救難信号
帆村は列車のうちに一夜を明かした。その翌朝の六時三十八分というのに、列車は大阪駅に入った。
すこし神経がつかれたのか、頭が痛い。それを我慢して、大阪の街に一歩を印した。
天王寺に近い新世界は、大阪市きっての娯楽地帯であった。そこにはパリのエッフェル塔を形どった通天閣があり、その下には映画館、飲食店、旅館、ラジウム温泉などがぎっしり混んでいた。
帆村はもう一所懸命であったから、顔も洗わず、飯も喰べないでこの新世界へ車をとばしたのであった。
アシベ劇場は、通天閣のすぐ脇にあった。しかしあまり早朝なので、表戸はしまっていて内部を覗うよしもない。通りかかった女性に聞くと、まだ三時間ほど待っていなければならぬそうであった。彼はやっと落ちついて顔を洗ったり朝飯をとる時間を見出した。劇場が切符をうりだしたのを見ると、帆村はまっさきに館内へ入った。そして待ちに待った第五番目のノートは、うまくとれた。それは別掲のようなものであった。(第七図)
[#ここから罫囲み]
[第七図]
8□
_______
74□)□□□□□□
□□□2
―――――
□9□□
□74□
―――――
□□4□
富山市公会堂事務所ニ置カレタル「オルゴール」時計ノ文字盤。商標ノトコロニ星印アリ
[#ここで罫囲み終わり]
□□4□と、第五段めの四桁数字が出てきた。これを QR4S と記号をふった。
この辺で大概決ってしまうであろうと思って調べてみた帆村は、大きい失望を経験しなければならなかった。なんの新しい決定もないのであった。F=M であったように、G=S であるが、さてそれが如何なる数字であるか分らぬ限り、なんにもならない。
「早く富山に行ってみなければ駄目だ」
と帆村はアシベ劇場の休憩室で、大きな欠伸を一つした。
とうやら次の富山がゴールのようである。なにごともそこで決りがつくのだ。
帆村はふらふらする身体を立てなおしながら、日本空輸へ電話をかけた。
「もし、富山行きの旅客機に席が一つ明いていませんか。もちろん今日のことです」
すると返事があって、明いているという。そこで切符を頼んで、名前を登録した。出発時間はと聞けば、午前十一時十分だという。あと一時間半ばかりあった。
帆村は公衆電話函を出ると、急に酒がのみたくなった。
あまり時間はないが、こうふらふらでは仕方がない。ことにこれから空の旅路である。ぜひ一杯ひっかけてゆきたい。そう思った彼は、新世界をぐるぐるまわりながら、酒ののめるところを物色した。
あとで聞くと、それは軍艦横丁という路次だったそうであるが、そこに東京には珍らしい陽気なおでん屋が軒をならべていた。若い女が五、六人、真赤な着物を着て、おでんの入った鍋の向うに坐り、じゃんじゃかじゃんじゃかと三味線をひっぱたくのである。客も入っていないのに、彼女たちは大きな声で卑猥な歌をうたう。この暑いのにおでんでもあるまいとは思ったが、その屈托のなさそうな三味線の音が帆村の心をうったらしく、彼はそこへ入って酒を所望した。
それから後のことは、帆村の名誉のために記したくない。とにかくその日の夜十時になって彼は転げこむように大阪駅に入っていった。
「富山へ行くんだ。一つ切符をどうぞ」
彼はまだ呂律のまわらぬ舌で、切符売場の窓口にからみついた。ひどく飲みつづけていたらしい。飛行機なんか、もうとっくの昔に乗りおくれてしまっている。
「おい山下君。ど、どこかへ逃げちゃったよ」
彼は、自分にも記憶のない人の名をよんだりなどしている。
彼は午後十時十八分の列車に、ようやくのりこむことが出来た。そして寝台の中にもぐりこむが早いか、蠎のような寝息をたてだした。よほど飲んだものらしい。
列車ボーイに起されて目がさめた。
まだ腰がふらふらと定まらない。洗面所へ行ってみると、満員だった。窓外は朝の山々や田畑がまぶしく光っていた。
車室へかえってくると、もう寝台はきれいに片づいていた。食慾がない。どうも変だ。昨日はなぜあのように飲みすぎたのだろう。軍艦横丁のおでん屋に顔をつきこんでから、ひどく酔のまわったことを覚えている。それから後は、連が出来たらしく、誰かと一緒に飲んでまた飲みつづけた。大事を前にして、どうも不思議な自分の行動だった。酔いではなく、麻酔のようにも思う――と帆村は悔恨の体である。
富山駅では大勢の人が下りた。
帆村もぐらぐらする腰をあげて下りた。外へ出たがどうも気分がよくない。
とうとう思いきって駅前の交番へとびこんだ。甚だ気がひけるがあまり頑張っていて更に大きな失態をしては、事件の依頼主に対し相済まぬと思ったからである。
身分証明を見せると、詰所の警官は本署に電話をかけてくれた。間もなく栗山という刑事と、ほかに医師が一人、帆村を迎えにきた。
「これは麻痺剤のせいですよ。誰かに一服盛られましたね。すぐ注射をうちましょう」
医師は心得顔に、注射の用意にかかった。
「やっぱりそうか。あの山下とかいった男が、喰わせ者だったんだ」
瞼の間にのこるその山下とかいった酒の連こそ恐るべき人物だったのだ。生命に別条のなかったのは何よりだった。帆村は交番の奥の間に寝かされた。
栗山刑事が、帆村にかわって公会堂へ行ってくれた。そして彼のため書きうつしてきてくれたのは、上のような割り算であった。
[#ここから罫囲み]
[第八図]
8□3
_______
74□)□□□□□□
□□□2
―――――
□9□□
□74□
―――――
□□4□
□□□□
――――
0
(終)
[#ここで罫囲み終わり]
なお「終」という字が一字書きこんであるところを見ると割り算の宝さがしの旅は、この富山をもって終ったわけだった。
割り算を見ると、いよいよ答は最後の一桁まで出た。3という数字がたっている。そしてすっかり割り切れている。これでこの割り算は完結しているのだ。
帆村はうずく顳をおさえつつ、このノートに見入った。ここで急速に答を出さなければならない。六桁の被除数は、まだ第一数字しかわかっていないのだ。
「帆村さん。これをお飲みなさい」
医師はコップに熱い酒をついで帆村の枕もとへ持ってきてくれた。帆村が遠慮したいというと、医師は笑って、
「いや、これは土地での一番いい酒です。これをぐっとやると、かえって早く元気づきますよ」
帆村は、その親切な心の籠ったコップをとりあげながら、最後の解法にかかった。
[#ここから罫囲み]
[第九図]
ハ ヌ
↓ ↓
8X3
_______
749)6CDEFG
↑↑ 5992←ニ
イロ ―――――
K9LM
↑
ホ
N74P
↑↑
ヘト
―――――
チ
↓
QR4S
TUVW
――――
リ→0
[#ここで罫囲み終わり]
まずこれを第九図のように整理した。すぐ目につくのは、答の一の桁に現われた3と、除数の 749 とをかけると 2247 となることだ。つまり TUVW は 2247 である。うまく割り切れているところを見ると、Vは4でなければならぬが、この点もちゃんと合う。
従って QR4S も同じく 2247 となる。
また G=S=7 である。
さてその次はどれが決るか。
「これはおかしい」
帆村の顔が歪んだ。
[#ここから罫囲み]
[第十図]
8X3
_______
749)6CDEF7
5992
―――――
K9LM
N74P
―――――
2247
2247
――――
0
[#ここで罫囲み終わり]
ここまでは進んだが(第十図)――あとはどうもうまく決らない。帆村は苦しそうに呻りながら寝返りをうった。
「どうして解けないのだろうか。おれの頭はばかになったのか」
帆村は拳をかためると、自分の頭をガンとなぐった。
「駄目だ。解けない」
帆村は算術地獄におちこんだと思った。さもなければ、頭脳が麻痺してしまったのだ。ここまで解きながら、答が出ないとは何としたことであろう。はるばる富山まで来て、交番の奥の間に呻吟している自分が世界中で一番哀れなものに思われた。どうにでもなれ!
そのうちに酒が身体に廻ってきた。疲労の果か酒のせいか、彼はうとうとと睡りはじめた。
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