ふしぎな場所
猛烈に睡い。
しかし僕はそのとき自分の知覚をすこしずつ取戻しつつあったのだ。
(誰か僕に麻薬を嗅がしたんだな。そして眼がさめてみりゃ僕は意外な場所に横たわっているという寸法だろう)
それは果して麻薬であったか、それとも脳麻痺力のある電波であったか、そのところは、はっきりしないが、何者かのたくらみによって僕がホテルの一室から他の場所へ誘拐されたことはたしかだった。
僕は徐々に眼ざめつつあった。
かたいコンクリートの床の間に自分が横たわっていることに気がついた。果して誘拐されたんだ。それにしても、冷たいコンクリートの上に寝かされているとは、なんという相手の無礼だろう。いや、強盗のたぐいに、無礼もへちまもないだろう。なんだって、その強盗は僕をこんなところへ……。
「おや、僕はすっ裸になっているぞ」
いつの間にか僕の寝巻ははぎとられていた。まっ裸だ。これにはおどろき、かつあきれてしまい、その場に座り直した。そしてあたりをぐるぐると見まわした。
へんな場所であった。
お伽噺の中では、王城の奥のすばらしい美室へ誘拐されることもあるが、それは特別の場合で、誘拐されるとなると、多くの場合はあやしき場所へ連れこまれるのが普通であった。正に僕はあやしき場所へ連れこまれている。床はつめたいコンクリート。四方の壁はどんな材料で作ってあるのか、墨のようにまっ黒である。天井は――天井はすこぶる高い。五十メートル位はある。そして上に向いたときに発見したのであるが、四方の壁は十メートル位しかない。十メートルの壁が、立ちっ放しである。天井がそこにあっていいはずと思うが、そこは天井がなくてそれより四十メートルも高いところに天井がある。要するに、蓋のない箱みたいなものの中に、僕が入っているんだ。
上には、放電灯が明るく輝いていて、僕を照明している。寒くはないが、はずかしかった。
と、そのとき床の上を、どこからともなく水が流れて来た。僕は身体をぬらすまいとして、ふらふらする足取りで、その場に立ち上がった。
が、水はいつの間にか嵩を増し僕の足の甲を水が浸した。
それから先は、そんななまぬるいことではなかった。水嵩はみるみるうちに増大して、水位は刻々あがって来た。床の四隅から水は噴出すものと見え、その四隅のところは水柱が立って、白い泡の交った波がごぼんごぼんと鳴っていた。
ひざ頭を水は越えた。間もなくお臍も水中にかくれた。しかも増水のいきおいはおとろえを見せず水位はぐんぐんあがってくる。
(水槽らしいが、僕をどうしようというんだろう。水浴をさせるつもりでもあるまいに……)
水は僕の乳の線を越え、やがて肩を越した。僕は今にも溺れそうになった。爪先立ちをして僕は背のびをした。
(水責めにして、僕を溺死させるつもりか。一体何奴だ。こんなに僕を苦しめる奴は?)
もういけない。爪先で立っていても、水が鼻孔に入って来る。仕方がないから僕はもう立っていることを諦めて平泳ぎをはじめた。
水は塩っからかった。
(なるほど、海水だな)
平泳ぎから立泳ぎになったり、また平泳ぎにかえったり、僕は二十分間ぐらい泳いだ。相手は僕を泳ぎ疲れさせて殺すつもりかもしれない。しかし僕は、水に浮いていることなら十八時間がんばった記録をもっている。だからちっとも恐れなかった。
ただ一刻も早く、この憎むべき陰謀の主を見つけだして、きめつけてやりたい。
相手は、どこからか僕の様子を監視しているのに違いない。そう思ったから、僕はますます落着きはらっているところを[#「ところを」は底本では「ところ」]見せるために、泳ぎながら佐渡おけさを歌ったり、草津節を呻ったりした。
「だめね、これでは。水の中へ潜らなくちゃ実験になりゃしないわ」
壁の向うと思うが、かすかではあるが、そんな風にしゃべる女の声を聞いた。
あれッと、僕が緊張する折ふし、水槽の横手の方から、ぎりぎりと硝子の板が出て来て、僕の頭の上を通りすぎていった。
「やっ、硝子天井だ」
とつぜん出現した硝子天井は、僕を完全に水中におし下げた。
こうなると、鉢の中に入れられた金魚か亀の子同然だ。金魚や亀の子なら、水中ですまして生きていられる。しかし僕は人間だ。空気を吸わねば生きていられない。これはいよいよ溺死の巻か。
僕はなぜ溺死させられるのか。
迫る硝子天井
水槽の中の水かさはいよいよ増した。
僕は泳ぎ続けていた。
頭が硝子天井につかえるまでに水かさは増した。まっすぐに顔を向けて泳ぐことは、もう出来ない。鼻の孔も口も、共に水中に没してしまうからだ。仕方なく僕は平泳ぎをしながら、顔だけは横に寝かして、辛うじて息をつくことが出来た。
(一体何者か。僕をこんなに苦しめる奴は。まさか僕を殺すつもりじゃないだろうと思うが、ひどい目にあわすじゃないか)
僕は、一生けんめい水をかきながら、姿の見えないこの暴行の主を恨んだ。
ところが、水かさは更にずんずん増して来るではないか。硝子天井は、容赦なく僕の頭をおさえつける。僕はさっきから無理な姿勢をとり首を横にまげて泳いでいるので、頸の筋がひきつって痛くてたまらない。そのうちに鼻の孔も口も、水に洗われるようになった。いよいよ水が天井につきそうなのである。僕は、したたか水を呑んでしまった、水なんか決して呑みたくないのに。
今や僕は溺死の一歩手前にあった。顔を上に向けた。硝子天井に接吻するような恰好である。そして立ち泳ぎだ。頸をうしろに無理に曲げているので、痛いやら苦しいやらで生きている心持もない。「助けてくれ」と叫びたいのだがそんな声も出ない。そんな声を出して叫ぼうものなら、たちまち身は水中に沈んで、溺死をせねばならぬ。
苦しい立泳ぎが、一層苦しくなる。浮力がなくなり、いくたびとなく、ずぶりずぶりと水中にもぐる。これ以上水を呑まないようにと息をつめるものだから、再び水面へ浮かびあがるまでの息苦しさったらない。ああ、何だって僕をこんなに苦しめるのか。
もう欲もなんにもいらないと思った。助けてくれぃだ。もう二十年後の世界に逗留する欲もなんにもなくなった。おお辻ヶ谷君よ。早く僕を時間器械の力でもって、元の焼跡の世界へもどしてくれたまえ。ぐずぐずしていると、僕はここで土佐衛門になってしまうであろう。
またずぶずぶともぐりこんで、そこで手足をだらんとして浮力が勝って身体の浮きあがるのを千秋のおもいで待った。ようやく浮き身がついて、身体がすううっとよっていった。僕は例のとおり頸を曲げ、唇を一番高い位置へつきだして、水面へ唇が一刻も早く出ることを願った。ところが唇は水面へ出るかわりに、冷たい硝子天井に触れた。
いつの間にか、水面と硝子天井とがくっついてしまったのである。水面と硝子天井との間に残っていたわずかの空気層がなくなってしまったのである。水はついに硝子天井についたのである。ああもう吸うべき空気がなくなった。
(本当か。僕をここで溺死させるつもりか。なんという憎むべき悪魔!)
僕はもうやぶれかぶれだった。
拳をかためて、硝子天井をどんどんつきあげた。頭を天井にぶつけてみた。硝子天井は厚い。そんなことでは破れそうもない。僕はついに身体をさかさまにして、両脚に全身の力をこめて、硝子天井を蹴った。
ああ、それも無駄に終った。足の骨が折れそうになり、激痛が全身を稲妻のように突き刺しただけであった。
(もう駄目か。息が出来なければ僕は死んでしまう)
僕はもう気が変になりそうだ。どこかに空気のもれて来る穴がないものかと、僕は水槽の中を魚のようにもぐって、あっちの壁やこっちの底を探りまわった。だが、すべては無駄であった。
無駄と知りつつ、それでも僕は水中を、あざらしのようにはねまわった。
やがて僕は、続けざまに水をがぶかぶ呑んでいた。呼吸は苦しさを通り越して、奇妙に楽になった。胃の腑の方が苦しくなった。僕はもっと泳ぎまわり潜り続けて空気を見つけなければならないと思いながらも、僕の身体はだらんとしていた。水の層を通してあいている両眼に、うす青いあかりが入って来るのが、夢の国にいるような感じだった。
僕の知覚はだんだん麻痺して来たんだ。
わが耳に、遠くで人がいい争っている声が聞こえる。本当に聞こえるんだか、幻想なんだか、どっちとも分らない。それは男と女との口論のようでもある。声高く笑っている。そうかと思うと、くやしそうに泣いているようでもある。
(僕はもう死ぬんだな)
僕はそう悟った。死にたくない。しかしどうにもならない。ああ神さま!
それからどのくらいの時間が経ったか、僕は覚えていない。とにかくぼんやりと気のついたとき、僕はしきりに口から水を吐いていた。いや、正確にいえば水を吐かされていたのだが……。
遠大なる実験案
僕は、うつ向いて、水を吐かされていた。
胃袋の下に、砂枕のようなものがあたっていた。そして誰かが、僕の背中に、ぐいぐいと力を加える。そうすると僕は、障子がひきさけるような音をたてて、ごぽごぽと下へ水を吐くのだった。
僕には見えないが、僕の頭の上で、がやがやと喋っている人声がする。それは非常に遠いところで喋っているようにも思われる。僕の知覚は、まだ麻痺状能を脱し切っていないのである。その証拠に喋っている人声が急に遠くなったり、また僕が水を吐いていることが分らなくなって花園の中に犬を追いまわしている夢の中に入ってしまったりした。僕の身体の方々には、三重にも四重にも違った疼痛があって、それに耐えるのに僕のエネルギーは精一ぱいであった。誰が僕の背中を押して水を吐かせているのか、誰が口論してるのか、頭をあげてその方を見る余裕など全くなかった。
それでも、時間の経過するにつれ、もうろうたる意識ながら、それがすこしずつ整理されて来るようであった。
すなわち、僕は盛んに罵りあう男女の言葉の意味がところどころ分るようにもなったし、また僕の臀部にいくども注射針がぶすりと突立てられることも分った。
「なんといっても、あたしの説が正しいと証明されたわけよ」
「いいや、そうはいえない。僕の説の方が正しい。そうでしょう、この実験動物は、正に溺死してしまったじゃないですか」
「それは溺死したかもしれないわ、でもそれはこの実験動物が、目下腮を備えていないために、水中で呼吸が出来ないという構造を持っているためよ。溺死しようと、この実験動物が水槽の中で見せた水中動物らしいあのすばらしい運動や反射作用や平衡感覚などはあたしの説を正しいものと証明したじゃありませんか。正にこの実験動物は、水中動物たるの機能を持ち、機能を保持していると断定できる。そうじゃなくって」
「そりゃね、いくぶんそれは認められるけれど……」
「ああ、なんてしみったれな仰有り様でしょうか。これだけ明らかなことを、しぶしぶ認めるなんてフェア・プレイじゃないわ」
「だがね、とにかくこの実験動物は一度溺死してしまったんだ。だから、そう大きなことは、いえないわけだ」
「あなたは頭が悪いのね。そういう難癖のつけ方は、何といってもフェアじゃないわ」
「まあ、そういうなら、それでもいいということにして、僕はもっとくりかえし、この実験を続けることを提議しますね」
「それはもちろんあたしも同感ですわ」
僕は急に目がまわりだした。僕の頭の上で、があがあ口論をやっているのは、男大学生のトビと女大学生のダリア嬢にちがいない。かねてこの御両人は熱心に人体に残る平衡器官の研究をすすめていたわけだが、両者の説は対立していて正しいか然らざるか判定がつかないので、遂に両人は僕をホテルのベッドから盗み出して、かの水槽へ入れ、魚のような目にあわしたのに違いない。その揚句、乱暴にも僕を溺死させたが、まだそれにあきたらないで僕を実験動物と呼び、そしてその僕をもっと金魚や鮭のまねをさせようといっているのである。溺死はもうたくさんだ。この上第二回、第三回の溺死をくりかえされていると、そのうちに僕は弱ってしまって、いくら注射をうっても生きかえらなくなることだろう。僕は大いに抗議をしたいと思ったが、残念なことに口も身体もきかない。
「あたし、考えたんですけれどね」
とダリア嬢が元気一ぱいの声でいう。
「この次の実験には、この実験動物が水槽で楽に呼吸が出来るように呼吸兜を頭にかぶせようと思うんですの。つまり、適当に酸素を補給させ、過剰の炭酸瓦斯が排出されるようになっていればいいんですから、そのような呼吸兜を作るのはわけありませんわ」
「それはいいでしょう。しかし身体の釣合いを破らないように考えないといけませんね」
「そうですね。身体の他の部分にも別の錘をつけましょう。あたしはもっといろいろと考えていますのよ、発展的な実験をね」
「発展的な実験というと、どんなことをしますか」
「すこし大胆かもしれませんけれど、この実験動物をやがて深海へ放ってみようと思うんです。そして深海の重圧力がこの実験動物の平衡器官にどんな影響を及ぼすかを調べてみたいと思います」
「それは面白いですね。しかしその実験を最後として、この実験動物は役に立たなくなりますよ。おそらくひどい内出血をして死んじまうでしょうからね」
「それはもう死んでもようござんす」
僕は聞いていて気が遠くなりそうだった。死んでもようござんすとは御挨拶だ。おお、僕は一体これからどうなるか。
絶望の底
女学生ダリア嬢と男学生トビ君のために、水槽の中で実験の道具にさんざん使われて、へとへとになっている僕の耳に、この次は呼吸兜を僕にかぶせて深海へ放りこむつもりよとのダリア嬢の放言が響いた。
僕はおどろいたが、すっかり精力をなくしているので、立上って逃げ出す元気はないばかりか、それに抗議する声さえ出なかった。
(もう駄目だ。僕はやがてこの両人に殺される。――殺された結果、僕は一体どういうことになるのか、元の世界へ舞い戻ることになるのか、それともあたり前の死のように、たちまち意識は消えて、それなりけりとなるのか、どうなんだろう?)
殺されることだけでさえいやな上に、死後のことまでを心配しなければならないとは、なんたる不幸な僕であろうか。禁断の園に忍び入ったる罪は、今、裁かれようとしているのだ。僕はもう観念した。たとえ針の山であろうと無間地獄であろうと、追いやられるところへ素直に行くしかないのだ。
僕は、ひそかに仏さまの慈悲に輝いたお顔を胸に思いうかべた。そして南無阿弥陀仏を唱え始めた。もちろん声は出ない、心の中でどなりたてたに過ぎないけれど……。
そのときであった。大きながらがら声で突然怒鳴り散らし始めた者があった。その声はトビ男学生の声でもなく、また[#「また」は底本では「まだ」]もちろんダリア嬢のそれでもなかった。その叱咤する声は、だんだん大きくなっていって、雷鳴かと疑うばかりだった。
「……ばかだねえ、君たちは。二度と手に入らない貴重な人間をそんな無茶な目にあわすとは困るじゃないか。死んじまったら、わしは免職だよ。それに第一、これは君たち両人の所有物じゃないだろう、両人だけに勝手に処分されちゃ困るよ」
その声に聞き覚えがあった。それこそ正にカビ博士だった。
カビ博士が救援に駆けつけてくれなかったら、僕は遂にダリア嬢たちの手であえない最後を遂げてしまったことであろう。後でタクマ少年から聞いたところによると、博士は僕の盗難を大学の人からの急報によって知り、ベッドを滑り下りると寝巻のまま大学へ駆けつけ、それから捜査に移ったそうである。
「もう大丈夫だ。明日になれば元気を恢復するだろう。そしてもう、学生たちには襲撃されないように万全の手配をしてあるから、安心したまえ」
と、博士は僕を見舞って、こういった。
「先生。もう深海になげこまれるようなことはないでしょうね」
「そんな危険は今後絶対に起こらない。あの凶悪なるダリア嬢と共犯者トビ学生は、共に本校から追放されたんだから、もう心配することはない」
遂に放校処分にあったのか。そんならもう大丈夫だろう。しかし僕はどこかに不安の影が宿っているような気がしてならなかった。
その翌日になると、カビ博士は又僕の病室を訪れて、枕頭に立った。
「さあ、退院だ。わしと一緒に出よう」
「えっ、もう退院ですか。しかし僕は起上ろうとしても、ベッドから起上る腰の力さえないんですよ」
「ああ、そうか。それはまだ磁界を外してないからだ。待ちたまえ今それを外すよ。……さあ、これでいい。起上りたまえ」
博士がベッドの下へ手を入れて何かしたと思うと、僕の身体は俄に楽になり、軽くなった。それは病人の安静器がベッドの下に入っているんだと、博士の説明であった。
その博士は、「今日はこれから君の慰安かたがた、君を深海見物に連れて行こうと思う」といって、髭の中からにやりと笑った。
深海見物と開いて、いつもの僕なら大喜びをするところだったが、ダリア嬢たちから深海へ放りこむと嚇されたことを思い合わして、僕はぞっと寒くなった。
「それは願い下げにしたいですね。僕は深海と聞くと、ぞっとしますんですね」
「心配はないよ。わしの愛艇メバル号に乗っていくんだから、どんなに海底深く下ろうと絶対安全だ」
「でも当分僕は……」
「それにわしは、折入って君に相談したいことがあるんじゃ。それも早くそれを取決めたいんだ。だからぜひ行ってくれ」
いつになくカビ博士が下手から出て、僕に懇願せんばかりであった。そういうとき、僕が博士のいうことをきいておかないと、僕が困ったときにどんな目にあうかもしれないと思ったので、僕は遂に同意した。すると博士は非常に喜んで、顔中の髭を動かし、満面に笑みを浮かべた。その笑顔を見ていた僕は、ふと別の顔を思い出した。
(ふしぎだなあ。カビ博士の顔と辻ヶ谷君の顔とは、非常によく似ているところがあるが……)
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