11
彼は、無切符であった。
切符は、アンが持っているのだ。
彼は、バーミンガム駅のホームで、喰べ物を買い込むために、アンから貰ったすこしばかりのお金を握っているだけだった。とても、これでロンドンまでの切符を買うことは出来なかった。
彼は、すぐさま車掌に申告するとか、バーミンガムの駅で証明をとって置けばよかったのだ。だが、彼はそんなことに気がつかなかった。只考えたのは、何とかして、検札や旅客訊問の網に引懸るまいとして、こそこそ逃げ込むことばかりにこれ努めた。
その結果は、甚だよろしくなかった。彼は、とうとう無賃乗車の怪しい乗客として、車掌に捕えられた。それから憲兵の前へ引き出された。
彼は、陳弁に努めた。だが、彼等は、なかなか信用しなかった。彼は、思い出して、二冊の貯金帳を出して見せた。
「ほう」
と、彼等は、目を丸くしたが、
「この貯金帳には、大金を預けていることになっているが、この列車の中では、通用しない。このごろは、敵国のスパイが、よくそういうものを偽造してもっているからだ。本当に君は、中国人であろうか。われ等は、君を日本人の密偵だと睨んでいるのだが……」
仏天青は、その然らざる所以を滔々と述べた。そして、一列車前の十三号車に乗っている彼の妻君アンに連絡してくれれば、万事明白になるからと、しきりにその事を申し述べたのであるが、車掌と憲兵とは、それを実行しようとも何とも言わずに、彼を三等車の隅っこに押しこんで、附近の乗客に、彼を監視しているように命じた。
こうして、彼の不愉快な列車旅行が始まったのであった。
幸いに、彼を監視の乗客たちは、この顔色の黄いろい中国人をむしろ気味わるくおもっていたので、ときどき彼を睨みつける位のことで、手を出して迫害せられるようなことはなかったので、この点は大いに助かった。
彼は、不愉快のうちに、これまでの突拍子もない事件のあとを、静かにふりかえる時間を持った。
(一体、おれは、仏天青氏なのか、それとも他人なのか?)
アンは、自分が仏天青であることに異存はなかった。ブルート監獄の看守も「ミスター・F」と呼んでくれた。アンと一緒に乗り込んだ前の列車の憲兵も、同じく彼を仏天青と認めてくれた。それに、彼は仏天青名義の二冊の貯金帳を持っているではないか。
彼が“仏天青”ではないと言われたのは、バーミンガム駅にいた女だけだった。いや、それから、この列車の憲兵と車掌も、彼に対し幾分疑惑を持っているのだ。
これらを差引きして考えると、彼が仏天青であることの方が、そうでないことよりも、有力であると考えられる。あの女に逢うまでは、このような疑惑は、殆ど起らなかったのだ。あのバーミンガムの女こそは、懐疑の陰鬼みたいなものであった。
(おれは、仏天青に違いないのだ!)
そう思いながらも、彼は、あの女の残していった科白、
“こんな若僧じゃない!”
という言葉が、いつまでも無気味に思い出されるのであった。
彼のもう一つの当惑は、妻君のことだった。バーミンガムの駅で、あの女に取り縋られたときには、妻が二人出来たかと思って、すくなからず愕いたのだった。つまり、列車の中に待っている可愛いアンと、そしてこの塩漬けになったような中国女であった。
(女房を二人も持ってしまうなんて……)
と、そのときは、当惑したものであるが、しかるに只今、彼の身辺には、二人妻どころか、只の一人も、妻がついていないのであった。彼は、全く変な気がした。……
そんなことを考えつづけているとき、さっきから、彼をこっぴどい目にあわせた車掌が、彼の前を通りかかった。
「もし、車掌さん。前の列車にいるアンと、連絡がつきましたかね」
彼は、胸を躍らせて、車掌の返事を待った。
「そんな乗客は、いなかった。尤も、私は、始めから、君の言葉を信用していなかったが……」
「そんなことは嘘だ。アンは待っている」
「嘘ですよ。中国人は、見え透いた嘘を、平気でつくものだ。日本人は、そんなことをしない」
車掌は、そういって、彼の手をすげなく振り切って、向こうへ行ってしまった。
「そんな筈はない……」
彼は、拳を固めて、自分の膝のうえを、とんとんと叩いた。
「そんな筈はない。あの車掌め、中国人を侮辱する怪しからん奴だ」
彼は、爆発点に達しようとする憤懣をおさえるのに、骨を折った、孤立無援の彼は……。
列車旅行は、ますます不愉快さを高めていった。列車が、駅へつくたびに、彼は、車窓から顔を出して、もしやアンの乗っている列車が、同じホームについて、待っていないかと、一生けんめいに探したのであった。
そのうちに、こんな考えが、ふと頭の中に浮んだ。
(アンは、おれを捨てていったのではあるまいか。そうでなければ、バーミンガムの次の駅で下りて後から遅れて来るおれの列車を、待っている筈じゃないか)
アンは、彼を捨ててしまったのであろうか。とにかく、彼のために親切でないことだけは確かである。
(すると、やっぱり、あのボジャック氏というのが、アンの亭主であったのか。そしてボジャック氏、すなわちフン大尉という筋書か!)
彼は、胸糞がわるくなって、ぺっと、床に唾を吐いた。すると、隣りにいたイギリス人が、こっぴどい言葉で、彼の公徳心のないことを叱りつけた。
彼は、なんだか、もう生きているのが味気なくなった。
その味気なさは、列車がロンドンに着いてから、更に深刻味を加えた。
なぜといって、彼が最後の頼みとしていたところに反して、ホームの上には、彼を待っているアンの姿が、見当らなかったのであった。
車掌は、彼を、駅の会計室へ引張っていこうとした。彼は、それを後にしてくれと拒んだ。そして暴れた。車掌は仕方なく、彼のあとについて、彼と共に、改札口の外に出、それから駅の中をぐるぐると廻り、そして、掲示板という掲示板の前を巡礼させられた。その揚句の果に、仏天青は、遂に病人のように元気を失ってしまった。そして車掌に言った。
「おれのする事は、もう終った。さあ、今度は、どこなりと、君が好きなところへ、引張っていきたまえ。あーあ」
12
彼は、空襲警報と爆撃の音とを子守唄として、三日間を、ホテルの中で、眠ってばかりいた……
ロンドン駅についてから、彼は一旦警視庁の手に渡り、それからものものしい借用証書に署名して、やっと放免された。
それから彼は、乗車賃の借りをかえすためにも又生活をするためにも、金が必要だったので、英蘭銀行へいって払出書を書いた。ところが、銀行からは、体よく断られてしまった。どうも、サインが前のものと違っているから、帳簿に乗っているとおりのものを思い出してくれというのであった。
彼は、かーっとなったが、それでも、虫を殺して、一旦銀行を出た。
銀行を出ようとして、彼が、掲示板の中に、パリ銀行のロンドンに移転してきた告知ポスターを見落したとしたら、彼の上には、もっと深刻なるものが降ってきたことであろう。幸いにも、彼は、それに気がついたので、その足で、パリ銀行の臨時本店へいってみた。そこで彼は、十万フランの払出請求書を書いた。すると行員は、気の毒そうな顔をした。また、駄目かと、彼は苦い顔をしたが、行員は、
「誰方にも、只今、一日五千フラン限りとなっていますので、事情御諒承ねがいます」
といった。彼は、それならばというので、請求書を五千フランに書き改めると、銀行では、それに相当する英貨で、払ってくれた。彼は、やっと大安堵の息をついた。これで、乾干しにもならないで済む。
それから、彼は、このホテルに逗留することとなったのである。
休養だ! そして睡眠だ!
彼は、ただもう昏々と眠った。空襲警報が鳴っても、ボーイが、よほど喧しくいわないと、彼は、防空地下室へ下りようとはしなかった。地下室の中でも、彼は、遠方から地響の伝わってくる爆撃も夢うつつに、傍から羨ましがられるほど、ぐうぐうと鼾をかいて睡った。
三日間の休養が、彼を非常に元気づけた。彼は、アンに捨てられたことを自覚し、そしてアンのことを思い切ろうと決心した。そんなことが、一層彼の頭の中から、苦悩を取り去ったものらしい。
四日目、五日目は、ドイツ機の空襲が、ようやく気に懸るようになった。彼はようやく常人化したのであった。
六日目は、朝から市中へ出て、爆撃の惨禍などを見物して廻った。爆撃されているところは、煉瓦などが、ボールほどの大きさに砕かれ、天井裏を露出し、火焔に焦げ、地獄のような形相を呈していたが、その他の町では、土嚢の山と防空壕の建札と高射砲陣地がものものしいだけで、あとは閉った店がすこし目立つぐらいで、街はやっぱり華美であった。
防毒面こそ、肩から斜めに下げているが、行きずりの女事務員たちは、あいかわらず溌剌として元気な声をたてて笑っていたし、牝牛のように肥えたマダムは御主人にたくさんの買物を持たせて、のっしのっしと歩いていた。彼らは、ロンドンの空一杯に打ちあげられた阻塞気球を、ひどく信頼しているのか、それとも、自分だけには、ドイツ軍の爆弾が命中しないと信じているか、どっちかであるように見えた。
その日、半日の散歩で、彼は自分が、世の中から忘れられた人であることに気がついて、それがどうも気になってたまらなかった。やっぱり彼は、何を置いても、自分の素姓を知ることが先決問題であると、そこに気がついた。
今や元気と常識とを取り戻した彼は、勇躍して、その仕事についた。また新たに、生きている張合いといったものが感じはじめられた。彼は、ふしぎに自分の体が、軽くなったように思った。
彼は、まず手始めに、中国大使館へ出向いた。そして、自分は仏天青であるが、自分の素姓は、どういうものであるか、果して、大使館参事官であるか、どうかと、たずねた。そして記憶を失ったことや、記憶恢復後において身近に起った事件を、差支えない範囲で、受附の前にくどくどと説明したのであった。
「大使閣下は、御不在です。そしてわが大使館には、あなたのような名前の参事官はいません。御返事は、これだけです」
と、木で鼻をくくるような挨拶だった。
「本当ですか。本当のことを教えてもらいたいものです。私は気が変ではありませんよ」
「誰でも、そういうよ」
と、受附子の言葉が、急に乱暴になって、
「わしは、ロンドンに二十年も在勤しているが、ついぞ、仏天青などというおかしな名前の参事官があった話を聞かないね。家へかえって、内儀さんによく相談してみたらいいでしょう」
折角いい機嫌になった彼は、大使館に於けるこの押し問答によって、また憂鬱を取り戻した。なんという頭の悪い、そして礼儀知らずの館員だろう。彼は憤然、大使館の門を後にした。そしてもう、こんなところへ二度と来るものかと思った。
彼が、門を出ていってしまった後で、受附子は、にがにがしい顔をして、
「どうも、空爆のせいで、気が変な人間が殖えて来るよ。わしは、この頃、世話ばかりやっているが、あいつが大使館参事官なんて、とんでもない奴だ」
といいながら、ふと気がついて、書棚から在外使臣名簿を取り出して、頁をくった。そのうちに、彼は、びっくりしたような声を出した。
「あっ、仏天青、駐仏大使館参事官! あっ、ここにあったぞ。この頃は、新任の連中が殖えて、一々名前を憶えていられないや。しまったなあ。このまま放って置けば、この次に来たとき、こっぴどい目に会うぞ。よし、追駆けてみよう」
受附子は、ちょっと顔色をかえると、あわてて、外へ飛びだした。
だが、このときには、もう彼の姿は、どこにも見当らなかった。
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