仔猫の怪
面会人臼井は、なかなか尻を上げようとはしなかった。
「これは一つ、今日只今課長さんによく認識して頂かねば、僕は帰れません。そもそも赤見沢博士の重大性なるものは……」
「粗茶ですが、どうぞ」
少女の給仕が茶を入れて持って来て、臼井の前に置き課長の大湯呑にはげんのしょうこをつぎ足して来た、課長は客に粗茶をどうぞと薦めたわけだ。
「ああ結構です」と臼井は香のない茶に咽喉を湿し、「早く分って頂くために、そうですなあ、ああそうだ、仔猫のお話をしましょう」
「仔猫?」
「そうです。猫の子ですなあ」
課長の前の既決書類函から書類を取出していた少女の給仕は、猫の子問答のおかしさに耐えられなくなって、書類を抱えると大急ぎで後向きになって、すたすたと戸口の方へ駆出した。
「猫の子がどうしたというんです」
「課長さん。僕が博士を始めて訪問したときに、その部屋に仔猫がいたんです。僕はびっくりして腰を抜かしそうになりました」
「君はよほど猫ぎらいと見える。ははは」
「いや違う。総じて猫というものは僕は大好きなんです。だから普通では猫又を見ようが腰を抜かす筈がない。だからそのときは愕きましたよ、実に……なぜといってその仔猫がですね、宙にふらふら浮いているじゃないですか、びっくりしましたね」
「どうしてまたその仔猫は宙に浮いていたのですか。天井から紐でぶら下げてでもあったのですか」
「そんなことなら、僕はきゃッなどと恥かしい声を出しやしません。その仔猫たるや、紐でぶら下げられたのでもなく、風船で吊上げられているのでもなく、宙にふわふわと……」
「それは本当の猫じゃないのでしょう」
「本当の猫です。あとで僕はさわってみましたから、知っています。もっともこの仔猫は赤い腹掛をしていましたがね」
「腹掛のせいじゃないでしょう、宙をふわふわやるのは……」
「さあどうですかなあ。とにかく赤見沢博士という大学者は仔猫を宙に浮かせるような奇妙な実験をしてみせる、恐るべき人物です」
「それは魔法かな、奇術かな」
「奇術でしょうな。博士はそのときいっていました。これは正しい学理に基く一つの実験なんだ。決してこの猫は化け猫ではないと説明されたんです」
「君はその種を知っているのでしょう。さあ聞かせて下さい」
田鍋課長は、先刻とすっかり立場をかえ、臼井の語るのを催促した。
「僕には分りません」臼井はそういった。本当に知らないのか、それともわざと説明を逃げたのか分りかねる。「とにかくそういう重要人物なんですから、ぜひとも一刻も早く赤見沢博士を探し出して頂きたい」
「うーむ」
課長は呻った。わが命令を出すのは極めて容易であるが、そういう奇術師だか理学者だか分らない変な人物を探し出すのに大掛りなことをやって、後でもの嗤いにならないであろうかどうかを心配した。
課長の返事はなかなか出て来なかった。その間、臼井青年はしきりにかきくどいた。課員が、課長の前の未決書類函へ帳簿を入れていった。それは、さっきからそのへんをまごまごしている黒表紙の事件引継簿であった。
「とにかく……まあとにかく、私から係へよく話をして置きましょう。それで、博士の人相書や――写真があれば更にいいですね――それから失踪の時刻やそのときの服装、その他参考になる事柄を出来るだけたくさん書いて私の許まで提出されたい。私としては出来得るかぎりの御便宜を図るでありましょう。どうぞ目賀野先生へよろしく」
そういわれれば誰でも面会の終へ来たことに気がつくものである。臼井青年は、いい足りなさそうな顔付で、その部屋を出て行った。
臼井の姿が部屋から消えると、課長はその途端に彼から頼まれたことを一切忘れてしまった。これは永年に亙る課長の修養の力でもあったり且又習慣でもあった。“ものごとを記憶するよりは、出来るだけ忘れよ”という金言があったと確信している田鍋課長であった。
だが課長は、間もなく臼井から頼まれたことをはっきり思い出さないわけにはいかない運命の下にあった。それは彼が忠実に未決書類函へ手を延ばし、黒表紙の引継簿の仕切紙の挟まっているところを開いて読んだときに、そうなったからである。
その頁は、昨夜の池袋駅事件につき、第二報告書が赤インキで書き入れてあって、
“――前記姓名未詳の男は、二十五歳前後の青年にあらずして、実は六十五歳前後の老人なること判明せり。かく判明せる原因は、該要保護人を署内(目白署)に収容せる後に至りて、該人物が巧妙なる鬘を被り居たることを発見せるに因る。尚、同人所有のものと思われる鞄は、赤革のスーツケースにして、大きさに不相応なる大型の金具及び把手を備え居り、その蓋を開きみたるに、長さ二尺ばかりの杉角材が四本と古新聞紙が詰めありたる外めぼしきものも、手懸りとなるものも見当らず。
一方、前記要保護人は、収容後十時間を経るも未だ覚醒せず、体温三十五度五分、脈搏五十六、呼吸十四。その他著しき異状を見ず。引続き監視中なり。――”
とあったので、課長はそれと気付き、立去った臼井青年の後を課員に追わせたが、遂に彼の姿を見つけることが出来なかった。課長としては、果して目白署に保護中の当人と赤見沢博士とが同一人だかどうかは不明だが、年齢がちょうど博士と合うので、損と思っても、行ってみてはどうかと臼井にすすめるつもりだったのである。
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