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英本土上陸作戦の前夜(えいほんどじょうりくさくせんのぜんや)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-24 10:53:51  点击:  切换到繁體中文



     16


 アンは、マネキン人形のような白々しらじらしさにかえって、彼を階上の部屋へ案内した。
「では、どうぞ。防空壕は、第二階段をお下りください。窓の遮蔽しゃへいは、おさわりになりませんように。失礼いたしました」
「君の部屋の電話番号は……」
「構内四百六十九番です。しかしあたくしはたいてい外を廻っておりますので、不在勝ふざいがちでございます」
明朝みょうちょう、きっと、ですよ」
 フォーは、アンの手を取ろうとしたが、アンはそれを振り払って、風のように部屋を出ていってしまった。
 それからしばらくして、食事を告げに来た女は、アンではなかった。それっきり、アンの姿は、仏の目にとまらなかった。
 仏は、自室に戻ったが、落着いていられなかった。アーガス博士が帰って来たという知らせは、いつまで経っても、かかって来なかった。彼は仕方なく、寝床に入ることに決めた。彼は、いつもよりは多量の睡眠剤をとることによって、希望の朝をすこしでも早く迎える用意をした。
 寝床に入ると、彼は、すぐ電灯のスイッチをひねった。彼は、間もなく、泥のような眠りに落ちていった。


     17


 午前三時半。
 突如とつじょとして、空襲警報を伝えて、サイレンが鳴りだした。
 部屋部屋が、急にさわがしくなった。
(ふん、また空襲警報か)
 このごろ、毎日のごとく夜半やはんからあかつきにかけて空襲警報が鳴る。しかし多くは、空襲警報だけに終って、敵機の投弾とうだんは、ほとんどなかった。たまに、ドイツ機らしいのが入って来ても、その数は二三機で時間だけは相当ねばって、三四時間にわたって、市民は避難をしていなければならなかった。今夜も、きっとそのようなことであろうと思っていた。
 仏天青フォー・テンチンは、一つには睡眠剤を呑みすぎたせいもあり、また一つには、日暮ひぐれに宿についた臨時の客であったせいもあり、彼は起きないままに、部屋の中に放置ほうちされていた。
 気がついたときには、爆弾が、しきりに落ちて炸裂さくれつしていた。
 彼は、起き上った。電灯をつけようと、スイッチを探していると、ばっと、突き刺すような閃光せんこうが、窓の隙間すきまから入ってきた。そして轟然ごうぜんたる爆音がつづけさまに、鳴りひびき、そして、じンじンじン[#「じンじンじン」の「ン」は小書き]と建物はふるえた。
 彼は、くらがりの中で手に当った服をすばやく、身につけた。
 室から飛びだすと、ネオンの常置灯じょうちとうが、うすぼんやり廊下を照らしていた。
(防空室は、どの階投を下りるのかな)
 彼は、アンから教わった階段を忘れてしまった。そのときまた、つづけさまに、爆音がとどろいた。ひゆーンという飛行機のうなりが聞える。どうもドイツ機らしい。廊下のつきあたりのカーテンが、ぴかっと光った。外の爆発の閃光せんこうが、カーテンを通すのであった。建物は、今にもけとびそうに、鳴動めいどうする。
 そのとき、爆弾の音を聞きながら、彼は、なにかこう、男性的な快感をおぼえた。
「そうだ。屋上へ上って、一つ、戸外こがいの様子を見てやれ」
 こういう山の上の建物だから、よもや大して爆撃されることもあるまいとも思ったのである。彼は、廊下の突き当りのドアをあけて、非常梯子ひじょうはしごづたいに屋上の方へ上っていった。
 壮観そうかんであった。思いがけない大壮観であった。眼下に見えるクリムスビーの町の上には、照明弾が、およそ二三百個も、煌々こうこうと燃えていた。この屋上にいても、新聞の文字が読めそうな明るさである。彼は、非常梯子を上へのぼり切って、屋上へ出たものか、それとも、この非常梯子にとりついてそっと首を出していた方がいいのか、ちょっと迷った。
 そのときであった。彼は、屋上に、二つの人影が動いているのを発見して、おやと思った。
(何をしているのだろう?)
 空襲見物では、あまりに物好ものずきである。彼は、自分のことはたなに上げて、そう思った。
 その二つの人影は、屋上からからだをのりださんばかりにして、何か、映画に使うような移動照明器いどうしょうめいきのようなものを、動かしている。
(おかしい。防空隊の照明班にしては、あまりに小規模しょうきぼだし……)
 彼は、爆撃中の危険も忘れて、その二つの人影の行動に、好奇心をかした。そして、そのそばへ行って見る気になったのである。
 彼は、梯子を登り切って、その人影の方へ歩いていった。向うでは、彼が近づいてくるのに全然気がつかないようであった。
「ああ、あれは、アンじゃないか」
 彼の心臓は、どきんと鳴った。
「何をしているのですか」
 彼は、二人の傍へいって、声を懸けた。
「ああッ」
 二つの顔が、一せいに彼の方へ向いて、そしてゆがんだ。アンと、もう一人は、ボジャック氏だった。
「お待ち、ボジャック!」
 アンが、ボジャックに飛びかかって、腕をおさえた。ボジャックの手には、ピストルが握られていた。そして、喰いつきそうな顔で仏をにらみつけている。
 フォーは、刹那せつなに、一切いっさいを悟った。
(そうだったか。二人とも、ドイツ側のスパイだったんだな)
 そう感じたが、なぜか、彼は、それほどおどろかなかった。
「あなた。さっきのお約束をお破りになる?」
 アンが、ボジャックの腕を必死になって、おさえながらいった。
「……約束は、守るよ。だが、説明をしてもらいたいものだ」
「なにを……こいつを、やっつけたが、早道だ」
「お待ち。命令だ、撃ってはならない。それよりも、早く赤外線標識灯せきがいせんひょうしきとうを、沖合おきあいへ!」
 アンは、上官のようなおごそかな態度で叫んだ。
「私は、皆さんの邪魔じゃまをしまい。私は、傍観者ぼうかんしゃだ」
「あたしは、あなたを信じます。あたしたちは、祖国そこくドイツを光栄あらしめるために、生命せいめいささげて、今最後の職場につくのです。邪魔をしないでください」
「よし、わかった。おれは約束を守るぞ」
「ありがとう――ボジャック、早く光源こうげんを……」
「おお」
 ボジャックは、再び台の上の機械にとりついた。スイッチが入ったのか、ついに点火した。しかし外へは、光がすこしも出ない。赤外線灯の特徴とくちょうである。それは、はるかの海上及び空中に待機する五万にのぼるドイツ軍のための生命の目標だった。この目標によって、彼等ドイツ軍は、この払暁ふつぎょう、このハンバー河口の機雷原きらいげん高射砲弾幕こうしゃほうだんまくとを突破して、この地に上陸作戦を敢行かんこうする手筈てはずだった――仏天青も、ようやくそれをさとった。
 この赤外線標識灯が点火したのが合図のように、上陸作戦軍を援護えんごする猛烈なる砲撃戦が始まった。更に空中よりは、ものすごい数量にのぼる巨大爆弾が、釣瓶打つるべうちに投下され、天地もくずれんばかりの爆音が、耳を聞えなくし、そして網膜もうまくの底を焼いた。
 砲撃は、ますます熾烈しれつさを加え、これに応酬おうしゅうするかのように、イギリス軍の陣地や砲台よりは、高射砲弾が、附近の空一面に、煙花はなびよりも豪華な空中の祭典を展開した。
「大丈夫、ボジャック」
「大丈夫!」
 二人の戦士は、脇目わきめもふらず、標識灯を守りつづけている。
 砲撃目標が、だんだん山の方に近づいて来た。それとしめわせたように、空中からの爆撃も、急に山の方に移動してきた。
「ほう、来るな」
 仏天青フォー・テンチンは、身の危険を感じた。しかし、ふしぎとその場を放れる気がしなかった。アンたちも、最後の職場を死守しているのだ。しかし、これは、えらいことになるぞ!
 果して、それから五分間ばかりつと、砲撃目標は、俄然がぜん跳躍ちょうやくした。砲弾は、この研究所の前方に落ち、それから、彼等の頭上をとび越えて、うしろの山上に落ちて、ものすごい音響おんきょう閃光せんこうとそして吹き倒すような爆風ばくふうとをもたらした。
「あぶない」仏は、屋上に腹匍はらばった。
 とたんに、どどどどーンと、ぶっつづけに大爆音が聞え、耳はガーンとなってしまった。そして、あたりは火の海となったかと思われた。それをきっかけのように、ひっきりなしに砲弾と爆弾とが降って来た。身を避けるものは何もない。彼は灼鉄しゃくてつ炎々えんえんと立ちのぼる坩堝るつぼの中に身を投じたように感じた――が、そのあとは、意識を失ってしまった。
 不図ふと、気がついたときには、あたりの風景は一変していた。附近一帯は、炎々たる火焔かえんに包まれていた。屋上は、半分ばかり、どこかへ持っていかれてしまっている。
 彼は、むくむくと起きあがって、空を見上げた。高射砲弾は、さかんに頭上で炸裂さくれつしていた。照空灯しょうくうとうと照明弾とが、空中でみ合っていた。その中に、真白な無数のきのこがふわりふわりと浮いていた。落下傘部隊らっかさんぶたいであった。ドイツ軍の上陸は、ついに開始せられたのであった!
「おお、落下傘部隊デザントが下りる。ああ、ダンケルク戦線そっくりだ!」
 ああダンケルク戦線! 彼は全身に、電撃をうけたように感じた。
「ああ、ダンケルク! おお、そうだ。思い出したぞ!」
 その瞬間に、彼は、今の今迄喪失そうしつしていた一切の過去の記憶を取り戻した。
 おお、覚醒かくせい! 記憶はよみがえった。奇蹟きせきだ、大奇蹟だ!
 彼は、灼鉄と硝煙しょうえんと閃光と鳴動めいどうとの中に包まれたまま、爆発するような歓喜かんきを感じた。その瞬間に、彼から、仏天青フォー・テンチンなる中国人の霊魂れいこんと性格とが、白煙はくえんのように飛び去った。それに代って、駐仏日本大使館付武官ちゅうふつにっぽんたいしかんづきぶかん福士大尉ふくしたいい烈々れつれつたる気魄きはくが蘇って来た。
「おッ、俺は、今まで、何を莫迦ばかな夢を見ていたのだろうなあ!」
 アーガス博士の治療を待つまでもなかった。彼――福士大尉の、うしなわれたる記憶は、その一瞬の間に、完全に恢復かいふくしたのだった――ドクター・ヒルが示唆しさしたところと、ぴたりと一致する経過をとって……。
 かがやかしい福士大尉の復帰ふっき
「アンは、どうした」
 大尉は、目をみはって、アンを探した。赤外線標識灯は、台ばかりになっていた。アンは、その下に倒れていた。ボジャックもまた……
「アン、どうした。しっかりせい」
 大尉は、アンをかかえ起してみると、胸一面の血だった。胸をやられている! 大尉の声が通じたものか、アンは、薄目を開いた。
「ボジャックは?」
「ボジャックは、ここにいる。ああ、気の毒だが、とうの昔に……」
「そう。あたしも、もう……」
「これ、しっかりしろ。アン」
「あなた。アンは、あなたに感謝します。われわれ第五列部隊は、監獄にまで手を伸ばして、あなたを利用しましたが、許してください。祖国ドイツは……」
「そんなことは、わかっとる。アン、死んじゃ駄目だぞ」
「あなたは、ご存知ぞんじないが、あなたは、日本の将校なんです」
「それは知っている。おれは、福士大尉だ。爆撃の嵐の中に、おれは記憶を恢復したのだ。よろこんでくれ」
「ああ、そうだったの。道理どうりで、お元気な声だと思ったわ」
「アン、なにもかも、思い出したよ。あの油に汚れたハンカチも、ぼろぼろの服も、みんなダンケルクの戦闘の中にいたせいだ。おれは、飛行機を操縦してドーヴァを越えて、この英国えいこくに飛んだのだ。そのとき、すでに負傷していた。同乗させてやった中国人仏天青は機上で死んだが、おれは、いつの間にか、その先生の服を持っていたんだ。おれは飛行機を、夜間着陸させるのに苦しんだが、ついに飛行場が見つからず、その後はおぼえていない。それ以後、おれの記憶が消えてしまったんだ。何をして監獄へ入れられたか、そいつは知らない。おい、アン――アン、どうした」
「あなた、最後のお願い……あたしのために、こういってよ……」
「アン、しっかりしろ。何というのか」
「……こう、いうのよ。ヒ、ヒットラーにかわりて、第五列部隊のフン大尉に告ぐ」
「えっ、第五列部隊のフン大尉に?」
「そう、そうなの、あたしのことよ。……汝は、大ドイツのため、忠実に職務を……あなた……」
「しっかりせんか、アン――いや、フン大尉。君の壮烈そうれつなる戦死のことは、きっとおれが、お前の敬愛するヒットラー総統そうとう伝達でんたつしてやるぞッ!」
 福士大尉は、アンの耳に口をつけて、肺腑はいふをしぼるような声で、最後の言葉を送った。
 そのとき、夜は、ほのぼのと、明け放れた。頭上には、精鋭なるドイツ機隊のつばさかがやき、そして海岸には、平舟ひらぶねふなべりをのり越えて、黒き洪水こうずいのような戦車部隊が!
 ドイツ軍大勝利のときの声と共に、上陸作戦の夜は、明け放れたのであった。
 福士大尉は、情報報告のため、ただちにこのクリムスビーを発足ほっそくすべく、アンの亡骸なきがらをそっと下に置いて、立ち上った。





底本:「海野十三全集 第10巻 宇宙戦隊」三一書房
   1991(平成3)年5月31日第1版第1刷発行
初出:「新青年」
   1941(昭和16)年 2月
入力:tatsuki
校正:土屋隆
2003年12月7日作成
青空文庫作成ファイル:
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