第三話 大蘆原軍医の話
「それでは私が、今夜の通夜物語の第三話を始めることにしよう」そう云って軍医はスリー・キャッスルに火をつけた。
「川波大尉どののお話といま聞いたばかりの星宮君の話とは全然内容がちがっている癖に、恋愛論というか性愛論というか、それが含まれているところには、一種連続点があるようだ。そこで、私の話も、勢いその後を引継いだように進めるのが、面白いように思う。ところが丁度ここに偶然、第三話として、まことに恰好な物語があるんだ。そいつを話すことにしよう。
実は今夜、私がここへ出勤するのが、常日頃に似合わず、大変遅れてしまって、諸君に御迷惑をかけたが(と云って軍医は軽く頭を下げた)何故私が手間どったのか、それについてお話しよう。
今夜七時、私の自宅に開いている医院に、一人の婦人患者がやってきたのだ。美貌のせいもあるだろうが、二十を過ぎたとは見えぬうら若い女性だった。その、少女とでも云いたいような彼女が、私に受けたいというのは、実は人工流産だというんだ。一体、人工流産をさせるには、医学的に相当の理由が無くては、開業医といえどもウッカリ手を下せないのだ。母体が肺結核とか慢性腎臓炎であるとかで、胎児の成長や分娩やが、母体の生命を脅すような場合とか、母体が悪質の遺伝病を持っている場合とかに始めて人工流産をすることが、法律で許されてある。若しこれに反して、別段母体が危険に瀕してもいないのに、人工流産を施すと、その医者は無論のこと、患者も共ども、堕胎罪として、起訴されなければならない。
さて、その若い女の全身に亙って、精密な診断を施したところ、人工流産を施すべきや否やについて、非常に困難な判断が要ることが判った。それというのが、打ちみたところ、この女は立派に成熟していたが、すこし心神にやや過度の消耗があり、左肺尖に軽微ながら心配の種になるラッセル音が聴こえるのだ。この患者の体力消耗が一時的現象で、このまま回復するのだと、肺尖加答児も間もなく治癒するだろうから、折角始めて得た子宝のことでもあり、流産をさせないで其の儘、正規分娩にまで進ませていいのだ。だが若し、この消耗が恢復せず、更に悪化するようなら、断然流産をさせて置く方がよろしい。しからば、この女性について、見込みはいずれであろうか、と考えると、これがどっちにも考えられるのだ。私として、これは惑わざるを得ない事柄だった。
『もう一ト月待ってみませんか』
と私は云いたいところだ。しかし、一ケ月後の人工流産では、すこし大きくなりすぎているので、母体の余後が少し案ぜられるのだった。けれども、私はそんなことを口に出して云わなかった。それというのが、以前この女の口から泪をもって聞かされた話があるからなのだ。
この若い女には、彼女の胎児にパパと呼ばせる男がなかったのだ。と云って、その男が死んでしまったわけではない。早く云えばこの女は、親の許さぬ或る男に身を委せ、とうとう妊娠して仕舞ったのだ。男は、幣履のごとく、この女をふり捨ててしまったのだった。彼女は、星宮君の云うが如きロシアの女には、なりきれなかったのだ。棄てられてしまうと、彼女はやっと目が覚めた。貞操を弄ばれた悔恨が、彼女の小さい胸に、深い深い溝を刻みこんだ。それからというものは、彼女は人が変ったように終日おのれの小さい室に引籠って、家人にさえ顔を合わすのを厭がったが、遂には極度の神経衰弱に陥り、一時は、あられもない事を口走るようになってしまったのだった。
彼女の家庭のひとびとは、彼女を捨てたその男を呪ってやまなかった。中でも一番ふかい憤怒をいだいたのは、次兄にあたる人だった。次兄は彼女が幼いときから、特別に彼女を可愛いがっていたのだった。
『大きくなったら、あたいのお嫁さんに貰おうかなア』
などと云って両親や、伯母たちに散々笑われたほどだった。そんなに可愛いがった妹が、救う途のない汚辱に泣き暮しているのを見ると、その次兄は、
『復讐だ、復讐だ! きっと其の男を殺して、八ツ裂きにしてやるんだ。おれがその男を殺した廉により、次の日、死刑にされたっていい』
と家中を呶鳴って歩いたものだ。彼は復讐の方法をあれやこれやと考えたのだったが、遂には、それはすべて無駄だと判った。それというのが、その男は、星宮君と同じような近代的の主義思想の男で殺されても一向制裁と感じないという種類の人物だった――とマア、斯様に連絡をつけて話をしないと、どうも面白味が出てこない」
軍医はポケットから手帛を探しだして汗を拭いた。このとき南に面した硝子窓が、カタコトと鳴って、やがてパラパラと高い音をたてて大粒の雨がうち当った。
「ほう、これはひどい雨になったな。――で其の次兄というのが、智恵袋を、いくたびもいくたびも絞りかえしているうちに、とうとう彼は、その場に三尺も躍りあがるような、素晴らしい復讐を考えついたのだった。それは……」
と、ここまで大蘆原軍医が話してくると、どこかで、
「コトコト、コトコト……」
と扉を叩くような物音がした。三人の男は、サッと顔色をかえると、一斉に入口の扉の方にふりむいたのだった。
「吁ッ!」
扉が、しずかに手前へ開いてゆく。
扉の蔭から、若い女の姿が現われた。ぴったり身体についた緋色の洋装が、よく似合う美しい女だった。
「紅子――」
そう呼んだのは、川波大尉だった。それは、紛れもなく川波大尉夫人の紅子に違いなかったのであった。
「紅子、お前は一体、どうしてこんな夜更に、こんな場所までやって来たのだ」
「ちょいと、お顔がみたかったのよ。それだけなの、おほほほほ」
と紅子は笑いながら、悪びれた様子もなく一座を見まわした。このときニヤリと笑ったのは、星宮学士だった。待ち構えたように、それを逸早く認めた川波大尉だった。彼は軍医の話をそちのけにして、スックリ其の場に立ち上った。
「紅子、お前にちょっと聞くが、儂が土耳古で買ってきたといった珍らしい彫刻のある指環を、お前にやって置いたが、先日そいつを、どこかで失くしたと云ったね」
「エエそうですわ。でもあれは、もう済んだことじゃありませんの」と紅子は、丸い肩を、ちょっとすぼめるようにして云った。
「よォし、無いと判ってりゃ、よいのだ」大尉はそう云うとクルリと身を飜し、いきなり星宮学士の両腕をグッと掴んだ。「貴様! という貴様は、実に怪しからん奴だ。儂の女房を誘惑して置いて、よくもあんな無礼きわまる口を叩いたな。死ぬのを怖れんという貴様に、殺される苦痛がどんなものか教えてやるんだ!」
実験室の静寂と平和とは、古石垣のようにガラガラと崩れて行った。
「ウフ。今になって気がついたか、可哀想な大尉どの。だが僕が簡単に殺せると思ったら大間違いだよ」
「言うな、色魔!」
「なにを――」と星宮学士は、右のポケットにあるピストルを探りあてた。それを出そうと思って、大尉につかまれた右腕を離そうとして、必死に振りきった。べりべりッという厭やな音がして、学士の洋服が引裂けると、右腕が急に自由になった。
(こうなると、こっちのものだ)
そう思った星宮学士は、ピストルを握った右の拳をグッと前にのばそうとした。そこを、
「エイ、ヤッ」
と大尉が飛びついて、両腕をグッと捻じあげた。学士は捻じられながらも、いきなり大尉の脇腹を力一杯
「ウン!」
と蹴とばしたが、この時遅し、大尉は素早く、身体を左に開いたので、気絶することから、辛うじて免れたが、その代り、二人の身体は、もつれあったまま、もんどり打って床の上に仆れてしまった。二人は跳ねおきようと、互に死物ぐるいの格闘をつづけ、机をひっくりかえし、書類箱を押したおしているうちに、どうした弾みか、ピストルが星宮理学士の手許をはなれ、ガチャンと音をたてて、向うの壁に叩きつけられた。
「さあ、この野郎。ほざけるなら、ほざいてみろ!」
そう云って、いかにも勝ちほこった名乗をあげたのは、川波大尉だった。星宮理学士は大尉の逞しい腕にその細首をねじあげられて、ほとんど宙にぶらさがっていた。が、どんな隙があったのだろうか、学士は両手を大尉の股間にグッと落とすと、無我夢中になって大尉の急所を掴んだのだった。
「ウーム」
と大尉が呻った。彼の顔は赤くなり、青くなりしたが、これも死にもの狂いの形相ものすごく、学士の身体をグッと手許へよせると、骨も砕けよと敵手の頸を締めつけた。学士は朦朧と落ちてゆく意識のうちに、頻りに口を大きくひらいては喘いでいた。だが彼の執念ぶかい両手は、なおも大尉の急所を掴んでそれを緩めようとはしなかった。この儘に捨てておくと、二人とも共軛関係において死の門をくぐるばかりだった。
「紅子、うう射て……ピストル、いいから……」
大尉の声は、切れ切れに、蚊細く、夫人の援助をもとめたのだった。
このとき紅子は、いつの間にやら、右手にしっかりとピストルを握りしめていたが、夫大尉のこの声をきくと、莞爾とほほえんだ。
「いいこと!」
紅子のしなやかな腕がグッと前に伸びる。キラリとピストルの腹が光って、引金がカチリと引かれた。
「ズドーン!」
銃声一発――大尉と学士とは、壁際から同体に搦みあったまま、ズルズルと音をさせて、横に仆れた。
ピストルの煙が、やっと薄らいだとき、仆れた二人のうちの一人が、フラフラと半身を起した。それは大尉にはあらで、意外にも星宮理学士だった。
彼は、紅子が一発のもとに射ち殺したのは、彼女の夫君である川波大尉だと知ると、咄嗟のうちに気をとり直し、威厳をつけて、ノッソリ起きあがると、フラフラと紅子の方に歩みよるのだった。
「星宮君。ここへ懸け給え」
このとき、静かに云ったのは、この場の生命のやりとりに、一と言も口を利かず、片腕もあげなかった奇怪の人物、大蘆原軍医だった。自分の名をよばれると、流石の星宮理学士も、ギョッとして、その場に立ち竦んだ。
「星宮君。私の第三話が、もうすこしで、尻切れ蜻蛉になるところだった。幸い君は生命をとりとめたようだから、サアここへ坐って、あの話の続きを聞いてくれ給え」
軍医は、落着きはらって、空虚になった二つの椅子を指した。学士は、眼に見えぬ糸に操られるかのように、ヨロヨロとよろめきながら、やっとその椅子の傍まで近付くと、崩れるように、その上に腰を下ろした。
「……」
「さア、いいかね、星宮君。さっきは、僕に手術を頼んだ娘の次兄というのが、素晴らしい復讐方法を、妹をかどわかした男に加えるため、考えついた、というところまで話したのだったね。サアその続きだが、さて、あの女の次兄が考えだした讐打ちというのはね、死をも怖れないと自称する人間に『死』以上の恐怖を与えることにあったのだった。それで次兄は、今夜妹を人工流産させることに決心したのだ。手術は四十分ばかりかかったが、私の手で巧く終了した。摘出されたのは、すこし太い試験管の、約半分ばかりを占領している四ケ月目の××××××だった。いいかね、その試験管の底に沈澱している胎児は、その男と、あの可憐なる少女とが、おのれの血と肉とを共に別けあって生長させた彼等の真実の子供なのだった。でも母親の胎内を無理に引離され、こうしているその胎児には、もうすでに生命が通っていないのだった。闇から闇へ流れさった、その不幸な胎児の、今日は命日なのだ。その胎児にとって、今夜のこの話は、本当の意味の通夜物語なのだ。
これだけ云えば、星宮君、君にはなにもかも判ったろう。あの胎児の父は、君なのだ。あの胎児の母は、ちどり子と呼ぶ。さて此処で、君から訊かして貰いたいことがある。君に返事ができるかね。
先刻、君は私の手料理になる栄螺を、鱈腹喰べてくれたね。ことに君は、×××××、箸の尖端に摘みあげて、こいつは甘味といって、嬉しそうに食べたことを覚えているだろうね。
それで若し、私が、あのちどり子の次兄であったとして、いやそう驚かなくてもいいよ、先刻、君が口中で味い、胃袋へおとし、唯今は胃壁から吸収してしまったであろうと思われる、アノ××××が、栄螺の内臓でなくして、実は、君の血肉を別けた、あの胎児だったとしたら、ハテ君は矢張り、
『×××××を、ムシャムシャ喰べてみたが、たいへんに美味かった』
と嬉しがって呉れるだろうか、ねえ星宮君――」
「ウーム。知らなかったッ」
と、ふり絞るような声をあげたのは星宮理学士だった。その顔面はみるみる真青になり、ガタガタと細かく全身を震わせると、われとわが咽喉のあたりを、両手で掻きむしるのだった。
ああ、時はもうすでに遅かった。いま気がついて、ムカムカと瀉き気を催しても、彼の喰った栄螺は、もはや半ば以上消化され、胃壁を通じて濁った血となったのだった。頸動脈を切断して、ドンドンその濁った血潮をかいだしても、かい出し尽せるものではなかった。彼の肉塊をいちいち引裂いて火の中に投じても、焼き尽せるものではなかった。彼は自己嫌悪の全身的な嘔吐と、極度の恐怖とを感ずると、
「ギャッ」
と一声、獣のような悲鳴をあげて、その場に卒倒したのだった。呪われたる人喰人種――。
×
それを見届けると、大蘆原軍医は始めて莞爾と笑って、側らに擦りよってくる紅子の手をとって、入口の扉の方にむかって歩きだした。
今宵、紅子は、彼女の良人、川波大尉を射殺して置きながら、それを振返ってみようともしないのは、どうしたことであるか。それは、川波大尉こそは、第一話に出て来た熊内中尉に、あの恐ろしい無理心中を使嗾した悪漢だった。そのために、当時、鮎川紅子と名乗っていた彼女は、愛の殿堂にまつりあげておいた婚約者の竹花中尉を、永遠に喪ってしまったのだった。
いわば、今宵の良人射殺事件は、あたかも竹花中尉の敵打ちをしたようなものだった。この隠れた事実を、紅子が知ったのは、極く最近のことで、それを教えたのは、炯眼きまわる大蘆原軍医だった。今夜の紅子の登場も、無論、軍医の書いたプログラムの一つだった。
ここへ来て、この軍医を賞讃する前に、読者諸君は、すこし考えてみなければならない。それは、いくら愛する妹の復讐とは云え、彼女の産みおとしたものを、人間に喰わせるという手段が、人道上許されるものであろうかどうか。奇怪にも友人の細君だった婦人を、狎れ狎れしく、かき抱いてゆく大蘆原軍医は、誰よりも一番恐ろしい、鬼か魔かというべき人物ではあるまいか。
それはそれとして、二人の姿が、戸外の闇に紛れて、見えなくなった丁度その時、血みどろに染った二つの死骸が転っている実験室では、真夜中の十二時を報ずる柱時計が、ボーン、ボーンと、無気味な音をたてて、鳴り始めたのだった。
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