海野十三全集 第1巻 遺言状放送 |
三一書房 |
1990(平成2)年10月15日 |
1990(平成2)年10月15日第1版第1刷 |
1
「一体どうしたというんだろう。大変に遅いじゃないか」
眉を顰めて、吐きだすように云ったのは、赭ら顔の、でっぷり肥った川波船二大尉だった。窓の外は真暗で、陰鬱な冷気がヒシヒシと、薄い窓硝子をとおして、忍びこんでくるのが感じられた。
「ほう、もう八時に二分しか無いね。先生、また女の患者にでも掴ってんのじゃないか」
腕時計の硝子蓋を、白い実験着の袖で、ちょいと丸く拭いをかけて、そう皮肉ったのは白皙[#底本では「白晢」]長身の理学士星宮羊吾だった。
これは第三航空試験所の一部、室内には二人の外誰も見えない。だがこの二十坪ばかりの実験室には、所も狭いほど、大きな試験台や、金具がピカピカ光る複雑な測定器や、頑丈な鉄の枠に囲れた電気機械などが押しならんでいて、四面の鼠色の壁体の上には、妖怪の行列をみるようなグロテスク極まる大きい影が、匍いのぼっているのだった。
「キ、キ、キ、キキキッ」
ああ厭な鳴き声だ。
ホト、ホトと、入口の重い扉の叩かれる音。二人は、顔を見合わせた。
クルクルと把手の廻る音がして、扉がしずかに開く。そのあとから、ソッと顔が出た。
色の浅ぐろい、苦味の走ったキリリとした顔の持ち主――大蘆原軍医だった。
室内の先客である川波大尉と星宮理学士との二人が、同時にハアーッと溜息をつくと、同時に言葉をかけた。
「遅いじゃないか。どうしたのか」と大尉。
「あまり静かに入ってきたので、また気が変な女でもやってきたのかと思ったよ。ハッハッハッ」と星宮理学士が、作ったような笑い方をした。
「いや、遅くなった。患者が来たもんで(と、『患者』という言葉に力を入れて発音しながら)手間がとれちまった。だが、お詫びの印に、お土産を持ってきたよ、ほら……」
そういって大蘆原軍医は、入口のところで何やら笊の中に盛りあがった真黒なものを、さしあげてみせた。
「何じゃ、それは……」
「栄螺じゃよ、今日の徹夜実験の記念に、僕がうまく料理をして、御馳走をしてやるからね」大蘆原軍医はそう云ってから、笊の中から、一番大きな栄螺を掴みあげると、二人のいる卓上のところまで持ってきた。磯の香がプーンと高く、三人の鼻をうった。すばらしく大きい、獲れたばかりと肯かれる新鮮な栄螺だった。
「大きな栄螺じゃな」と大尉は喜んだ。
「軍医殿は、人間のお料理ばかりかと思っていたら、栄螺のお料理も、おたっしゃなんだね」と、星宮理学士が野次った。
そこで三人の間にどっと爆笑が起った。だが反響の多いこの室内の爆笑は大変賑かだったが、一旦それが消えてしまうとなると、反動的に、墓場のような静寂がヒシヒシと迫ってくるのだった。
「キキキッ」
とまた鳴いた。
「可哀想に、鳴いているな」そう云って大蘆原軍医は、大きい鉄枠のなかを覗きこんだ。そこには大きな針金で拵えた籠があって、よく肥ったモルモットが三十匹ほど、藁床の上をゴソゴソ匍いまわっていた。
「じゃ、そろそろ実験にとりかかろうじゃないか」と星宮理学士が、腰をあげて、長身をスックリと伸した。
「よかろう」研究班長の川波大尉は、実験方針書としるしてある仮綴の本を片手に掴みあげた。「第一測定は、午後九時カッキリにするとして、まず実験準備の方をテストすることにしよう。大蘆原軍医殿に、モルモットを硝子鐘のなかに移して貰おう。それから、星宮君は、すぐ真空喞筒を回転してくれ給え」
航空大尉と、理学士と、軍医との協同実験が始まった。これは川波大尉が担任する研究題目で、航空学に関する動物実験なので、気圧の低くなった硝子鐘のなかに棲息するモルモットの能力について、これから一時間毎に、観測をしてゆこうというのだった。大尉は専ら指揮を、理学士は器械部の目盛を読むことを、そして軍医がモルモットの動物反応を記録するのが役目だった。この三人の学者は、毎時間に、五分間を観測と記録に費すと、故障の突発しないかぎり、あとの五十五分間というものを過ごすのに、はなはだ退屈を感ずるのだった。
2
「この調子で、暁け方まで頑張るのは、ちと辛いね」と大蘆原軍医が、ポケット・ウィスキーの小さいアルミニューム製のコップを、コトリと卓上の上に置きながら云うのだった。
「軍医どのの栄螺料理が無ければ、儂は五十五分間ずつ寝るつもりだった」と川波大尉が、ポカポカ湯気のあがっている真黒の栄螺の壺を片手にとりあげ、お汁をチュッと吸ってから、そう云った。
「大蘆原軍医殿は、この栄螺の内臓を珍重されるようだが、僕はこんな味のものだとは、今日の今日まで知らなかった」と、星宮理学士は、長い箸を器用に使って、黄色味がかったプリプリするものを挾みあげると、ヒョイと口の中に抛りこんで、ムシャムシャと甘味そうに喰べた。
「そうです、これは一種異様の味がするでしょう。お気に入りましたか星宮君」と軍医は照れたような薄笑いを浮べ、ダンディらしい星宮理学士の口許に射るような視線をおくった。
「そうかね、僕の方の栄螺は、別に変った味もないが、どうれ……」と大尉は、向うから箸をのばして、星宮理学士の壺焼の中を摘もうとした。
「吁ッ、川波大尉」駭いたように軍医はそれを遮った。「まだ栄螺は、こっちにもドッサリありますから、こっちのをおとり下さい。なにも、星宮君が陶酔している分をお取りなさらなくても……」
そういって、何故か軍医は、大尉の前に別の壺焼を置いたのだった。
「あ、そうか、これはすまない」と、大尉はちょっと機嫌を損じたが、アルコールの加減で、すぐ又元のような上機嫌に回復した。「こんなに新しいと、いくらでも喰えるね」
「いや、今僕の喰ったやつは、中で一番違った味をもっていてね、珍らしい栄螺だった」と、理学士はまだ惜しそうに、空になった殻を振り、奥の方に箸をつきこみながら、舌なめずりをした。「やあ、いくら突ついても、もうでてこないや」
「僕の御馳走が、お気に召して恐縮だ」大蘆原軍医は、ウィスキーをつぎこんでも、一向赤くならない顔をあげていった。「だが、食うものがボツボツ無くなり、こう腹の皮が突っ張ってきたのでは、一層睡くなるばかりだね。――それじゃ、どうだろう。これから皆で、一時間ずつ交替で、なにかこう体験というか、実話というか、兎に角、睡気を醒ます効目のある話――それもなるたけ、あまり誰にも知られていないという話を、此の場かぎりという条件で、喋ることにしちゃ、どうだろうかね」
「ウン、そりゃ面白い」と星宮理学士が、すぐ合槌をうった。
「いま九時をすこし廻ったところだから、これから十時、十一時、十二時と、丁度真夜中までに、三人の話が一とまわりするンじゃ。川波大尉殿、まず君から、なにかソノ秘話といったようなものを始め給え」
「儂に口を開かせるなんて、罪なことだと思うが」と川波大尉は、ちょっと丸苅の坊主頭をクルリと撫でながら、「どうせ三人きりのことだ。一人脱けたって面白くあるまい。それじゃ、何か話そうか、ハテどんなことを喋ったものか……」
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