16
アンは、マネキン人形のような白々しさにかえって、彼を階上の部屋へ案内した。
「では、どうぞ。防空壕は、第二階段をお下りください。窓の遮蔽は、おさわりになりませんように。失礼いたしました」
「君の部屋の電話番号は……」
「構内四百六十九番です。しかしあたくしはたいてい外を廻っておりますので、不在勝ちでございます」
「明朝、きっと、ですよ」
仏は、アンの手を取ろうとしたが、アンはそれを振り払って、風のように部屋を出ていってしまった。
それから暫くして、食事を告げに来た女は、アンではなかった。それっきり、アンの姿は、仏の目にとまらなかった。
仏は、自室に戻ったが、落着いていられなかった。アーガス博士が帰って来たという知らせは、いつまで経っても、かかって来なかった。彼は仕方なく、寝床に入ることに決めた。彼は、いつもよりは多量の睡眠剤をとることによって、希望の朝をすこしでも早く迎える用意をした。
寝床に入ると、彼は、すぐ電灯のスイッチをひねった。彼は、間もなく、泥のような眠りに落ちていった。
17
午前三時半。
突如として、空襲警報を伝えて、サイレンが鳴りだした。
部屋部屋が、急にさわがしくなった。
(ふん、また空襲警報か)
このごろ、毎日のごとく夜半から暁にかけて空襲警報が鳴る。しかし多くは、空襲警報だけに終って、敵機の投弾は、殆どなかった。たまに、ドイツ機らしいのが入って来ても、その数は二三機で時間だけは相当ねばって、三四時間に亙って、市民は避難をしていなければならなかった。今夜も、きっとそのようなことであろうと思っていた。
仏天青は、一つには睡眠剤を呑みすぎたせいもあり、また一つには、日暮に宿についた臨時の客であったせいもあり、彼は起きないままに、部屋の中に放置されていた。
気がついたときには、爆弾が、しきりに落ちて炸裂していた。
彼は、起き上った。電灯をつけようと、スイッチを探していると、ばっと、突き刺すような閃光が、窓の隙間から入ってきた。そして轟然たる爆音がつづけさまに、鳴りひびき、そして、じンじンじン[#「じンじンじン」の「ン」は小書き]と建物は震えた。
彼は、くらがりの中で手に当った服をすばやく、身につけた。
室から飛びだすと、ネオンの常置灯が、うすぼんやり廊下を照らしていた。
(防空室は、どの階投を下りるのかな)
彼は、アンから教わった階段を忘れてしまった。そのときまた、つづけさまに、爆音が轟いた。ひゆーンという飛行機の呻りが聞える。どうもドイツ機らしい。廊下のつきあたりのカーテンが、ぴかっと光った。外の爆発の閃光が、カーテンを通すのであった。建物は、今にも裂けとびそうに、鳴動する。
そのとき、爆弾の音を聞きながら、彼は、なにかこう、男性的な快感を覚えた。
「そうだ。屋上へ上って、一つ、戸外の様子を見てやれ」
こういう山の上の建物だから、よもや大して爆撃されることもあるまいとも思ったのである。彼は、廊下の突き当りの扉をあけて、非常梯子づたいに屋上の方へ上っていった。
壮観であった。思いがけない大壮観であった。眼下に見えるクリムスビーの町の上には、照明弾が、およそ二三百個も、煌々と燃えていた。この屋上にいても、新聞の文字が読めそうな明るさである。彼は、非常梯子を上へのぼり切って、屋上へ出たものか、それとも、この非常梯子にとりついてそっと首を出していた方がいいのか、ちょっと迷った。
そのときであった。彼は、屋上に、二つの人影が動いているのを発見して、おやと思った。
(何をしているのだろう?)
空襲見物では、あまりに物好きである。彼は、自分のことは棚に上げて、そう思った。
その二つの人影は、屋上から躯をのりださんばかりにして、何か、映画に使うような移動照明器のようなものを、動かしている。
(おかしい。防空隊の照明班にしては、あまりに小規模だし……)
彼は、爆撃中の危険も忘れて、その二つの人影の行動に、好奇心を沸かした。そして、その傍へ行って見る気になったのである。
彼は、梯子を登り切って、その人影の方へ歩いていった。向うでは、彼が近づいてくるのに全然気がつかないようであった。
「ああ、あれは、アンじゃないか」
彼の心臓は、どきんと鳴った。
「何をしているのですか」
彼は、二人の傍へいって、声を懸けた。
「ああッ」
二つの顔が、一せいに彼の方へ向いて、そして歪んだ。アンと、もう一人は、ボジャック氏だった。
「お待ち、ボジャック!」
アンが、ボジャックに飛びかかって、腕をおさえた。ボジャックの手には、ピストルが握られていた。そして、喰いつきそうな顔で仏を睨みつけている。
仏は、刹那に、一切を悟った。
(そうだったか。二人とも、ドイツ側のスパイだったんだな)
そう感じたが、なぜか、彼は、それほど愕かなかった。
「あなた。さっきのお約束をお破りになる?」
アンが、ボジャックの腕を必死になって、抑えながらいった。
「……約束は、守るよ。だが、説明をしてもらいたいものだ」
「なにを……こいつを、やっつけたが、早道だ」
「お待ち。命令だ、撃ってはならない。それよりも、早く赤外線標識灯を、沖合へ!」
アンは、上官のような厳かな態度で叫んだ。
「私は、皆さんの邪魔をしまい。私は、傍観者だ」
「あたしは、あなたを信じます。あたしたちは、祖国ドイツを光栄あらしめるために、生命を捧げて、今最後の職場につくのです。邪魔をしないでください」
「よし、わかった。おれは約束を守るぞ」
「ありがとう――ボジャック、早く光源を……」
「おお」
ボジャックは、再び台の上の機械にとりついた。スイッチが入ったのか、遂に点火した。しかし外へは、光がすこしも出ない。赤外線灯の特徴である。それは、遥かの海上及び空中に待機する五万にのぼるドイツ軍のための生命の目標だった。この目標によって、彼等ドイツ軍は、この払暁、このハンバー河口の機雷原と高射砲弾幕とを突破して、この地に上陸作戦を敢行する手筈だった――仏天青も、ようやくそれを悟った。
この赤外線標識灯が点火したのが合図のように、上陸作戦軍を援護する猛烈なる砲撃戦が始まった。更に空中よりは、ものすごい数量にのぼる巨大爆弾が、釣瓶打ちに投下され、天地も崩れんばかりの爆音が、耳を聞えなくし、そして網膜の底を焼いた。
砲撃は、ますます熾烈さを加え、これに応酬するかのように、イギリス軍の陣地や砲台よりは、高射砲弾が、附近の空一面に、煙花よりも豪華な空中の祭典を展開した。
「大丈夫、ボジャック」
「大丈夫!」
二人の戦士は、脇目もふらず、標識灯を守りつづけている。
砲撃目標が、だんだん山の方に近づいて来た。それと諜し合わせたように、空中からの爆撃も、急に山の方に移動してきた。
「ほう、来るな」
仏天青は、身の危険を感じた。しかし、ふしぎとその場を放れる気がしなかった。アンたちも、最後の職場を死守しているのだ。しかし、これは、えらいことになるぞ!
果して、それから五分間ばかり経つと、砲撃目標は、俄然跳躍した。砲弾は、この研究所の前方に落ち、それから、彼等の頭上をとび越えて、後の山上に落ちて、ものすごい音響と閃光とそして吹き倒すような爆風とを齎した。
「あぶない」仏は、屋上に腹匍った。
とたんに、どどどどーンと、ぶっつづけに大爆音が聞え、耳はガーンとなってしまった。そして、あたりは火の海となったかと思われた。それをきっかけのように、ひっきりなしに砲弾と爆弾とが降って来た。身を避けるものは何もない。彼は灼鉄炎々と立ちのぼる坩堝の中に身を投じたように感じた――が、そのあとは、意識を失ってしまった。
不図、気がついたときには、あたりの風景は一変していた。附近一帯は、炎々たる火焔に包まれていた。屋上は、半分ばかり、どこかへ持っていかれてしまっている。
彼は、むくむくと起きあがって、空を見上げた。高射砲弾は、盛んに頭上で炸裂していた。照空灯と照明弾とが、空中で噛み合っていた。その中に、真白な無数の茸がふわりふわりと浮いていた。落下傘部隊であった。ドイツ軍の上陸は、遂に開始せられたのであった!
「おお、落下傘部隊が下りる。ああ、ダンケルク戦線そっくりだ!」
ああダンケルク戦線! 彼は全身に、電撃をうけたように感じた。
「ああ、ダンケルク! おお、そうだ。思い出したぞ!」
その瞬間に、彼は、今の今迄喪失していた一切の過去の記憶を取り戻した。
おお、覚醒! 記憶は蘇った。奇蹟だ、大奇蹟だ!
彼は、灼鉄と硝煙と閃光と鳴動との中に包まれたまま、爆発するような歓喜を感じた。その瞬間に、彼から、仏天青なる中国人の霊魂と性格とが、白煙のように飛び去った。それに代って、駐仏日本大使館付武官福士大尉の烈々たる気魄が蘇って来た。
「おッ、俺は、今まで、何を莫迦な夢を見ていたのだろうなあ!」
アーガス博士の治療を待つまでもなかった。彼――福士大尉の、喪われたる記憶は、その一瞬の間に、完全に恢復したのだった――ドクター・ヒルが示唆したところと、ぴたりと一致する経過をとって……。
輝かしい福士大尉の復帰!
「アンは、どうした」
大尉は、目を瞠って、アンを探した。赤外線標識灯は、台ばかりになっていた。アンは、その下に倒れていた。ボジャックも亦……
「アン、どうした。しっかりせい」
大尉は、アンを抱え起してみると、胸一面の血だった。胸をやられている! 大尉の声が通じたものか、アンは、薄目を開いた。
「ボジャックは?」
「ボジャックは、ここにいる。ああ、気の毒だが、とうの昔に……」
「そう。あたしも、もう……」
「これ、しっかりしろ。アン」
「あなた。アンは、あなたに感謝します。われわれ第五列部隊は、監獄にまで手を伸ばして、あなたを利用しましたが、許してください。祖国ドイツは……」
「そんなことは、わかっとる。アン、死んじゃ駄目だぞ」
「あなたは、ご存知ないが、あなたは、日本の将校なんです」
「それは知っている。おれは、福士大尉だ。爆撃の嵐の中に、おれは記憶を恢復したのだ。悦んでくれ」
「ああ、そうだったの。道理で、お元気な声だと思ったわ」
「アン、なにもかも、思い出したよ。あの油に汚れたハンカチも、ぼろぼろの服も、みんなダンケルクの戦闘の中にいたせいだ。おれは、飛行機を操縦してドーヴァを越えて、この英国に飛んだのだ。そのとき、既に負傷していた。同乗させてやった中国人仏天青は機上で死んだが、おれは、いつの間にか、その先生の服を持っていたんだ。おれは飛行機を、夜間着陸させるのに苦しんだが、遂に飛行場が見つからず、その後は憶えていない。それ以後、おれの記憶が消えてしまったんだ。何をして監獄へ入れられたか、そいつは知らない。おい、アン――アン、どうした」
「あなた、最後のお願い……あたしのために、こういってよ……」
「アン、しっかりしろ。何というのか」
「……こう、いうのよ。ヒ、ヒットラーに代りて、第五列部隊のフン大尉に告ぐ」
「えっ、第五列部隊のフン大尉に?」
「そう、そうなの、あたしのことよ。……汝は、大ドイツのため、忠実に職務を……あなた……」
「しっかりせんか、アン――いや、フン大尉。君の壮烈なる戦死のことは、きっとおれが、お前の敬愛するヒットラー総統に伝達してやるぞッ!」
福士大尉は、アンの耳に口をつけて、肺腑をしぼるような声で、最後の言葉を送った。
そのとき、夜は、ほのぼのと、明け放れた。頭上には、精鋭なるドイツ機隊の翼の輝き、そして海岸には、平舟の舷をのり越えて、黒き洪水のような戦車部隊が!
ドイツ軍大勝利の閧の声と共に、上陸作戦の夜は、明け放れたのであった。
福士大尉は、情報報告のため、直ちにこのクリムスビーを発足すべく、アンの亡骸をそっと下に置いて、立ち上った。
●表記について
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- 傍点や圏点、傍線の付いた文字は、強調表示にしました。
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