海野十三全集 第13巻 少年探偵長 |
三一書房 |
1992(平成4)年2月29日 |
事件引継簿
或る冬の朝のことであった。
重い鉄材とセメントのブロックである警視庁の建物は、昨夜来の寒波のためにすっかり冷え切っていて、早登庁の課員の靴の裏にうってつけてある鋲が床にぴったり凍りついてしまって、無理に放せば氷を踏んだときのようにジワリと音がするのであった。朝日は、今ようやく向いの建物の頭を掠めて、低いそしてほの温い日ざしを、南向きの厚い硝子の入った窓越しにこの部屋へ注入して来た。
そのとき出入口の重い扉がぎいと内側に開いて、肥えた赭ら顔の紳士が、折鞄を片手にぶら下げて入って来た。
課員たちは一せいに立上って、その紳士に向って朝の挨拶をのべた。みんなの口から一せいに白い息がはきだされて、部屋の方々に小さな虹が懸った。紳士は一番奥まで行って、まだ誰も座っていない一番大きな机の上に鞄をぽんと投げ出し、それから後を向いて帽子掛に、鼠色の中折帽子をかけ、それから頸から白いマフラーをとってから、最後に鼠色の厚いオーバァを脱いで引懸けた。それから身体をひねって、大机にくっついている回転椅子をすこし後にずらせて、その上に大きな尻を落着かせたのであった。かくして警視田鍋良平氏は、例日の如くちゃんと課長席におさまったのである。
少女の給仕が、縁のかけた大湯呑に、げんのしょうこを煎じた代用茶を入れてほのぼのと湯気だったのを盆にのせ、それを目よりも上に高く捧げて持って来た。課長は彼女がその湯呑を、いつもと同じに、硯箱と未決既決の書類函との中間に置き終るまで、じっと見つめていた。
少女の給仕が、振分け髪の先っぽに、猫じゃらしのように結んだ赤いリボンをゆらゆらふりながら、戸口近い彼女の席の方へ帰って行くのを見送っていた田鍋課長は、突然竹法螺のような声を放って、誰にいうともなく、
「あーア、昨夜から、何か変ったことはなかったかア」
と、顔を正面に切っていった。そして手を延ばして大湯呑をつかむと、湯気のたつやつを唇へ持っていった。破れ障子に強い風が当ったような音をたてて彼は極く熱つのげんのしょうこを啜った。近来手強い事件がないせいか、どうも腸の工合がよろしくない。
ばたんと机に音がして黒表紙の帳簿が課長の前に置かれた。「事件引継簿第七十六号」と題名がうってある。課長は大湯呑を左手に移し、右手の太い指を延ばして帳簿の天頂から長くはみ出している仕切紙をたよりにして帳簿のまん中ほどをぽんと開いた。その頁には、昨日の日附と夕刻の数字とが欄外に書きこんであり、本欄の各項はそれぞれ小さい文字で埋っていた。
“――省線山手線内廻り線の池袋駅停り電車が、同駅ホーム停車中、四輌目客車内に、人事不省の青年(男)と、その所持品らしき鞄(スーツケースと呼ばれる種類のもの)の残留せるを発見し届出あり、目白署に保護保管中なり。住所姓名年齢不詳なるも、その推定年齢は二十五歳前後、人相服装は左の如し……”
課長はそのあとの文字を、目で一はけ、さっと掃いただけでやめ太い指で紙をつまんで、次の頁をめくった。
次の頁は空白だった。
(さっぱり商売にならんねえ)
と、課長は、刑事時代からの口癖になっている言葉を、口の中でいってみた。ぽたりと微かな音がした。茶色の液の玉が空白の頁の上に盛上って一つ。課長は大湯呑を目よりも上にあげて、湯呑の尻を観察した。それからその尻を太い指でそっと撫でてみた。指先は茶色の液ですこし濡れた。課長はすこし周章てて茶碗を下に置きかけたが、机に貼りつめている緑色の羅紗の上へ置きかけて急にそれをやめ、大湯呑は硯箱の蓋の上に置かれた。
課長の仕事は、まだ終っていなかった。事件引継簿の頁の上にはげんのしょうこの液の玉が盛上っていた。課長は、机の引出から赤い吸取紙を出して、茶色の水玉の上に置いた。吸取紙は丸く濡れた。その吸取紙を課長が取ってみると、帳簿の上の水玉は跡片なく消え失せていた。課長の当面の仕事は終った。
おれの次の仕事は、何時になったら出来てくるのであろうか――と、課長は背のびをしながら、両手を頭の後に組んだ。
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