不意討
臼井の顔が、酒に酔った人のように真赤になる。目賀野の顔色はすごいまでに蒼い。
「こんなにまでして貴方に尽しているのが分らんですか」
臼井が残念そうに声をふり絞った。
「わしの命令から逸脱するような者をこのまま黙って許しておけると思うか。事の破綻はみんな貴様のよけいなことをしたのに発している。こんな鞄が何に役立つ。この材木は一体何だ。風呂桶の下で燃すのが精一杯の値打だ」
「そんな筈はないんですがなあ。もっと慎重によく調べさせて下さいよ」
「その必要はない。何もかもおれには分っとる。おまけに博士をあんなに生ける屍にしてしまって。……わしの計画は滅茶滅茶じゃないか」
「博士は外出時に変装するということを貴方が僕に注意しなかったのが、そもそも手落ちですよ」
「博士のラボラトリーの前から警戒監視すべきが当然だ。しかるに貴様は骨を惜んで田端駅で待っていた。横着者め。そして博士が到着しないと分ると、そこで初めて目黒へ駆けつけた。そのときはもう後の祭だ。博士はもの言わぬ人となって目白署へ収容され……そうだ、まだ貴様にいうことがあった。貴様は田鍋のところでよけいなことを喋ったな。知っているぞ、ちゃんと知っている。博士の部屋へ入ると、猫の子が宙に浮いてばたばたやっていたと喋ったろう。それから博士に仕事を頼んだことまでべらべら喋っちまったんだろう。どうだ、それに違いなかろう」
「それは……それは、そういわないとあの場合、捜査課長の心を動かすことが出来なかったからです」
「バカ。捜査課長にあれを連想せしめるような種を提供して、わしの方は一体どうなると思うんだ。田鍋のやつは、勘は鈍いが、あれで相当克明でねばり強いから、そのうちにはきっと一件を感づくに違いない。そうなったら……ああ、そうなったら万事休すだ。わしの最後の一線が崩れ去るのだ。憎い奴だ、貴様は……」
「まだ投げるのは早いです。打つべき手は、まだいくらでもありましょう。こんどは間違いなくやります。一命を抛ってやります。命令して下さい」
「貴様に対する信用はゼロなんだが……よしもう一度使ってやる。いいか、こうするんだ。田鍋のところへ行くんだ。さっきの十万円で買収だ。買収に応じなかったら田鍋の奴を早いところ誘拐してしまえ」
「はい」
と、電話が外から懸って来た。
目賀野は電話器を取上げた。彼は簡単な返事をして電話を切った。彼の奥歯がぎりぎりと鳴っていた。
「臼井、早くしろ。十万円はその書類棚の上に入っているから、開いて出したまえ」
「はあ」
臼井は書類棚のところへ行った。と、彼の脳天にはげしい一撃が加わって、彼は意識を失ってしまった。
目賀野は、ほっと一息ついて、手にしていた丸い盆を、隅の卓子へかえした。それから隣室へ通ずる扉を開いて、大声で呼んだ。すると、いつぞやの若い男と女とが、奥からとび出して来た。それを見ると、目賀野はいった。
「一時この邸から退去せにゃならなくなった。千田はこの臼井を担いで霊岸橋へ行って、辰馬丸に乗込んですぐ出てくれ。行先は石の巻だ、草枝はもんぺをはいてわしといっしょに来てくれ。松戸へ出てから、すこし歩くことにするからなあ」
そういっているとき、天井に取付けてある高声器が、がらがらと雑音を出してから、ひとりで喋りだした。
「警視庁の自動車が門前に停りました。三人の紳士が今玄関に立ってベルを押しています。一番えらそうな紳士は鼠色のオーバーを着た大男です……」
そこまで聞くと、目賀野は万事を悟った。
「捜査課長の田鍋が来たんだ。さすがに早く気がついたな。さあ千田、今のうちに地下道を通って長屋から出て行け。草枝は裏から抜け出ろ。そして松戸の駅前の丸留の家で待っているんだ。もんぺはそこで借りりゃいいぞ」
目賀野はそういって命令を伝えると、彼自身は隣室へとびこんで、ばたりと扉を閉じた。
鞄の怪談
田鍋課長一行は、一向要領を得ないで、目賀野氏が留守だという邸から引揚げた。もし課長が、今しがたそこの地下室での出来事を勘づいていたら、そのように温和しく帰りはしなかったろう。
目賀野は行方不明となった。だが、田鍋は別に大して重要と思わないから、捜査命令を出しはしなかった。その代り彼は赤見沢博士の容態には十分の警戒を払い、専門の警察医を附添わせた。
こうして、何だか正体の分らないこの妙な事件は、田鍋課長側と目賀野側との間に喰いちがいのあるままでそれから先を別々に進行していった。
臼井は、あれから船に乗せられると間もなく正気づいたが、自分が船内に軟禁されている身の上であることを、千田から話されて知った。こうなれぼ当分温和しくしているより仕方がない。そのうちに千田や船員が油断をするだろうから、脱出も出来ようと考えた。但し脱出したのがよいか、しないで辛抱していた方が安全か、これは篤と考えてみなければならない問題だと思った。
ちょうどその頃、東京に一つのふしぎな噂が流れはじめた。それは怪談の一種であるとして取扱われていた。人影もない深夜の東京の焼跡の街路を、一つのトランク鞄がふらりふらりと歩いていた、そのトランクを手に下げている人影も見当らないのに、トランクだけが宙をふわりふわりと揺れながら向こうへ行くのを見たというのだ。
もし事実なら、奇々怪々なる出来事だといわなければならぬ。
その怪事の目撃者というのは、焼跡に建っている十五坪住宅の主人で、昼間は物品のブローカーをしている人だったが、その人が夜中厠へ入って用を足しながら何気なく格子の外を覗いた、折柄二十日あまりの月光が白々と明るく一面の焼跡と街路を照らしていたが、そこへ突然かのトランクが現われて、主人の目の前をすたすたゆらゆらと通り過ぎていったのだそうな。
「寝呆けていたんじゃねえよ。へん、この世智辛い世の中に誰が寝呆けていられますかというんだ。信用しなきゃいいよ。とにかくおれは、ちゃんとこの二つの眼で鞄の化物を見たんだから……」
と、その目撃者はたいへん自信に充ちて放言したという。
だが、およそ常識のある者なら、かの自称目撃者の言葉を信じようとはしないだろう。奴凧や風船なら知らぬこと、重いトランクが横に吹き流れて行くとは思われない。
では、トランクの幽霊か。トランクに霊あるを未だ聞いたことがない。
結局この噂話は、一篇の笑話と化して笑殺されるようになったが、その頃、また別の噂が後詰のような形で伝わり始めた。それはやっぱり鞄変化に関するものであった。
何でも新宿の専売局跡の露店街において、昼日中のことだが、ゴム靴などを並べて売っている店に一つの赤革の鞄が置いてあったが、この鞄がどうしたはずみか、ゆらゆらと持上って、ゴム靴の海の上をすれすれに往来へ出ていったのである。店番をしていた若者はびっくりして後を追い駈けた。幸いその鞄は隣の店の前あたりにうろうろしていたので、かの店員は鞄に追いついて、左右の手をもって鞄の両脇から抱き留めたのである。これは重大な事柄であると後に分ったことであるが、そのときかの店員が鞄を取り押えたときの筋圧感はといえば、一向鞄を取り押えたような気がせず、なんだか幕に手をかけて引いたように感じた由である。つまり非常に軽々と感じ、そして少し遅れて慣性のようなものをも感じたというのである。
その店員の感想にはもう一つ附加えるべきものがあった。それは彼が手を取押えたトランクの横腹から、そのトランクの把柄へ移し、トランクをさげたときのことであるが、彼はずっしりとしたトランクの重さを急に感じたというのである。それはなんだか俄にトランクの中へ或る重い物が入ったように感じたのである。そこで彼は念のためトランクをゴム靴を並べてあるその上に置くと、トランクの懸金をひらいて開けてみた。が、トランクの中には何も入っていなかった。全くからっぼであったのだ。
彼は拳固をこしらえると自分の頭をごつんと一撃してからそのトランクの口を閉めて再び店の一隅へ並べた。
しばらくは何事もなかった。
ところがそれから二三十分経ったと思われる後のこと、例のトランクは再び、のそのそと店から外へ匐い出していったのである。店員はそれを見て知っていた。そのトランクを後から抱き停めなければ損をする虞れがあるという気持と、気味がわるくて手が出せないという気持が、彼の心の中で闘いを始めた。そのうちに鞄は往来へ飛び出し、彼の眼界から失せた。そこで彼の心の中に怫然と損得観念が勝利を占め、彼はゴム靴の海を一またぎで躍り越えて往来へ飛び出した。そのとき彼はなぜか声が出なかったそうである。大声で叫んで人々を集めればよろしかったのにも拘らず、なぜか無言のままだった。それは多分、そのとき軽率に叫び声をあげて人々にこの事件を知らせたが最後、結局は彼自身の頭が変になっていたんだなどと後に指摘されることになってはいやだと思ったらしいのである。
トランクはどこへ行ったろう。
店員はそれを発見するのに大して骨を折らなかった。その赤革のトランクは、金色の金具を午後の太陽の反射光で眩しく光らせながら、広い道路を半分ばかり渡り、地上約三尺ばかりの高度を保って、なおも向いの側の人道へ辿りつこうとしていた。
と、左の方から一台のトラックが疾走して来て、呀っという間にそのトランクに突きあたった。トランクは、フットボールのように弾かれて上へ舞いあがった。と思う間もなく下へ落ち始めた。するとその下へトラックの車体がすうっと入って来て、トランクを受け留めた。そのトラックは空であった。そのトラックは、始めトランクに突き当ったそれだった。かくしてそのトラックは速力を緩めることなしに、店員にガソリンの排気をいやというほど引掛けて遠去かっていってしまったのである。
店員は、トラックの番号を覚えることさえ忘れて、呆然と立ちつくしていた。なんという気味のわるいトランクだろう。豚のように跳ねあがり、通りすがりのトラックへとびこんで逃げてしまいやがった。これで、今朝、顔色のわるいカーキ服の男から三百円で買い取った品物をなくして、三百円丸損となってしまったぞと、大いに恨めしく思った。
この話が、誰から誰へとなく拡がって行ったのである。
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