海野十三全集 第12巻 超人間X号 |
三一書房 |
1990(平成2)年8月15日 |
1990(平成2)年8月15日第1版第1刷 |
暗闇の中の声
奇賊烏啼天駆(うていてんく)と探偵袋猫々(ふくろびょうびょう)の睨(にら)み合いも久しいものである。
この勝負は一向かたづかないままに、秋を送り、この冬を迎えた。
ところがここに袋探偵は、一つの手柄をたてた。いや幸運を掴んだといった方がいいかも知れない。というのは、今から三日前の夜、虎ノ門公園地内でのだんまり一幕。
かれ猫々は、その夜すっかり酔っぱらってあそこを通りかかったが、どうにも身体が思うようにならず、そこでしばらく時間をやり過ごすことにして、ふらふらと足を踏みこんだのがあの公園。亭のあるところまで行きつかないうちに力が抜けてしまい、どんと尻餅をついてそのままと相成ったのが、入口から入ったすぐのところの八(や)つ手(で)の葉かげ。
そこですっかり身体が安定してしまって、ぐっすり睡込んだ。――と思ったら、たちまち夢を破られた。何者とも知れず、十歩位でとんで行けそうなすぐ傍で左右に分れて睨みあったる二組の人影。それがあたりを憚(はばか)りつつ凄文句(すごもんく)を叩きつけ合う。時々声高になって言葉に火花が散るとき、かれ袋探偵の酔払った耳底に、その文句の一節が切れ切れにとびこむ……
水鉛鉱のすばらしい鉱山が見つかった。
その仮称(かしょう)お多福山(たふくやま)の場所は秘密だ。
おぬしだけが知っているんだ。
とんでもない。
金山源介は殺された――お多福山の宝を見つけて、見本の原鉱を掘りだした男………
殺したのはおぬしだ。
うそだ。でたらめだ。
烏啼の身内と分ったからにゃ、話はお断りだ。
そんなことはいわない方がいいだろうぜ。笹山鬼二郎、おぬしは悪人だ、卑怯者だ。
儲(もうけ)けは山分けだ。
いやだ。
おぬしの大将に何もかもぶちあけて、大将にかけ合う。
まあ、待て。
おぬしは源介から横どりした秘密地図を持っているんだ。それを今、半分に破いてこっちへ寄越せ。
ちょッ、悪い者に見こまれたよ。じゃあ今出して、それを半分にするから……ちょっと待っていて下さいよ。
その次に起ったことを、袋探偵はわりあいはっきり覚えている。
というのは、たちまち身近に起った大乱闘。罵(ののし)る声。悲鳴。怒号。殴りつける音。なにかがしきりに投げつけられる音。それから乱れた足音。遠のく足音。……
袋探偵は、八つ手のかげで、いくたびとなく立とうと努力した。だがそれは遂に駄目であった。腰が重くて、力がはいらなかった。そのうちに何だか机ぐらいの大きさのものがとんで来て、彼を張り倒した。彼は温和(おとな)しくなった。
やがて彼は気がついた。
身体の方々に、はげしい痛みを感じた。手をちょっとあげても痛いし、足をちょっと動かしても痛い。腰のあたりがひりひりする。
だがうれしいことに、こんどは二本の足で立上ることができた。ただし彼の背は丸く曲ったままであった。だがこれは元々彼が猫背のせいなので、なにも今夜に始まったことではない。
彼は長時間厄介になった八つ手のしげみから放れようとして、蹴つまずいた。足の先に、ずしりと重いものを突っ掛けた。見ると折鞄が落ちていた。
彼はそれを拾いあげて、常夜灯の下まで持っていって改めた。このとき彼の眼は、もう酔眼ではなかったが、全く見覚えのない鞄であった。彼はその鞄を元の場所へ置くために引返したが、五足六足行ったところで気が変った。
彼はその鞄を小脇に抱えこんで、公園の木立の闇をくぐり、外の街路へ出た。
それから彼は無事に自分の事務所へ戻りついた。
戸をあけて玄関にはいると――彼だけが知っている暗号錠の動かし方によって、彼はこの戸じまり厳重な屋内へはいることが出来るのであった――忠実なばあや関(せき)さんが起きて来て出迎えた。午前二時をすこし廻っていた。かくべつ用はないから、ばあやさんには自分の寝室へ引取って貰って、彼もまた自分のベットを探しあてて、中へもぐりこんだ。
袋猫々は何も知らなかったが、彼が公園を出たあと三十分ほど経って、三人の男がこの公園の中へ駆けこんで来た。そしてさっきの格闘のあとの地面の上を嗅(か)ぐようにして、しきりに何かを探し始めた。
彼らは一時間ほど探してから、三人鳩首(きゅうしゅ)して首をかしげ、晴れない顔付のままで公園から出ていった。
当夜、袋探偵が拾った折鞄は、烏啼天駆の義弟の碇(いかり)健二の鞄だった。その中には烏啼にとって非常に重要機密なる書類もいくつかはいっていて、あの翌朝、袋探偵をたいへん喜ばせたものである。彼はその書類だけを鞄から抜きだして、彼が最も信頼するところの書斎の壁にはめつけの金庫の中にしまった。鞄の方は、硝子(ガラス)戸棚の中に入れて、鍵をかけてしまった。
彼は、烏啼に対しては、全然知らない顔でいることにした。しかし定めし向こうでは気に病(や)んでいることと思われた。
念入りなスリ
袋探偵は、烏啼に関係ある例の鞄のことをしばらく忘れていた。
そのわけは、彼が過日八つ手のしげみの間の中で酔耳(すいじ)(というものがあるとして)を通して聞いた奇怪な事実の研究に没頭していたからだ。
その結果、あの貴重な水鉛鉱の話が本物であることを確めた。またそれを発見した真の権利者である金山源介が死んでいることも確めた。彼は悪い酒を飲んだあとで下宿で死んだことになっていて、確かに殺害されたことにはなっていなかった。
笹山鬼二郎という人物も確かに実在していた。彼は弓削組に属して請負い仕事をやっている三十男であった。しかし彼はこのところ弓削組へ顔を出さないことが分った。
笹山鬼二郎の宿所へ行って調べてみると、彼はこの数日以来そこにも全く姿を見せないことが分った。どこか他の場所に泊っているらしい。
そしてこの男の所在を、弓削組でもどうやら気にしていることが判明したが、それとは別に、烏啼の一派が弓削組以上に、鬼二郎の所在を知りたがって、いろいろと手を廻していることが分った。そして首領の烏啼天駆自身はまだ顔を出していないが、彼の義弟である腕きき男の碇健二などは、いくどもこの鬼二郎の家へやって来たことが、近所の人々の話から分った。
笹山鬼二郎は相当の悪党でもあり、頭脳も腕も胆力も衆にすぐれているらしく、この前の虎の門公園の出会(であい)においても、遂にあの秘密地図の半分を相手に渡さないでしまったことは確実だった。そのとき彼は反(かえ)って逆襲に出で、烏啼組に一泡も二泡もふかせたらしい。現にその夜の烏啼組のリーダーだった碇健二さえ右腕を引裂かれた上に昏倒(こんとう)してしまい、部下の者たちは周章(あわ)てて彼を肩に引担いで後退したほどだった。
そういう鬼二郎のことだから、早くも形勢をさとって行方をくらましたのであろうが、袋猫々にとっても彼鬼二郎の所在は一刻も早く突きとめたく、その上で鬼二郎が金山源介を本当に殺害して彼の利権を横領したものだかどうかを確める意欲に燃えあがっていた。
だが、猫々探偵の念入りな捜査にもかかわらず、今なお鬼二郎の所在を掴むことの出来ないことにおいては、碇健二の場合と同じであった。
ただ数日後の或る日、彼に思いがけない一つの収穫があった。
それは彼探偵が例の仕事を胸に畳んで虎の門公園の脇を通行中、公園の中からいきなりスポンジ・ボールがとんで来て探偵の頭に強く当った。探偵はふらふらとなった。そのとき若い男が公園の中からとび出して来て、ボールを拾う恰好をしながら、探偵にどしんとぶつかった。「すみません」と若い男は詫びて走り去ろうとするのを探偵は相手の腕をつかんで手許へ引張った。
「掏摸(すり)だな。掏(す)ったものを返せ」
と探偵は怒鳴った。相手は強力をもって暴れた。が、袋探偵は腕力にかけてはちょいと自慢するだけあって、若い男の腕首を放さない。そして内ポケットから持っていった紙幣入(さつい)れを取戻そうと争っていると、いきなり相手が探偵の手に噛みついた。
「痛ッ!」
探偵は手を放す。ごつんと向脛(むこうずね)を一撃される。探偵はひっくりかえる。と、横面をガーンと靴で蹴あげられ、探偵は気が遠くなってふらッとなった。
ここまでは探偵のあざやかな負けだった。が、彼が気を持ち直して、頤(あご)のところをおさえて立上ったとき、下へぱらりと落ちたものがある。封の破れている手紙だった。それが収穫物だったのだ。
さすがに探偵で、普通の者なら一顧もしないものを、彼はポケットへねじこみ、それから公園へ躍りこんだ。それはさっきの男を捕えるためだった。だが公園の中はひっそりかんとしていて、野球やキャッチボールをしている者はない。探偵は歯がみをしたが、どうにもならなかった。
が、後で彼は例の封の破れた手紙をポケットから出して拡げてみたところ、これは彼を昂奮させずには置かなかった。すなわち一枚の紙に書かれた全部は、悉(ことごと)く片仮名ばかりの文章であり、一度読み下してみると、それが正に暗号文であることがはっきり分ったのである。
その文章は、次の通りであった。
「クルマカンニセンコクアリシンネンノエンカイイマナオエンキザンネンナリタンネンベルクカイセンノケツカハシゼンチホウミンノシンノバンサンカイインニカンセズナオミンカンニソノサンカンヲコワントカンゼシナランイマケエイツノソサマジニクギジアマトンツマイセリンコゴラミウイヲダイハモラチチノトレマカテギヲチマメチイモシウトトウミケシテモアエゲイコリマヨトスカイルウヨレオインンウハノナオナスヲトレツコタデレスハ」
解読できるか
明らかに、これは暗号だ。
暗号である以上、解けるはずだ。
「よろしい。解いてやるぞ」
袋探偵は自分の机の上に、例の片仮名ばかりの一文をのせて、はげしい決意を示した。
「どこから手をつけたらいいか……」
二度読みかえし、三度くりかえし、四度五度と声をだして読んだ。
読みかえしているうちに、何となく気のついたことがある。
「始めの方は何だか意味のある言葉が続いているが、途中からちんぷんかんぷんに変ってしまう」
それからもう一つ、感想を持った。
「前半は、いやにぴんぴん響くのに、後半になるとそれがなくなっている」
それ位にして、あとは正攻法に移る。
まず字数を算(かぞ)えてみる。
「ほう、二百字ある。ちょうど二百字だ」
きちんと二百字だということは、偶然であるとは思われない。何か作為が秘められているのだ。
次に、この二百字を分類して見る。どの字が最も多いか、多い順に字を並べてみるがいいだろう。
その結果、次のことが分った。
ン(二十九個)が第一位だ。次はイ(十四個)だ。第三位はカ(十一個)だ。
それからは、ノ(八個)、マ(九個)、ト(七個)あとはずっと数が少くなっている。
「これはどうもおかしい。たった二百字の暗号文にしろ、日本文字の使用頻度の統計とだいぶん違っている。ヲ、ニ、ワ、ルなど相当多くなければならぬ筈の文字がこれには意外に少い。――それに反して、ンだとかカだとかいう文字が多すぎる。ことにンが二百字中に二十九字もあるのは、あまりに変態である」
そこで袋探偵は、溜息を、一つついて鉛筆を取上げ、文字の第一番から一つ一つ数え始める。
「ここまでちょうど半分だ。これより前が百字。あとが百字。――こうして境界線を入れてみると、いよいよこれは何かあるな」
クルマカンから始まってカンゼシナランまでと、次のイマケエイツから始まってタデレスハまでとに分けてみたのだ。
「ふうん。前半と後半とは、まるで他人のようだ。――そこでこれを仮りに別物としてみよう。そして分析してみる」
まず前半からだ。出て来る文字の頻度をかぞえてみる。
ン(二十五個)、次はカ(九個)、次はイ(五個)、ノ(五個)、シとナが共に(四個)だ……
「これはいよいよ無茶苦茶だ。日本文字頻度統計をすっかり破っている。――そこで、これは意味のある言葉を分解して配列がえをやったのではないということが分る。してみれば、これは一体何だ。どんな役柄なのか、前半の百字は……」
「とにかくンの二十五個は、あまりにも異常だ。次のカは九個だ。第一位と第二位とのひらきが、あまりに大きい。……ンの二十五個か。二十五だ。……待てよ、二十五といえば百の四分の一だ。前半の前字の数は百だった。その四分の一がンという文字なんだ。そこだ。そこに鍵があるんだ」
なんの鍵であろうか。
ちょっと取付けない。――それならば、すこし方向をかえてみる。
百と二十五。とにかく百だ。百と二十五と四だともいえる。
この三つの数字の関係がとければいいのだが……
「そうだ。四と百と――これかもしれない。百個の文字を十字ずつ切って並べると十行で百字となる。すると四角が出来る。これはおもしろいではないか」
クルマカンニセンコク
アリシンネンノエンカ
イイマナオエンキザン
ネンナリタンネンベル
クカイセンノケツカハ
シゼンチホウミンノシ
ンノバンサンカイイン
ニカンセズナオミンカ
ンニソノサンカンヲコ
ワントカンゼシナラン
この四角な文字の配列を眺めていると、この中のンという文字は、たしかに或る符牒(ふちょう)を示すものであると察せられる。言葉を構成しているものではないのだ。
しからばその符牒とはどんな符牒か。
句読点か。
「とにかく、そのンの字のある場所を、他の文字と区別して、しるしをつけてみよう」
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