5
防空壕を飛び出してみると、外は、今爆撃の真最中だった。
頭上には、ドイツ機が、縦横に飛んでいた。爆弾は、ひっきりなしに落ちて、黒い煙の柱をたてた。大地は、しきりに震う。
「おーい、アン」
仏は、精一杯の声をあげて、アンを呼んだ。
「あたし、ここよ」
うしろで声がした。見ると、アンは、そこに跼んで、腰の周りについていた綱を、解いているところだった。
「呑気だね、今、そんなことをして……」
「もう解けたの。大丈夫ですわ。さあ、あなた、この車にしましょう」
「えっ」
アンは、防空壕の入口に乗り捨てられてあった自動車の一台に駆けよると、運転台の扉をあけて、とびこんだ。
「早く、さあ、あなた」
仏は、アンの心を解しかねたが、ぐずぐずしているわけにもいかず、つづいて、運転台にとびのった。
「あら、あなたと反対だったわね」
アンは、ハンドルのことをいっているらしかった。
「よし、こっちへ替れ。おれが、運転する」
「そんな暇はないわ。あたしが動かします」
そういうと、アンは、ためらうことなく、エンジンを掛けた。そしてアクセルを踏んで、車を出した。
それからのちの、アンの働きぶりは、驚嘆に値するものがあった。
彼女は、その子供らしい顔に似合わず、非常に巧みに操縦をした。そして爆撃に震う舗道のうえを全速力でもって、リバプールの町の方へ飛ばしていった。
いつ、爆弾が、上から降ってくるかしれなかった。アンは、それでも、平気なものであった。彼女の目は、いつも前方を見つめていた。
一度は、丁度さしかかった町辻の郵便局へ、爆弾が落ちた。
「あ――」
と、アンは叫んだが、そのまま速力をゆるめないで驀進した。その辻のところでは、半壊の建物から、また、ばらばらと石塊がふってきた。アンは、ハンドルの上に首を縮めながらも、急カーブを切って崩れて落ちた石塊の充満する辻を、右へ折れた。車は、ゴム毬のように、はずんだ。
「アン、どこへいくのか」
と、仏は、ほれぼれと、ハンドルをとるアンを眺めた。
「どこって、あなた、リベッツの宿に荷物が置いてあるじゃありませんか」
「荷物が……」
「ああ、失礼。あたし、あなたにお話ししてなかったけれど、宿をかえたのよ。だって、いつお出になるかわからなかったんですものねえ」
「え、出るって……」
仏は、ふしぎそうな顔をした。
彼は、アンに初めて逢ったときには、アンを、まことの自分の妻だと思った。ところが私服の警官が現われて、アンが、リバプールの桟橋から飛び込んで死んだ男の妻君であって、何かの事情のため、自分に助けを求めたものじゃないかと思った。だが、これは断言するだけの証拠が集っていなかった。アンが、防空壕を出ていくといったとき、彼はいよいよこの女の亭主の代役が終ったのかと思って、憂鬱になった。が、アンがいよいよ空爆下の防空壕の外へ飛び出していくと、もうじっとしていられなくなって、アンの後を追いかけたわけだった。
そのうちにも、彼は、
(こうして、もうしばらくアンの傍にいれば、本当に自分が彼女の亭主であるか、それとも防空壕の中で、臨時に捉えられた偽装亭主であるかが判明するだろう)
と、思っていたのであった。
しかるに今、アンは、彼が、さきほど監獄から出たことを承知しているような口ぶりであった。
「そうなのよ。けさ、急に、あなたが、ブルートの監獄をお出になるって、知らせがあったもんだから、早く宿を出たんですの。そして海岸通りを桟橋の傍まで歩いて、そこで自動車を待っていると、あの身投げ騒ぎがあったのよ。そして、あたしは附近にいたというだけのへんな理由で、私服警官のため、その身投げ男の妻と見られて、捕縛されちまったの。そして、ブルートの未決監房へひいていかれるうちに、あの空襲警報に出遭ったのですわ」
アンは、息をはずませながら、早口にそういった。
「ああ、そうだったか。おれはこの頃、神経衰弱になったのか、妙に、なにもかも、忘れてしまうんでね」
仏は弁解らしくいった。そして胸の中はうれしさで一杯になった。
(アンは、やっぱり、おれの妻だった。おれは幸運にも、自分の家庭へ戻ることが出来たのだ)
しかし彼は、アンを心配させないために、過去の記憶のなくなったことを、なるべく急には言うまいと思った。そのうちに、何かの拍子で、恰も緞帳が切って落されたように、一ぺんに自分の過去が思い出されるかもしれないと、そこにはかない望みを残したのであった。
6
リベッツの宿というのは、海岸にあった。
アンが、自動車を、リベッツの宿につけたとき、空襲警報は、はじめて解除となった。アンは、仏の手をとらんばかりにして、宿の中へ誘った。下宿の老婦人は、アンを見ると、驚愕に近い表情になって、彼女のところへ飛んできたが、傍に仏が立っているのに気がつくと、俄に平静に戻ろうと努力し、
「おや、まあ、これは……」
と、どっちつかずの挨拶をすれば、アンはそれを途中から引取って、
「おばさま。これ、この通り、夫にうまく行き逢いましたのよ。警官に行手を拒まれた時は、どうなるかと思いました。幸いにその途中で夫に逢えたもんですから、こんな幸運て、ちょっとありませんわ」
「まあ、それはそれは、御運のよかったことで……で、すぐロンドンへいらっしゃるでしょう。ねえ、アン」
「え、ええ、そうしましょう。荷物をとりに来たのも、そのためよ」
「午前九時十五分発の列車がいいですわよ」
「そうですか、午前九時十五分発ですね」
「気をつけていらっしゃい。こういうとき、あたしなら十三号車に乗りますわ。こういう時節のわるいときには、わるい番号の車に乗ると反って魔よけになるのよ」
「十三号車? ええ、ぜひそうしましょう」
仏は、二人の会話を傍で聞いていたが、アンが、この下宿のかみさんドロレス夫人を、母親のように信頼しているのを知った。アンは、ドロレス夫人のいうとおり、なんでも従うつもりに見えた。車室まで、かみさんのいったとおりにするなんて、いやらしいほどの信頼ぶりだと、彼は思ったことだった。
二人は、荷物をとるために、奥へ入っていった。仏だけは、そこに置かれた一ぱいの熱いコーヒーを味わっていてくれるよう、ということだった。
二人の女は、なかなか出て来なかった。一体、奥で、なにをしているのであろうかと、仏が立ち上ったとき、やっと声がして、二人の女は出て来た。
「あなた、これよ。このバッグを二つ、持ってくださらない。あたしは、この小さいのを二つ持ちますわ」
仏は、そこへ並べられたバッグを見たが、一向見覚えがないものだった。記憶の消滅の情けなさ。
二人は、下宿を出た。
駅の方へ歩きながら、仏が、ふと思い出したようにいった。
「ねえ、アン。おれは懐中無一文なんだがねえ、リバプールの英蘭銀行支店で、預金帳から金を引出していく暇はないだろうか」
「否。そんなことをしていれば、列車に乗り遅れてしまいます」
「じゃあ、一列車遅らせてはどうだ」
「それは駄目。あの列車に、ぜひとも乗らなくては。だって、いつまたドイツ機の空襲で、列車が停ってしまうか分らないんですもの」
そういったアンの顔は、仏が始めて見る真剣な顔付であった。空襲を要慎してということだったけれど、それにしても、それほど深刻な顔をしなくてもいいだろうにと、仏は思ったことである。
ロンドン行の切符をアンが買った。そのとき切符売場で駅員とアンの間になにかごたごた押問答の場面があったが、アンが旅券みたいなものを示し、そして仏天青を呼びつけて、彼の顔を駅員に見せることによって、二枚の切符は、ようやく窓から差し出されたのであった。
「いやに、うるさいのですね」
と、仏が、鉄格子の中を覗きこみながら、いうと、
「おう、若い中国の方。今朝から、特別の警戒なんですよ。桟橋附近で、夫婦連れのスパイを見かけたが、一人は海へ飛びこむし、他の一人は行方不明になるし、それで、この騒ぎですよ」
「それは、どこの国のスパイですかね」
「もちろん、ドイツ側のスパイですよ」
「ああ、ドイツですか。けしからんですなあ。しっかり、気をつけていてください」
アンが、しきりに服を引張るので、仏は、そのくらいにして、出札口を離れたが、そのとき、駅員の前に、「要監視人通告書」という紙が載っていて、そこに、「間諜フン大尉の件」という見出しのついていたのを、目敏く読みとった。
(フン大尉か)と、仏は口の中で間諜の名をくりかえした。
アンは、不機嫌だった。
「あなた。さっきの防空壕のこともあるんですから、あまりあたしたちにとって不利な発言は、なさらないようにね」
「不利な発言? おれがいま駅員と話をしたことが、それだというんだね」
アンは、黙ってうなずいた。
「なあに、大丈夫さ。でも君が心配するなら、以後は、口を慎もう」
「それがいいわ。お互のためですもの」
アンは、機嫌をなおして、甘えるように、仏の腕にすがりついた。
列車はホームについていた。大時計を見ると、今発車という間際だった。仏は愕いて、アンを抱えるようにして十三号車に飛びのった。
上一页 [1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] 下一页 尾页