くしゃみ事件
「これが夢でないとすると、たいへんなことになったもんだ」
川上のポコちゃんは、白雲のような寝床の上にひとり取り残されて、ひとりごとをいった。
夢ではない。ほっぺたをつねれば、たしかに痛いし、手で鼻と口をふさぐと息がつまる――。すると、ジャンガラ星とかいう遊星の上にいることはほんとうらしい。
しかしジャンガラ星なんて、全く耳にしたことがない。もしそんなものがあるなら地球上の天体望遠鏡に見えるはずだ。第一、わが太陽系の諸遊星のうちで、空気のあるのは地球と火星だけだといわれているではないか。その他の星には空気がなく、こうして安楽に空気を呼吸していられないはずである。まことにふしぎといわなければならない。
「ああわかった。いつのまにか地球へまいもどったんだ。そしてぼくらの友だちが、ぼくをおどかそうと思って、あんなふうにキューピーのばけものみたいな仮装をつけて、ぼくをからかっているんだ。それにちがいない……。それに、あのカロチとか名乗る植物学者は、日本語をじょうずに話しているじゃないか。地球以外の星で、いきなり日本語がわかったり、日本語で話したりするはずがない。そうだ。ここはもとの地球なんだ。この部屋の外には、おおぜいの友だちが、腹をかかえて笑っているんだろう。はははは」
ポコちゃんは、とつぜんそういう結論をこしらえあげた。そしてかれは寝床をけってはねおきた。
「あれっ」
きみょうなことが起った。それは思いがけないことだった。かれはそんなことをしたつもりではないのに、かれのからだは、すっと上にあがり、足が寝床からはなれて三メートルばかり上へあがった。
それから、からだは、しずかに下りてきて、ふわりと寝床に足がついた。自分のからだが、目にははっきり見えながら、からだの中は空気ばかりになったような、きみょうな身がるさをおぼえた。
「へんだね、これは……」
ポコちゃんは、小さい目をぱちぱちさせて、からだのまわりを見まわした。べつに風船がからだについているわけでもない。だれか、自分をそっと引っぱりあげ、そしてふわりとしずかにおろしたわけでもない。
「あっ、この寝床の中に、すてきなスプリングが入っているせいかな」
ポコちゃんは寝床から下りた。そして手で寝床のスプリングをおしてみた。しかしスプリングらしいものは、指先にさわらなかった。
「このへやが、どうもおかしい」
いやに天井の高い、まっ白なへやである。出入りの扉が一つあるほかには、画にかいたようなかんたんな窓がいくつかついている。そのほかにはなんにもない。
その窓から、外をみてやろうとポコちゃんは思った。そこでかれは一足二足、窓の方へ歩き出した。ところが、とたんにかれは足をすべらした。べつにそんなに力を入れたつもりでもないのに、足はつるつると前にすべり、かれのからだは中心をうしなって、どたんと背中を床にぶつけた。そしてからだは、足を上にしたまま、すごい勢いで窓の下のかべの方へすべって、かべにぶつかった。
と、かべに足がめりこんだ。いや、からだもいっしょにめりこんだ。いや、そうではない。かべがポコちゃんのからだにおされて、外へ向けて帆のようにふくらんだ。
「うわははは……」
笑ったのではない。恐怖の声をポコちゃんは出したのだ。かたいはずのかべが、まるでゴムの布のようにまがるなんて、これはばけもの屋敷にちがいない。
ポコちゃんは、あわてて起きあがった。そして戸口の扉をひらいて外へにげ出す決心をした。かれは足をひきながら、戸口の方へすりよった。
そのとき戸口の扉が外に向かって、ぱっと開いた。さっきのカロチ教授が、おどろいた顔で部屋へとびこんできた。
だがこのとき、外からの冷たい空気が、ポコちゃんの鼻の穴へ侵入してくすぐったので、かれはたまらなくなって、でっかいくしゃみを一つした。
「はっくしょい!」
「ケケッ」
カロチ教授は、きみょうなさけび声を戸口にのこすと、そのからだは、あらしにまう紙だこのように、くるくるとはげしくまわりながら、はるかにはるかに遠くへ吹きとばされ、やがて姿は見えなくなった。
思いがけないポコちゃんのくしゃみの偉力だった。
ポコちゃんは戸口にぺったり、しりもちをついたまま、ぽかんとして石のように動かない。何事が起ったのか、ポコちゃんにはさっぱりのみこめないのだ。
なぜ滑るのか
「へんだなあ。さっぱり、わけがわからない」
ポコちゃんは、ふしぎそうに、まゆをひそめて、けしとんでいったカロチ教授のゆくえを目でさぐってみる。
戸口から見える前方の景色は、はばのひろい白い道が遠くまでつづき、その両側にきみょうな林がある。その林は、あたまの重そうな植物のあつまりでできている。その植物は背がずいぶん高くて、大きなケヤキの木ほどもある。しかし、ケヤキとはちがい、あんな太い幹はなく、細くてつやつやした幹がまっすぐに立っている。幹が細いかわりに、葉っぱはたいへん大きく、たたみを三四枚あわせたほどもある。それからこずえの上に、これも、たたみ何枚じきはありそうなばけもののような花が咲いているのであった。あぎやかな赤い花、すきとおるような黄いろい花、海をとかしたような青い花などが、そのかたちもいろいろあって、咲きみだれているのだ。
「へんな林だ。しかし、どこかで見たような気もする景色だ」
そうだ、思いだした。地球の上ならどこにでも見られるあの草花るいを、かりに五十倍か百倍ぐらいに大きくして、それを集めて林にしたら、たぶんこのような景色になるかもしれない。とにかくきみょうな景色のジャンガラ星ではある。
「カロチ教授はどうしたのかしらん。これからいって、あの林の間を通りぬけ、カロチ教授がどうなったか、たずねてみよう」
このきみょうな国にとびこんで、きみの悪いったらないが、カロチ教授はふしぎに日本語が通ずるので、どのくらい心強いかしれない。そのくらい頼みに思う教授が、糸の切れたたこのようにすっとんでしまって、いつまでたっても姿をあらわさないのであるから、気になって、しかたがない。
ポコちゃんは、じゅうぶんに気をつけて起きあがった。さっきはどうして滑ったのかわからないが、こんどは滑らないようにと用心をして、ゆかの上を一足ふみだした――とたんにかれは、またすってんころりんと滑ってしまって、そのいきおいで、ゆかの上を氷のかたまりのように滑って走って、戸口から外へ……どすん!
たしかに大地の上に、ポコちゃんはしりもちをついた。しかしおしりは、そんなに痛くはなかった。ふんわりとふとんのうえにしりをおろしたのと同じようであった。
ポコちゃんは、きょろきょろとあたりを見まわした。空は青く晴れて、高いところにあった。太陽はぎらぎらと照りつけて熱帯の太陽のようであった。ふりかえると、今までポコちゃんのいた家があったが、それは白いクリームでこしらえた、みつバチの巣といったような感じだ。
ポコちゃんは、もう一度じゅうぶんに用心をして腰をあげた。そしてしずかに大地に立った。そこでしばらく深い呼吸をして、気をしずめた。気がしずまったところで右足を高くあげた。まるで馬が前足をあげたように。それからその足をそっと垂直におろした。そのかっこうは、まるで川をわたるときの足つきそっくりだった。
「あっ、しめた。一足、ちゃんと歩けたぞ」
たった一足だけ滑らないで歩けたことが、ポコちゃんにとっては大きなよろこびだった。そのちょうしで、彼は用心ぶかく、つぎの一歩をそれからまたつぎの一歩を、白い道路の上にふみだしていった。
が、また、すってんころりんと、ころんでしまった。そのわけは、ポコちゃんにはわかっていた。すこしゆだんをして、うっかり大地をけるように足を使ったのがいけなかったのだ。とたんにつるり、すってんころりであった。
「なんという道路だろう。まるで油をぬってあるように滑っちまう。しかし油なんか、けっしてぬってないんだがな」
道路を手でなでてみたが、油をぬったようにぬらぬらはしていないで、やはり大地はがさがさしていた。
「ふしぎだなあ。なぜ、歩くときだけ、滑ってしまうんだろう」
このことは、後になってはっきりわかった。それはこのジャンガラ星は重力が非常に小さい星であるために、摩擦もまた小さく、したがって地球の上を歩くような力の入れかたをしたのでは、すぐ滑ってしまうのだ。ジャンガラ星はたいへん小さくて月の一万分の一しかない豆粒星であったのだ。
そしてついでに書きそえておくが、このジャンガラ星はビー玉のように球形ではなく、乾燥したグリーン・ピースの、おされてすこしいびつになっているそれによく似ていた。そのことがジャンガラ星の宇宙運航の軌道を、いっそう、きみょうなものにしているのだった。
そのことについて、もっとくわしく説明すると――いや、説明は中止だ。なぜといって、今空から一人の人間が、浮力を失ったゴム風船みたいに、ふわりふわりと下りて来るではないか。しかもそれはポコちゃんがえんこしているすぐ前に下りてきそうなのだ。
どうしたんだろう。あまくだる怪しい人かげは、いったい何者であろうか。
あまくだる人かげ
あまくだる人かげの、みょうな姿よ。
ポコちゃんは、それに気がついて、ぽかんと口をあいてあまくだる人かげを見まもっている。
「空から人間が降ってくるとは、へんだぞ。翼も生えていないようだし、落下傘を持っているわけではないし、なぜあんなにふわふわと、ゆっくり下りて来られるのかなあ。おや、このへんへ落ちてくるぞ」
まるで花火がうちだした紙製の人形のように、その人かげは風にのったまま、地面に対してななめにすうっと着陸した。と思ったら、とたんにごろごろと転がりはじめて、約二十メートルを転がって、ちょうどポコちゃんの前まで来た。
ポコちゃんはあわてて相手をつかまえてやった。
「どこか、けがをしなかったかね」
と、相手に声をかけながらよく見ると、なんのこと、それはジャンガラ星人のカロチ教授であったではないか。
「川上君。くしゃみをするときは、こっちを向いてやらないで下さい。わしはもう呼吸がとまるかと思った。すごいくしゃみを君はするんだね」
カロチ教授は、三本の手でしっかりとポコちゃんの腕をつかみながら、うらめしそうにいった。
聞いているポコちゃんは、顔があつくなった。
「あなたを、くしゃみでふきとばすつもりはなかったんです。悪く思わないで下さい。あなたのからだは軽いんですね」
「君のくしゃみのいきおいがはげしすぎるのだよ。あっという間に、からだがくるくるとまわって、地上から千メートルも高い空までふきとばされちまったからねえ。ほんとにもうこれからは気をつけてくれたまえよ」
「はいはい。気をつけましょう」とポコちゃんはていねいにあやまった。
「しかしあなたのからだは、どうしてそんなに軽いのですか」
ポコちゃんは、えんりょのない質問をした。
「それは生まれつきだよ。ちょうど、君たち地球人が、いやに重いからだをもっているのと同じことさ」
カロチ教授は、大きな目玉をぐりぐりさせていった。
「なるほどねえ」ポコちゃんはうなずく。
「しかしぼくは、さっきから歩こうとして滑ってばかりいるんです。どうしたわけでしょう」
「そりゃ君が、あまり足に力を入れて歩くからさ。君はもっと歩き方を練習しなくてはならない。でないと、おもしろいところへ案内できないからねえ」
「なるほど」
ポコちゃんは同じことばをくりかえして、カロチ教授にうなずいてみせた。
「あなたはたいへん親切ですね。カロチ教授。そこでもっとおたずねしてよろしいですか」
「どうぞ。答えられることは答えましょう」
教授もポコちゃんも、道路の上にすわりこんでしまった。タンポポのおばけみたいな木のかげが長くのびて、かたむいた太陽がぎらぎらと光る。いやに日が短い。
「まず知りたいのは、こんなりっぱな星があるのを、天文学者はなぜ知らないのでしょうか」
「すぐれた天文学者なら、みんな知っているよ、このジャンガラ星のことをね」
「いや、ぼくはジャンガラ星のことを天文学者から聞いたこともないし、本で読んだこともありませんがね」
「そりゃわかっている。地球の天文学者たちはみんな天文の知識が低いんだ。だい一このジャンガラ星を見わけるほどの倍率をもった望遠鏡さえ持っていないんだからねえ」
「ははあ、そうですか」
ポコちゃんは顔が赤くなった。カロチ教授から、地球の学者は、知識が低いなどといわれると、自分まで文化の低い生物といわれたようで、はずかしくなる。
「われわれ地球人よりも、あなたがたの方がずっと知識が進んでいるのですね」
そうでもなかろうが、カロチ教授がどう答えるかと思い、そう聞いてみた。
「そのとおりだ」教授は、はっきり答えた。
「その証拠としては、たとえばわしは君たち日本人種の使っている日本語がよくわかるし、またちゃんと日本語で君と話をしている。しかし君はジャンガラ星語は知らない。わしは日本語の外、アメリカ語でもフランス語でも何でもよく話せる。わしだけではない。わがジャンガラ星人なら、みなそうなんだ。われわれは地球人の知能のあまりにも低いのに深く同情する」
「な、なアるほど」
ポコちゃんは小さい目をぐるぐるまわして消えてしまいそうであった。ジャンガラ星人はたしかに地球人類よりずっと高等生物らしい。「人間は万物の霊長だ」などと、いばっていたのがはずかしい。
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