したぞ。あの若僧とは、この前、R大学研究所で会ったことがある。二百グラムのラジウムの盗難事件が起ったあの研究所だ。たしかあの若僧は、そのラジウム保管室の向い側の何とか研究室の助手で、彼は事件当時、怪しい女性がその保管室からあわてくさって出て行くのを見たと証言したんだ。なんという名前だったかな。ええと、万沢といったかな。……)
田鍋課長は、えらいことを思い出した。彼の胸の中は、今や沸々と沸騰を始めた。しかし帆村はそんなことを知らない。
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