怪人怪語
「イッヒッヒッ。……いくら探しても、まさか此処には居やしないよ」
鼠谷はますます機嫌がよかった。それだけ八十助は腹が立ってたまらなかった。
「君はこの僕を嬲るつもりだナ。卑劣なことはよし給え」
「ナニ俺が君のことを嬲るって?」鼠谷はわざと大袈裟に駭いてみせた。「それア飛んでもない言いがかりだよ。俺の言うことは大真面目なんだ。それを信じない君こそ実に失敬じゃないか……とは云うものの、君が一寸信じないのも無理がないと思うよ。余りに俺の云うことが突飛だものネ」
鼠谷は怒るかと見せ、その後で直ぐ顔色を和らげて八十助の機嫌をとるのだった。八十助はようやく気持を直した、それが策略であるかも知れないとは思いながら……。
「とにかく君は大嘘吐きだネ」と八十助は相手の顔にぶつけるように云った。「チャンと生きている癖に死亡通知をだしたのだからネ。僕としても、もし今夜君にめぐり逢わなかったとしたら、君は火葬場で焼かれて骨になっていることとばかり思っているだろうよ。君は何故、死んだと詐ったんだい」
「詐っちゃいないよ、俺は。あの死亡通知は本当なのだ。まア落着いて俺の言うことを一通り訊いてくれよ。全く奇々怪々な話なんだから。……」
鼠谷は八十助の腕をとらえて放そうとしなかった。そして此処では話ができないから、何か飲みながら話そうといった。そして馴染のいい酒場を知っているからといって、逡巡している八十助を無理に引張って行った。
それは確かに新宿裏にある酒場で、名前もギロチンという店だったが、その辺の地理に明るい八十助もそんな店のあるのを知ったのがその夜始めてだった。扉を押して入ってみると、土間は陰気にだだ広く、そして正面には赤や青や黄のレッテルの貼ってある洋酒の壜が駭くばかりの多種に亘って、重なり合った棚の上に並べてあり、その前のスタンドはいやに背が高く、そしてその間に挟まって店の方を向いているバアテンダーはまるで蝋人形のような陰影をもっていた。
「いらっしゃいまし。……貴方のお席はチャンとあれに作ってございます」
バアテンダーはゼンマイの動き出した人形のように白いガウンの腕だけを静かにあげて、隅の席を指した。そこには白バラの活けてある花瓶が載っていた。観察すればするほど奇妙な酒場だった。八十助はいつか西洋の妖怪図絵の中に、こんな感じのする家が出ていたのを思い出した。
鼠谷はカクテルを註文すると、すぐに話の続きを始めた。
「……いいかネ、甲野君。俺は一旦死んで、たしかにあの花山火葬場の炉の中に入れられたんだ。それを見たという証人もいくらでもあるよ。その人達にとっては、俺の生きていることを信ずることよりも、死んだことの方を信ずる方が容易だろうと思う。本当に俺は死んだのだ。一旦死んだ世界へ行ってきて、それから再びこの世に現れたのだ。思いちがいをしてはいけないよ。君には俺がよく見えるだろうけれど、俺はとくの昔に、この世の人ではないのだ」
「莫迦莫迦しい。もうそんなくだらん話は止し給え。誰が君を死人の国から来た男だと思うだろうか。それよりも、君の生きていたことを祝福して、一つ乾杯しようじゃないか」
八十助は鼠谷がおかしいのだと思ったので、いい加減にその相手から遁れるために、乾杯をすすめた。
「ナニ祝杯をあげて呉れるというのかい。そいつは嬉しい。では――」
カチンと洋盃を触れあわせると、二人は別々の盃からグッと飲み乾した。
「やあ、これで俺の勝利だ。今度は俺が君のために乾杯することにしよう」
といってバーテンダーに合図をした。
「君の勝利だって、何を云っているんだ――」
八十助は相手の言葉を聞き咎めた。
「それはこっちの話さ。いまに判るがネ。つまり君は俺がこの世の者でないという俺の説を信じてくれる見込がついたからさ。……さあ酒が来た。君のために乾杯だ」
「なんだって? 君は……」
八十助はそこまで云ったときに、俄かに酔いが発したのを覚えた。彼の前にある世界が、酒場が、そして鼠谷が、一緒になってスーッと遠くへ退いてゆくように思われた。
(呀ッ。これはしっかりしなくては……)
と卓子の上に手を突張ろうとしたが、どうしたのかこのときに彼の上体は意志に反してドタンと卓子の上に崩れかかった。
火焔下の金魚
八十助は不思議な夢を見ていた。――
クルン、クルン、クルン……
妙な音のしている空間に、彼は宙ぶらりんになっていた。赤いような、そして青いような、ネオンの点滅を身に浴びているような気がした。
クルン、クルン、クルン……
細かい綾のような波紋が、軽快なピッチで押しよせてきては、彼の身体の上を通りすぎてゆくのであった。すると今度は、上からも下からも、左からも右からも、前からも後からも(後方さえよく見えたのだから、後で考えると不思議である)、美しい虹が、槍が降ってくるように真直に下りてきては、身体の傍をスレスレに通りすぎるのだった。それもやがて、水の泡沫のように消え去ると、今度は大小さまざまのシャボン玉が、あっちからもこっちからも群をなしてフワリフワリと騰ってくるのだった。
クルン、クルン、クルン……
シャボン玉の大群はゆらゆらと昇って、どこまでも騰ってゆくように見えたが、そのうちに何か号令でもかけられたかのように、その先頭のシャボン玉がピタリと止ってしまった。それは丁度、見えない天井につきあたったような具合だった。なおも後からフワリフワリと騰ってくるシャボン玉は、みるみる重なりあって、お互いに腹と腹とをプルンプルンと弾きあった。八十助は何だか自分の胸を締めつけられるような苦しさを感じたのであった。
するとこんどはそのシャボン玉が、風に煽られるように、少しずつ騒めき立つと見る間に、やがてクルクルと廻りだした。その廻転は次第次第に速力を加え、お仕舞いにはまるで鳴門の渦巻のようになり、そうなるとシャボン玉の形も失せて、ただ灰白色の鈍い光を見るだけとなった。だんだん暗くなってゆく視野は、八十助の心臓をだんだん不安に陥しいれてゆくのであった。……
そのとき、忽然として、泥土の渦の中に、なにかピカリと光るものが見えた。なんだろうと、一生懸命みつめていると、その泥土の渦の中から浮び上って来たのは一つの丸い硝子器だった。その形は、夜店で売っている硝子の金魚鉢に似ていたが、内部は空虚だった。
(金魚鉢なんだろうか?)
と不審に思っていると、その鉢の底からパッと火焔が燃えだした。金魚鉢の上の穴からも真赤な焔の舌は盛んにメラメラと立ちのぼって、まるで昔の絵に描いた火の玉のようになった。八十助はどうしようもない不安の念に駆られて、アレヨアレヨと見つめているばかりだった。
すると急に、火焔が上に動きだした。金魚鉢の中で、火焔だけが競り上りだしたのであった。見る見るうちに火焔の底が現れた。火焔はズンズン騰ってゆく。やがて金魚鉢の頂上のところ一面に焔々と火は燃え上った。焔の下は何だろうとよく見ると、そこには清澄な水が湛えられてあった。
水は硝子のせいでもあろうか、淡い青色に染まっていて、ときどきチチチと歪んでみえた。その歪みの間から、何か赤いものがチロチロと覗いて見えた。
(何だろう、あれは!)
チロチロと揺めく赤いものは、だんだんと沢山に殖えていった。よくよく見ていると、それは小さい金魚の群であることが判った。
(金魚が泳いでいる!)
可愛い金魚が泳いでいるのだ、しかし何という奇怪なことだろう。金魚のすぐ頭の上は水面だったが、そこには呪わしい紅蓮の焔がメラメラと燃え上っているのだった。哀れなる金魚たちは、その焔に忽ち焼かれて、白い腹を水面に浮き上らせるだろうと思って気の毒に眺めていたが、その心配はすっかり無駄に終った。何故なら金魚は焔の下の水中で、嬉々として元気に泳ぎつづけていたからである。
焔が水中の金魚を焼かないとすると、焔は何を焼くだろうかと、急に心配になった。すると紅蓮の焔はまるで生物のように八十助の存在を認めて、そのメラメラといきり立つ火頭を彼の方に向け直すと、猛然と激しい熱風を正面から吹きつけた。
「うわーッ」
八十助は駭いて後方へ飛びのいた。焔は執拗に追いかけてきた。彼は夢中で駈けだした。ドンドン駈けて駈けてつづけた[#「駈けて駈けてつづけた」はママ]。
あまり一生懸命に駈けたので、気がついたときには、全く思いがけない場所に仆れている自分に気がついた。振りかえってみたが、もう焔は見えない。どこにも火が見えない。八十助の周囲には涯しない永遠の闇が続いていた。火焔の脅迫は去ったが、それに代り合って闇黒の恐怖がヒシヒシと迫ってきた。全く何も見えない無間地獄の恐怖が……。
彼は首を動かしてみた。頭の下に固いものが触れた。彼は地獄の底に、仰向きになって寝ているのだということが判った。なんだか頭の芯がピシピシ痛む。彼は手を痛む額の方へ伸ばした。そのとき思いがけなくも、伸ばした手が胸より少し高いところで何か固いものにぶつかり、ゴトリと響を立てた。
鼻をつままれても判らぬ暗闇の中に、ゴトリと手の先に当ったものは、一体何だったであろうか。
ゴトン、ゴトン。
(ム。――これは板らしい!)
八十助は、ゴトリと手先に触れたものを、板と感じた。板なればどこにある板であろうか。彼は手首を真直に立てて、上の方をさぐった。だが何にも触れない。こんどは腰をすこし浮かしてみた。そして手首をまた動かしてみた。果然なにか手先に触れた。
ゴトン、ゴトン。
(あッ、――上も板だ)
横も板、上も板、下も板らしい。足先で裾の方をさぐってみると、これも板、それなれば頭の上の方も板に違いない。するとこれは一体どんなところへ来ているのだろうか。四方八方板で囲まれたところといえば……。
「おお、そうだッ。――」
八十助の心臓は、早鐘のように鳴りだした。
「これは棺桶の中だ。棺桶の中に違いない!」
彼の胸には、急に千貫もあろうという大石を載せられたように感じた。棺桶の中に入れられている。いつの間に入れられたのか。彼は人事不省から醒めて、生きている悦びを、やっと感じたばかりだったが、その悦びは束の間に消え去った。いくら生きていても、棺桶の中に入れられていては、どうしようもない。彼は望みがないと知りつつも、手足や首をゼンマイ仕掛けの亀の子のようにバタバタ動かした。ドカンドカンと板の上を叩いた。叩いているうちに不図気がついた。
(こうして叩いていれば、誰かが発見してくれるかも知れない)
八十助は、彼の入った棺桶がどこかの祭壇に置かれている場面を想像した。しかし何のザワメキも鐘の声も聞えないところから見れば、それはまず当っていなかった。
(それでは、死体収容所かも知れない?)
死体収容所なれば、森閑としているのも無理がない筈だった。そうだ、そうだ。死体収容所であろうと思った。それで彼は、しばらく暴れることを中止して、両方の耳を澄ました。外部から何の音も響いてこないことを確かめるためだった。
「いーや。……何か聞こえる!」
彼はハッと胸を衝かれたように感じた。何か聞えるのであった。あまり大きい声ではなかったが、水道の栓をひねったときにするようなシュウシュウという音が聞えて来た。
「何だろう、あのシュウシュウいう音は?」
そのうちに、ドンドンというような音が交って来た。その間にカーンと、金属の触れ合うかん高い音が交って聞えた。
「おや。――」
それは、どこかで聞いたことのある音響だった。ドンドンという低いながらも、底力のある物音が地鳴りのように、八十助の腹の底を打った。彼は呼吸をこらし、身体をすくめてその異様な物音に聞き入った。
パチパチというような音が交り始めたと思う間もなく、今度は八十助の身体が、不思議に熱くなって来た。考えてみると、先刻から気がつかなければならなかったことだが、彼が暗黒の箱の中で気がついてからこっち、室内は春のように暖かだった。厳冬の真唯中だというに、まるで春のような暖かさは不思議だった。ところがいま急に熱くなって来たのでこの異様な温度の上昇に気がついたというわけだった。
「何が始まったのだろう?」
と思ううちに、パッと眼の先が明るくなった。といっても暁に薄っすりと陽の光りがさしこんでくる位の明るさだった。奇態なことに、別に臭気というものを感じなかったけれど、――それは後に至って、一種の瓦斯マスクが懸けられていたので、臭気を感じなかったことが判った――このパッと差し込んだ明るさと、パチパチと物の焼け裂けるような音響とは、八十助に絶望を宣告したも同様だった。彼の脳裏には、始めてこの不思議な場所についての一切が判明した。
「ううッ。これは火葬炉の中だッ。もう火がついて、棺が焼けはじめたのだッ。ああ、俺はどうなる!」
彼は、上下の歯をギリギリと噛み合わせた。
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