透明壁か
「竜造寺兵曹長。これはへんだな」と、山岸中尉がいった。この若い士官は、鉱山の山岸少年の兄だった。
「山岸中尉も、歩けなくなりましたか。どうしたんでしょうか」
竜造寺兵曹長は、陽やけした黒い顔の中から、大きな目をむく。
「へんだなあ。まるで飛行機で急上昇飛行を始めると、G(万有引力のこと)が下向きにかかるが、あれと同じようだな」
「そうですなあ。あれとよく似ていますねえ。おや、前へ出ようとすると、Gが強くなりますよ」
「そうか。なるほど、その通りだ。どうしたんだろう。おや、前に何かあるぞ。手にさわるものがある。柔らかいものだ。しかしさっぱり目に見えない」
山岸中尉はついに手さぐりで、怪物の存在を見つけた。何物ともしれず、ぐにゃりとしたものが手にさわるのであるが、それはさっぱり見えない。透かして見ても、つかんでみても、何も見えないのであった。それは透明な柔らかい壁――、ふしぎなものであるが、そうとでも思うしかなかった。
このふしぎな透明壁が、もし次の日までここに残っていたら、帆村荘六もそこへ出かけて、きっと、くわしく調べたことだろうと思う。ところが、それから間もなく――時間にして三四分後に、透明壁は急になくなってしまった。そして喜作たちも、また反対の側にいた田中さんや山岸中尉たちも、あたり前に歩きだすことができたのであった。そしてこの事件は、ふしぎな話として、この白根村にひろがっていった。それはやがて鉱山事務所へも伝わったのである。
「昨日白根村でなあ、まっ昼間、十二三人の衆が揃いも揃って狐に化かされてなあ、その中には海軍さんまでも居なすったそうじゃが、こんこんさんもたちのわるいわるさをなさるものじゃ。この頃、ちっとも油揚をあげなんだからじゃろ……」
という具合に、この奇怪な噂は、附近の村々へひろがっていったのである。
翌朝、鉱山事務所の中にある建物の中で、目をさました例の特別刑事調査隊の七人組にも、この奇怪な話が伝わった。
「どういうわけですかなあ」
と、鉱山の人々からたずねられたが、七人組の博士たちは、ただ苦笑するだけで、何の返事もしなかった。
この話は、帆村荘六の耳にもはいった。彼がそれを聞いたのは、正午のすこし前であった。その日彼は早朝から研究室にこもったきりであって、お昼の食事のために外に出たとき、始めてこの奇怪な話を耳にしたのであった。
帆村はこの話を聞くと、さっと顔色をかえた。それから彼は若月次長を探し出すと、彼を引張って行くようにして、室戸博士の一行を訪ねたのであった。
「白根村で村道を歩いていた十二三人の者が、急に歩けなくなった話をお聞きになりましたか」と、帆村は室戸博士をはじめ、七人組の顔をずらりと見まわしていった。
「ああ聞いたよ。どうもおかしいね」
室戸博士は、落ちついて答えた。
「そうですか。重大な事件だと思いますが、あなたがたはあれをどうお考えになりますか」
帆村は熱心な口調でたずねた。室戸博士はしずかに首を左右に振って、
「まったく気の毒だと思う。この村は、例の青い怪物の出現以来かなりおびえているらしいね。神経衰弱症だねえ」
博士はしずかにいった。帆村はそれを聞いて、不満の色をうかべた。
「室戸博士は、そうお考えですか。それはちとお考えすぎではないでしょうか。十二人の歩行者が、揃いも揃って神経衰弱になるとは思われませんが……」
「ほほう。君は狐つきの説を信ずる組かね。はははは」
「いやそうじゃありません。第一、あの十二人のうちには海軍軍人が二人いるのですよ。列車から下りたばかりの海軍軍人は、青い怪物事件のあったことも知らないのですし、また話を聞いたとしても、あんなことで海軍軍人ともあろう者が、神経衰弱になろうとは思われません」
「それはそうだ」と室戸博士はいった。しかし熱のない返事であった。そこで帆村はまたいった。
「それに、青い怪物事件のあったのは、この町です。白根村は隣村です。この町の者が神経衰弱にならないのに、白根村の者が神経衰弱になるのは変ではありませんか」
「じゃ君は、あれをどう解釈しているのか」
室戸博士の質問に、帆村は黙って下をむいた。やがて呻くような帆村の声が聞えた。
「……あれこそわれわれ地球人類に対して、恐るべき第二の警報だと思うのです。われわれはすぐ立ち上らねばなりません」
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