13
仏天青は、列車にのって、リバプールに急ぎつつあった。
駐英大使館では、彼は、大きな侮辱をうけた。そして朗かな気持がまた崩れてしまったのだ。
この上は、リバプールを通って、ブルートの監獄へいき、そこに残っている彼の素姓調書を見るより外なしと考えた。
十時間の後、彼はリバプールにいった。その夜は、ドロレス夫人の宿に泊めてもらうつもりで、この前の淡い記憶を辿って、見覚えのある露地へ入りこんでいった。
だが、ドロレス夫人の宿は、見当らなかった。ただ、一軒、入口の硝子が、めちゃめちゃに壊れている空家が目についた。どうもその家が、ドロレス夫人の宿だったように思うのであるが、入口の壁には、
“立入るを許さず。リバプール防諜指揮官ライト大佐”
と、厳かな告示が貼りつけてあった。
彼は、妙な気持になって、他所に宿を求めたのであった。
一夜は明けた。
その日こそ、彼は遂に楽しさにめぐり逢える日が来たと思った。
監獄生活をしていたなどということは、人に聞かれても、自分に省みても、甚だ結構でないことだったけれど、今日こそは、その監獄に保存してある調書の中から、知りたいと思っていた彼の素姓を押しだすことが出来るのかと思えば、こんな嬉しいことはなかったのである。
彼は、車を頼んで、ブルートの町へ急がせた。
「旦那、ブルートの町へ来ましたが、どこへいらっしゃいますね」
「もうすこし先だ。左手に、くるみの森のあるところで下ろしてくれたまえ」
「へい。すると、監獄道のところですね」
「ああ、そうだよ」
彼は、運転手に、心の中を看破られたような気がした。
「ドイツの飛行機は、監獄なんか狙って、どうするつもりですかね」
「えっ」
「いや、つまり、ブルートの監獄を爆撃して、あんなに土台骨からひっくりかえしてしまって、どうする気だろうということですよ」
「なに、ブルートの監獄は、爆弾でやられたのかね」
「おや、旦那、御存知ないのですかい。もう四日も前のことでしたよ。尤も、聞いてみれば、監獄の中で、砲弾を拵えていたんだとはいいますがね」
「ふーん、そうか。やっちまったのかい」
彼は、天を恨むより外、なかった。車を下りてみると、森の向うは、まるで地獄のように、引繰りかえっていた。あの広壮な建物という建物は一つとして影をとどめず、壁は、歯のぬけた歯茎のようになっていた。彼は、これより内へ入るべからずという縄張のところまで出て、すっかり見ちがえるような監獄跡に佇んで、しばし動こうともしなかった。
運転手が、彼の耳に囁いた。
「旦那、あのへんで、三千五百名の囚人と、それから七百名の監獄役人とが、崩れた建物の下で、一ぺんに、蒸し焼きになってしまったんですよ。そして、このとおり綺麗なものでさ。残っているのは、煉瓦とコンクリートばかりだ。いや、それから、あの鉄の門と……」
仏天青は、なぜ天は、こう意地悪なのであろうかと、深い溜息をついた。第二のプランも、ついに駄目だった。
14
第三の、そしてこれが最終のプラン――というので、仏天青は、リバプールの町にある精神科病院の門をくぐった。
院長ドクター・ヒルは、五十を過ぎた学者らしい人物だったが、甚だ丁重に、仏天青を扱った。
「そういう病気は、今次の戦争において、極めて例が多いのですよ。今拝見しましたところによると、やはり、爆弾の小破片が、脳髄の一部へ喰い込んでいるようですな」
「じゃあ、手術をして、その小破片を取出せばいいわけですね」
「さあ、それは専門外科医に御相談なさるがいいでしょうが、私の経験では、そういう脳外科の手術の成功率は、残念ながら、まだ低いものです。よほど考えておやりなることを御注意いたします」
すると、手術は、よほど考えなくてはならぬことになる。
「院長、私の記憶を恢復する他の方法はありませんでしょうか」
「そうですねえ。私の経験によれば、あなたのような場合、脳が健康さを取戻していても、神経と連絡がついていないことがよくあります」
「それは、どういうのですな」
「つまり、障害をうけたとき、患部附近に、充血とか腫脹が起って、神経細胞に生理的な歪みが残っていることがある。この歪みを、うまく取去ることが出来ると、ぱっと、目が覚めるように過去の記憶を呼び戻すことが出来るのですがね」
「なるほど、歪みを取去る方法ですか。それは、どうすればいいのですか」
「歪みといっても、生理的神経的なものですから、それと同じ方法によらねばならない。生理的神経的に、或る強い刺戟を受ければいいということはわかっているが、さて、その刺戟は、一体どんな刺戟であるかということになると、さっぱり分らない」
「なぜ、分らないのですか」
「それは、つまり、こうでしょう。仮りに、あなたが、一婦人と非常に争っていた。そのとき、婦人がピストルの引金を引いて、あなたの頭へ、弾丸の破片を撃ちこんでしまった、これは仮定ですよ。もしもこういう場合に、あなたのような記憶亡失の障害が起って、脳が健康を取戻しても、尚且つ記憶が恢復しない。そういうときに、癒った実例があるのです。もう一度、その婦人と、ひどい争いをした。婦人は、またピストルを撃った。そして今度は、彼の前額を僅かに傷つけた。すると、とたんに、彼の記憶が戻った。彼は、戦闘を中止して、その婦人を生命の恩人だといって抱きあげた――という例があるのです」
「それは、興味ふかい話ですね。それを私の場合に活用する途はないでしょうか。まず無理でしょうね」
「そうです。無理という外ありますまい。今申した例は、偶然の機会が、それを癒したのです。医師が計画した治療法ではない」
「なるほど」
「ですから、あなたの場合でも、もし運がおよろしくて、その障害を起した当時と同じ事件の中に置かれ、同じような負傷でもなされば、或はそれがうまくいって、記憶の恢復が起るかもしれません。しかし何分にも、これは計画的にやって見ることの出来ないことなので、困りますなあ」
「ほう、生理的神経的の歪みですか。そしてこれを復習する極めて稀な幸運ですか。いや、お蔭さまで、諦めがついてきました」
「それから、あなたが記憶亡失前に持っていられた所持品についてはもっと詳しく、科学的調査をおやりになるがいいでしょうね。これは一種の探偵術ですが、従来の例に徴しても、所持品からの推理によって昔、あなたが住んでいられた世界や職業や、それから家族のことなどを、立派に探しだすことに成功した例があるのです」
それを聞くと、仏天青は、俄に目を輝かせて、室の隅に置いてあった手提鞄を、卓子のうえに置いた。
「院長、では、これを見て、判断していただきましょう。当時、私が身につけていたものは、大切に、皆ここに蔵ってあるのです」
そういって、彼は、鞄を開くと、中から、長い中国服を出し、それから汚れきった破れ目だらけの服を出し、ぺちゃんこになったパンに新聞紙に、それから異臭を放つ皺くちゃのハンカチーフ迄、すっかり卓子のうえに取出した。
「その外に、この貯金帳が二冊あるのです。院長、お分りになりますか」
「さあ、私では駄目なんですがねえ」
といいながらも、ドクター・ヒルは、そこに並べられた品物を、一つ一つ、念入りに拡大鏡の下に見ていたが、やがて腰を伸ばし、
「私の拝見したところで、最も興味を惹かれるものが二点あります。それは、この汚れ切って破れ目だらけの服と、それからもう一つは、油じみたハンカチーフです」
「はあ、そうですか。そんなものが、私の素姓について、一体なにを語っていましょうか」
「さあ、それは、私の力では、はっきり解いてお話することが出来ないのです。こういう方面にすこぶる明るい私の友人を御紹介しましょう。アーガス博士といいますが、クリムスビーに住んで鑑識研究所を開いています。そこへいらっしゃるがいいでしょう。このズボンについている泥だとか、ハンカチーフについている血や油などについて、彼はきっと、あなたをびっくりさせるに充分な鑑定をなすことでしょう」
「あ、そうですか。それは、実にありがたい。アーガス博士でしたね」
「そうです。博士は、ひところ、警視庁でも活躍していた人ですが、今は、自分の研究所に立て籠っています」
「クリムスビーですか。どこでしょうか、その、クリムスビーというのは」
「クリムスビーというと、北海へ注ぐハンバー河口を入って、すぐ南側にある小さい町です。河口は、なかなかいい港になっています」
「はあ。北海に面した良港の中にあるのですね。じゃあ、私はすぐ、そのクリムスビーへいって、アーガス博士にお願いしてみましょう」
「いま、紹介状を書いてさし上げます、ミスター・F!」
15
午後遅くクリムスビーの駅に下りて、仏天青はおどろいた。こんなものものしい警戒は、はじめて見た。
“中国大使館参事官仏天青氏を御紹介す。アーガス博士殿”
というドクター・ヒルの紹介状が、とんだところで効き目をあらわして、仏は、無事に駅の階段を、町へ降りることが出来た。
「アーガス博士の鑑識研究所へやってくれないかね」
駅の前に待っているタクシーの運転手に話しかけると、黙って、隣りを指した。
タクシーの隣りには、馬車があった。老人の馭者が、この喧噪の中に、こっくりこっくり居眠りをしていた。馬車とは愕いたが、
「アーガス博士の鑑識研究所へいってくれるかね」
と、仏が大きい声で怒鳴ると、馭者の老人は、やっと目を覚ました。そして二三度、丁寧に聞き返した後で、さあ乗って下さいといった。
馬車は、雑閙する町を後にして、山道にかかった。
「爺さん、鑑識研究所だよ」
「わかっていますよ。鑑識研究所は、この山のうえだ。あと三十分かかるよ」
「なあんだ、山の上に在るのか」
馬車にゆられていくほどに、仏天青は、眼下に開けるハンバー湾のものものしい光景に、異常な興味を覚えた。
河口には、たしかに防潜網を吊っているらしい浮標が、夥しく浮び、河口を出ていく数隻の商船群の前には、赤い旗をたてた水先案内らしい船が見えるが、これは機雷原を避けていくためであろう。またはるかに港外には駆逐艦隊が活発に走っていた。
(ドイツ軍の上陸作戦を、極度に恐れているのだな)
仏は、河口の異風景に気を取られているうちに、馬車は、いつの間にか、小さい山を一つ登って、鑑識研究所の前についた。
仏は、門衛に、刺を通じた。
門衛は、紹介状の表を見て、本館へ電話をかけた。
「所長は、生憎出張中ですが、今夜あたり、ここへお戻りです。副長からのお話ですが、明朝、もう一度、御出で願うか、それとも御急ぎなら、所に附属している宿泊所で、お待ちになってはということでございますが、どっちになさいますか」
「そうですか。では……では、宿泊所へ案内して頂きましょうか。私は、早く博士にお目に懸りたいのでしてね」
「よろしゅうございます」
門衛は、別なところへ、電話をかけた。そして、副長の命令により客人のため室を用意するようにいった。
「今、宿泊所の女が迎えに参りますから、ちょっとお待ちを」
仏天青は、礼をいって、鞄を下に置いた。
「なかなかここは眺望もいいし、そして広大ですね」
「そうです。ここは王立になっているのですからなあ」
そのうちに、だんだんあたりは薄暗くなった。
「どうしたのか、宿泊所の者は……」
門衛は、窓から伸びあがって、奥の方を見ていたが、
「あ、来ました。さあ、どうぞ」
砂利を踏む音が聞えた。エプロンをかけた若い女が、迎えに来た。仏は、その女の顔を見たとき、もちっとで呀っと叫ぶところだった。その女も、愕いて、思わず足を停めた。
「おい、ネラ。ドクター・ヒルの紹介の方だから、さっきいったように、丁重にナ」
「は、はい」
ネラ? ネラは、門衛から、仏の鞄を受取った。
「どうぞ、こちらへ……」
仏は、ネラと呼ばれる女と、藍色ようやく濃い研究所の庭を、砂利をふみつつ、奥の方へ歩いていった。
「アン」
「はい」
「君は……いや、もうなにもいうまい」
仏天青を迎えに出たネラは、アンであったのである。彼のふしぎな妻であったのである。
「あたくし、愕きました。どうなさいます、あなたは……。復仇をなさいますか?」
「……」
仏は、嵐のような激情の中に、やっと躯を支えていた。それが、せい一杯だった。
「なぜ、御返事がありませんの」
「アン、お前は、ここで何をしているのか」
「あなた。この前のように、あたくしを愛していてくださいません?」
アンは、別なことをいった。
「……もし、愛していたら……」
仏は、やっとそれだけいった。
「ああ、あたくしを愛していてくださるんですね、お叱りもなく……。一生のお願いがありますわ。聞いてくださる?」
「……聞かないとはいわない」
「ほほ、消極的な御返事ね。お願いしたいというのは……どうか明朝まで、あたくしがここにいるという事を忘れていてくださいまし」
「なに。なぜ、そんな……」
「さあ、それなのよ。なにも聞かないで、明朝まで……。お約束してくださる?」
アンは、仏の傍へすりよって、彼の明快な返事を求めた。
「お前がそれを欲するなら……」
仏は苦しそうに、応えた。
「だが……」
「だが?」
「また、おれを……ここへ残して、逃げていくのではあるまいね」
「いいえ、明朝、きっとお目に掛るわ。約束を聞いてくだすってありがとう。それまで、どんなことがあっても、どんなものを見ても、あたしに何も訊かないでね、きっと明朝まで、あたしというものを忘れていてくださるのよ。ああ、うれしい。あなたは、きっとこの秘密を守ってくださるでしょうね」
「うむ、男らしく、おれは約束を守ろう。しかしアン。その前に、ただ一言、教えてくれ。お前は、本当に、おれの妻か」
「明朝まで、お待ちになって!」
「じゃあ、おれは、本当に仏天青か」
「それも明朝までお待ちになって。男らしくお待ちになるものよ」
「……」
仏は、拳を握って、自分の胸を、とんとんと叩いた。
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