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犬物語(いぬものがたり)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-23 16:01:44  点击:  切换到繁體中文


 小説家の文学者先生、荒尾角也この咄を聞くと大喜びで、何がて文学大好きの嬢様なれば文壇にたづさはる自分は必定御覚え目出たかるべしと早合点した。先生自作の小説を特に別仕立に装釘して恭やしく嬢様の御批評を仰ぎ奉ると出掛けた。すると恰も何かの雑誌に此小説の悪評が載つたのを嬢様はお人が悪いから素知らぬ顔して見せた。批評家ツてものは口が悪いの貴方あなたの作を浅薄だの軽浮けいふだのと失敬だワ。わたしは貴方の小説が一番好きよ、肩が張らなくツて読心よみごゝろが好いツと。嬢様は荒尾君の大傑作を※(「糸+褞のつくり」、第3水準1-90-18)どてらと間違へてらツしやると見える。それでも荒尾先生、御感ぎよかんを忝ふしたと心得て感涙にむせんで、今度は又堪らないものを作つた。何でも恋愛咄で暗に自分と嬢様の関係に擬したものださうだ。加之しかも其著作した理由いはれ因縁を仄めかして持つて来たから嬢様も呆れてお了ひなすつた。夫人おくさまも余り途方もないのに呆れ返つて馬鹿に附ける薬は無いと陰で仰しやつたとも当人知らずに其後是非とも御批評を願ひますと色好い返事を催促するつもりで手紙をよこした。ナア君、君等の方にもういふ白痴ばかがあるか此奴こいつは小説家でも屑の方だらう。嬢様も好い加減に思切らせないと這般かういふ奴が瘋癲きちがひになるのだと思召して、其次来た時に断然きつぱりと、世間が煩さう厶いますから当分お尋ねはお断り申します、其中お互に身がさだまりましたら改めて御交際を願ひませうと。荒尾先生、青菜に塩ですご/\と帰つたが、俺も其後姿を見送つた時は可哀相になつたよ。ソラ何とかいふ雑誌に見えた「失恋の歌」――あの新躰詩は此時作つたのださうだ。それでも何処までもお目出度いか解らないのは其新躰詩を矢張送つて来たよ。万一の御憐愍ごれんみんを願ふ意なんだらう。小説家といふものは斯うも未練なもんか。俺の方では一度取損とりそくなつたは二度と顧盻ふりむかんもんだ。イヤハヤ犬にだもかずといふべしだ。
 一番みじめで気の毒なは耶蘇の牧師の神野霜兵衛さんだ。此人は衣装なりつくらず外見みえも飾らずごく朴実律義で、存魂ぞつこん嬢様に思込んでゐたがちつとも媚諛こびへつらふ容子を見せなかつた。それだから嬢様も此の人ばかりには真面目に交際つきあつて少しもお調戯からかひなさらなかつたが、困つた事には好人物といふだけで、学問才幹共に時代遅れだ。十五世紀十六世紀頃なら相当な人物であつたかも知れないが、えつきす光線や無線電信の行はれる二十世紀には到底向かない男だ。併し有繋さすがに牧師さんだ。自分の恋が成就しないのを知つても更に人を怨まないで、只一図に嬢様の幸福を祈つてゐる。夫人おくさまも嬢様もこの人だけには安心して交際つて在らツしやるが、素振にも出さない心根を察して見ると気の毒になる。或る雑誌にをり/\述懐めいた随筆が出るが、いつぞや嬢様は読んで涙をこぼしてらしツたつけ。何でも才つたなく学浅くしてかたちさへ醜くき男が万づに勝れて賢き美はしき乙女にこがれてとても協はざる恋路にやつるゝ憐れさをかこつたものださうな。いつでも嬢様を尋ねるときはおもてに喜びの色輝やきて晴/\としてゐるが、その皮一重下にかくるゝ苦痛は如何ばかりぞと思ふと実に同情する。嬢様も此人の真摯まじめな偽りのない真情まごころには余程動かされて同情の涙をおそゝぎなすつたらしいが、実に御道理ごもつともだ。俺も外の奴には恐い顔をして随分啖付くらひつきさうな素振をして嚇かしたが、此正直な神野霜兵衛さんには何時でも尻尾しつぽを掉つて愛想をしたから、一度は麺包パンのお土産を頂戴したことがあつた。霜兵衛さんだけは感心なえらひとだ。自分の真情は既に嬢様に献げたから、自分は生涯妻を娶らず、永く独身ひとりみで清く送つて嬢様の安寧幸福を神に祈ると云つておるさうだ。ういふ心懸の人は珍らしい、俺は愛の何のといふ理窟は知らないが、人間様の男女の関係を見ると俺たち犬の同類と更に違はないのだ。唯だ法律といふ難かしい定規があつてよんどころなく親子兄弟姉妹あひかんせずにゐるが、アに犬や猫と五十歩百歩だ。何とかいふ人の発句ほつくとかに「羨まし思切る時猫の恋」といふのがあるさうだ。それ見ろ、猫や犬の方がまだ健気けなげな処がある。此牧師さんも内心はだ怪しいが、外見みかけだけは立派だ。無暗に豪傑振つて女を軽蔑したがるくせに高が売女ばいぢよの一びん一笑に喜憂して鼻の下を伸ばす先生方は、何方どつちかといふと却て女の翫弄物ぐわんろうぶつ。女に翫弄おもちやにされて女を翫弄にした気でゐるのが俺達には余程浅ましく見える。如何どうだい大将――女殺しを鼻のさき揺下ぶらさげる先生、一本参つたらう。
 伯爵鍋小路行平は正にういふ浅ましい連中の一人だ。御堂関白の孫大納言公時きんときから二十一世のえいさきの権中納言時鐘ときかねの子が即ち今の伯爵鍋小路黒澄くろすみ卿である。行平君はその嫡男ださうで、幼名を阿古屋丸あこやまると申上げたさうだ。之はいつぞや行平君が自慢らしく家系を嬢様に物語られたのを傍で聞いてゐたのだ。行平君は二十二三かナ。猶だ勉強盛りなのを中途で学校をやめて、(いゝや落第したのださうだ)、平凡へぼ文学者の煽動おだてに乗せられて自分は文学のパトロンとなるなどと高言しおらるゝさうだ。何しろ学問は打棄うつちやつて西鶴が※(「「公」から二画目を取る」、第4水準2-1-10)どうしたの其碩きせき※(「「公」から二画目を取る」、第4水準2-1-10)麼したの紅葉はえらいのさゞなみは感心だのと頻りに肩を入れられるさうナ。それも真面目なら貴族の道楽として芸妓げいしやを買うよりしだらうが、矢張浮気で妄想の恋愛小説を書いて見たいが山だから誠に困つたもんだ。処で二度か三度、今話した小説家の荒尾角也と一緒に嬢様を尋ねたら、一と目見てお誂へ通り恋風こひかぜジワ/\と身に染込んだ。元来いつたい荒尾が鍋小路どのをれて来たのは自分の理想の女神を見せびらかすつもりであつたのが、行平どの忽ち恍惚うつとりとして天にあらば比翼の鳥、地にあらば連理の枝と歌ひたくなつた。で、恋なればこそごとなき身を屈して平生ひごろの恩顧を思ふての美くしき姫を麿に周旋とりもちせいと荒尾先生に仰せられた。荒尾先生ほとほと閉口した。有繋さすが渠女あれは約束の妻とも云ひかねて当座のがれの安請合をしたが其後間もなく御当人が第一に失恋を歌ふやうになつてからはプイと何所どこへか隠れて了つた。行平どのは根が公卿育ちの芋の煮えたも御存じなきノホヽンだから今度は御自身毎日車に召して深草の百夜もゝよ通ひも物かはと中々な御熱心であつた。何しろ身分は伯爵の公達きんだちである。色白の上品なノツペリとした御容貌ごきりやうに加へて香水やらコスメチツクやら白粉おしろいやら有る程のおつくりをして、お扮装なりは羽二重づくめに金の時計、金の鎖、金の指環、まだ其上に腕車くるまやら自転車やらお馬やらお馬車やら折々はわざと手軽に甲斐々々しい洋服出立のお歩行ひろひで何から何まで一生懸命に憂身うきみやつされた。人間様の恋路の笑止をかしいのは鍋小路どので初めて承知して毎日顔を見る度に俺は腹筋はらすぢれたわい。尤も尊い御身分の方だから、お平の長芋ながいもなどゝ悪口が出さうだが、くお美くしい、お奇麗な若殿様だ。それに学問こそお出来にならぬさうだが、小説類は何でも読んでらツしやる。小説に関する御議論も中々あるらしいやうだ。荒尾君の作などはいつでも骨灰こつぱい軽蔑けなされる、お邸の書斎には沙翁シエークスピーアを初めヂツケンスやサツカレイの全集が飾つてあるさうな。たしか独乙文どいつぶんはお読めなさらぬ筈だがゲーテやシルレルの全集もあるさうな。イプセンもハウプトマンも流行のニーチヱもあるさうな。何か知らぬがだ/\金ピカ/\の本が大きな西洋書棚に一杯あるさうで、大抵な者は見たばかりでけむに巻かれるさうだ。其上に自転車と写真とは大の御自慢で自転車競争会や写真品評会の賛成員となつて居らるゝ。左に右く文明紳士として耻しからぬお方だ。併し色が生白なまつちらけて眉毛がチヨロけて眼尻が垂れ、ちつと失礼の云分だがやまと文庫の挿絵の槃特はんどくに何処かてゐた。第一いやな眼付をして生緩なまぬるくちかれるとぞうつと身震が出る。矢張佐渡の惚薬ほれぐすり効能きゝめで幅を利かせる方だから之で邸の嬢様を落さうと云ふは飛んでもない心得違ひだ。併し町人と違つて其処が大名育ちだからあなが金子かねで張らうといふさもしい考は無いやうだが、イヤモウ一生懸命に精々せつせと進物を運び込む。俺が覚えてるだけでも真珠を七箇なゝつめた領留針ブルーチ、無線七宝しちほう宝玉匣たまばこ、仏蘭西製の象牙骨の扇子、何とかといふ名高い絵工ゑかきの書いた十二ヶ月美人とかのでふれも其辺そこら勧工場くわんこうばで買へない高料たかい品を月に一遍位はきつと持つて来た。其間には香水だとか石鹸しやぼんだとか白粉だとか舶来の上等品は能く持つて来たよ。余り貰ひ過ぎるので夫人おくさまも嬢様も心配なすつたが、呉れるものを断るわけにも行かず、断はつたとて持つて呉れば無下に返すわけにも行かず、仕方がなしに美術会で名高い美術家の彫刻した銀製の紙莨たばこ入れを買つて御返礼に差上げた。すると鍋小路の若殿まるで結納の品でも貰つたやうに有頂天になつて其紙莨入れを片時へんじも離さず到る処に番町随一の美人から貰つたと吹聴して廻つたさうだ。偶然ふつと此咄が嬢様のお耳に入つたから、嬢様は吃驚びつくり遊ばして飛んでもない事をしたと後悔をなすつた。何でも之は出来ない相談をして足留あしどめ工風くふうをするにかずとお考へ遊ばして、無暗に呉れるが道楽の若殿だから一つ無心をしてやらうと思召し、今更に長良ながらの橋の鉋屑かんなくづ井手ゐでかはづの干したのも珍らしくないからと、行平殿のござつた時、モウシ若様、わたし従来これまで見た事の無いのは業平なりひら朝臣あそんの歌枕、松風まつかぜ村雨むらさめ汐汲桶しほくみをけ、ヘマムシ入道の袈裟法衣けさころも小豆あづき大納言の小倉をぐらの色紙、河童の抜いた尻子珠、狸が秘蔵の腹鼓、どれか一つ見せて下さいと嬢様が甘たれると、行平殿は頭を撫でつゝ麿が家には矢大臣左大臣どのの歌集の外には何も無いが一つ同族を聞き合して見やうと、此事がかなはないと恋路の綱が切れるやうに心配して帰つた。それからはパツタリ来なくなつて了つたが、何か詫状のやうな手紙をよこしたさうな。若様だけに可憐しほらしい愛度気あどけない処があるよ。

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