暗号の鍵
「やあ、どうもたいへん失礼なところへ御案内いたしまして――。でもこうでもしないと、私どもの官庁の重大事件を貴下にお願いしたことがどこへもすぐ知れ亙ってしまいますので」
と、情報部事務官木村清次郎氏は、初対面の挨拶のあとで、すぐと用談にとりかかった。
「――これは、政府の一大事に関する緊急な調査事件なんですが、もちろん絶対秘密を守っていただかねばなりません。御存知かもしれませんが、実は今有力なる反政府団体があって、大活躍を始めています。この秘密団体の本部は上海あたりにあると見え、その本部から毎日のごとく情報や指令が来ますが、その通信は秘密方式の無線電信であって、もちろん暗号を使っています。ですから普通の、受信機で受けようとしても、秘密方式だから、普通の受信機では入らない。その上、符号は暗号だから、たとえコピーが見つかってもその内容が解けない。こういう風に二重の秘密防禦を試みています。お解りですかな」
帆村は黙って肯いた。そんなことは先刻承知している。
木村事務官は語をついで、
「これは秘密ですから、どうかお間違いのないように。ところで問題は、その暗号解読の鍵なんです。それがどうも分らない」首をひねり、「送ってくる暗号文は六桁の数字式です。つまり、123456 といったような六桁の数字が、AとかBとかいう文字を示しているのです。ところがその六桁の数字は、そのままではいくら解いてみても分らない。つまりその暗号法では鍵となる別の六桁の数字があって、それを加えあわせてある。たとえばその鍵の数字が 330022 だったとすると、暗号文のどの数字にもこれが加えてある。だからAが 123456 であらわされるにしても、123456 として送っては来ないで、鍵の数字 330022 を加えた結果、すなわち 453478 として送ってくる。だからこの 453478 のままでは、途中で誰かが読んでもまるで本当の暗号 123456 を想起することができない。このように暗号には、鍵の数字というやつが大切なのですが――いや、お釈迦さまに説法のようで恐縮ですが――これがまた厄介なことに、一ヶ月ごとにひょいひょいと変る。今月 330022 だったとすると、来月の一日からは 787878 という風にがらりと変ってしまう。こうなると解読係はまったく泣かされてしまいます」
といって木村氏は、茶をのんだ。
料亭の人は二人の前に茶菓をおいたまま行ってしまった。こっちで呼ぶまで決して来ない、いいつけであった。
「解読係も腕達者を揃えてありますが、六桁の暗号数字から、鍵の数字を見つけるのになかなか骨が折れます。苦心の末やっと見つけたと思うと、もう月末になっていて、すぐ次の月が来る。そうなると、また新しい鍵の数字が入ってくるから、さあ一日以後は、向うの暗号が全く解けない。改めて鍵の数字の勉強をやりなおすというわけです。私としても、解読係員の苦労は常に心臓の上の重荷です」
と、木村事務官は深い溜息をついた。
帆村は、ただ黙々として肯く。木村氏の暗号に対する話の内容は、彼の持っている知識と完全に一致していたのである。
「そこで問題の鍵の数字ですが、もし月が変る前に、うまく発見ができるものなら、われわれにとってこれくらい有難いことはないわけです」
「なるほど」
「ねえ、そうでしょう。この暗号の鍵数字は、いつどんな風にして送ってくるのであろうかということにつきまして、もう長い間調べていましたが、極く最近になって、それがやっと分りかけたのです」
「ほほう、それは愉快ですね」
と帆村もようやく膝をのりだした。
「全く涙の滾れるほど嬉しいことです。私たちは、その暗号の鍵が、やはり無電にのってくるのかと思ったのですが、そうではない。秘密結社の本部では飽くまでも用意周到を極めています」
「ははあ」
「鍵の数字は、どうしてこっちの支社へ知らせてくるんだと思われますか」
「さあ――」
「実をいうと私たちにも、まだよく分っていない」
「それではどうも――」
「いや、しかし貴重な手懸りだけはやっと掴んだのです。見て下さい。これです」
そういって木村氏が帆村の眼の前に持ち出したのは、黒い折鞄であった。
折鞄のなかから現われたのは、一体なんであったろうか。それは四六倍判ぐらいの板であって、その上に大きな金色のペン先がとりつけてある。察するところペン先の広告看板なのであった。英国の或る有名なペン先製造会社の名が入っていた。そしてこの看板をぶらさげられるように、金具がうってあった。
「これは面白いものですね。しかしどうしてこれが暗号の鍵の数字に関係あるのか分りませんが」
と、帆村は首をふった。
「それは今説明します。立派な説明がつくのです。これをごらんなさい」
といって、木村氏は鞄の中から懐中電灯のような細長いものを出して、ペン先の看板の裏へかざした。
「さあ、いま私がこの紫外線灯のスイッチを押して、この裏板へ紫外線をあててみます。すると一見この何にも書いてないような板の上に実に興味あるものが現われますから」
木村氏が手にしていた細長い懐中電灯様のものは、紫外線灯だったのだ。帆村が感心しているとき、スイッチが入ったものと見えて、裏板がぱっと青く光った。見れば、それは文字の形になっているではないか――。
“
x=□□□□□□=74□×?”
“
ハ東京市銀座四丁目帝都百貨店洋酒部ノ「スコッチ・ウィスキー」ノ広告裏面。赤キ上衣ヲ着タル人物ノ鼻ノ頭に星印アリ”
と、愕くべきことが書いてあった。
車馬賃一万円也
帆村荘六は、木村事務官と別れて、いよいよ活動に入った。
ペン先の看板の裏に書かれた x=□□□□□□の□□□□□□こそ、探す暗号の鍵の数字であった。しかしいかなる数字であるか、はっきり記さず 74□×? と妙な書き方をして逃げてある。そしてこれをとして、あとはを探せというような書きっぷりであった。実に不思議なペン先の看板だ。
どうして木村事務官がこれを手に入れたかについて帆村は質問の矢を放ったが、事務官はその説明を拒絶した。そしてこんなことを云った。
「それを説明すると、私どもの役所が使っている重要な情報網の秘密を洩らすことになりますから勘弁してください。しかしこれは十分信憑すべきものであることを断言します。この□□□□□□は、来月の暗号の鍵数字であること疑いないのですが、肝腎の数字が入っていません。これは次のという場所、つまり銀座の帝都百貨店洋酒部にあるスコッチ・ウィスキーの広告をさがして、その裏を見て考えるよりほかないのですが、この仕事を貴下にお願いしたいのです。私どもがやってもやれなくないかもしれませんが、たびたび申すとおりに、それではすぐ彼等の方に分ってしまいます。そこは貴下を煩わした方が、巧みにカムフラージュにもなるし、またお手際も私どもより遥かに美事であろうと思うのです。どうか一つそのような事情をば御考慮の上、直ちに活動をはじめていただきたい。しかも絶対秘密です。それからもう一つ、お気の毒ですが、今日は二十六日で、あと五日で来月となります。ですからこの調査は、即時とりかかっていただきたい。そしてあらゆる手段を使って、一時間でも早く完了していただきたい。遅れてしまうと、政府にとってたいへんな損害ですから――それから云うまでもありませんが、十分身辺を警戒して下さい」
そういって木村事務官は、車馬賃として金一万円也の紙幣束を帆村に手渡したのであった。必要あらば、金はいくらでも出すからいってくれ、秘密連絡所として市内某所を記した名刺を手渡した。そこは普通の民家を装ってあるが、長距離電話もあれば、電信略号もあり、振替番号まで詳細に記載してあった。
帆村荘六は、この木村事務官との会見によって、珍らしいほどの大昂奮を覚えた。なかなか手剛い相手である。こっちへ送られて来た来月の暗号の鍵を、いかなる危険をおかしてもこの五日のうちに探しあてるのだ。非常にむずかしい仕事であることはよく分っている。従来の暗号でこのような数学みたいなものを出したものがあるのを聞いたことがない。骨が折れることは目に見えている。
「よし。どんなことをしても、この六桁の暗号の鍵を解かずには置くものか」
帆村は料亭を出ると、すぐさま公衆電話函に駈けこんで、大辻助手を電話口に呼びだした。こういう重大事項になると、大辻にも云い明かしかねたが、程よく大意を伝え、ここ五日ほど不在にする事務所の留守を、かねて云いつけて置いたとおりによくやるよう頼んだ。
「先生、僕を連れていって下さらないので心配です。しかしお伴がかなわないということでは仕方がありませんが、どうかくれぐれも身辺を御用心なすって下さい」
と、大辻助手はしきりに帆村の身の上を案じていた。
それからいよいよ帆村の活動が始まったのである。全くの一本立だった。自分の頭脳と腕力とが、只一つの資本だった。
上一页 [1] [2] [3] [4] [5] 下一页 尾页