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竜潭譚(りゅうたんだん)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-23 11:00:47  点击:  切换到繁體中文



     あふとき

 わが思ふところたがはず、堂の前を左にめぐりて少しゆきたるつきあたりに小さき稲荷いなりやしろあり。青き旗、白き旗、二、三本その前に立ちて、うしろはただちに山のすそなる雑樹ぞうき斜めにひて、社の上をおおひたる、その下のをぐらきところあなの如き空地くうちなるをソとめくばせしき。ひとみは水のしたたるばかりななめにわが顔を見て動けるほどに、あきらかにその心ぞ読まれたる。
 さればいささかもためらはで、つかつかとやしろの裏をのぞき込む、鼻うつばかり冷たき風あり。落葉、朽葉くちばうずたかく水くさき土のにほひしたるのみ、人の気勢けはいもせで、えりもとのひややかなるに、と胸をつきて見返りたる、またたくまと思ふひとはハヤ見えざりき。何方いずかたにか去りけむ、暗くなりたり。
 身の毛よだちて、思はず※(「口+阿」、第4水準2-4-5)あなやと叫びぬ。
 人顔ひとがおのさだかならぬ時、暗きすみくべからず、たそがれの片隅には、怪しきものゐて人をまどはすと、姉上の教へしことあり。
 われは茫然ぼうぜんとしてまなこ※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みはりぬ。足ふるひたれば動きもならず、固くなりて立ちすくみたる、左手ゆんでに坂あり。穴の如く、その底よりは風の吹きづると思ふこく闇々あんあんたる坂下より、ものののぼるやうなれば、ここにあらば捕へられむと恐しく、とかうの思慮もなさでやしろの裏の狭きなかににげ入りつ。眼をふさぎ、呼吸いきをころしてひそみたるに、四足よつあしのものの歩むけはひして、社の前を横ぎりたり。
 われは人心地ひとごこちもあらで見られじとのみひたすら手足を縮めつ。さるにてもさきのひとのうつくしかりし顔、やさしかりし眼を忘れず。ここをわれに教へしを、今にして思へばかくれたるどものありかにあらで、何らか恐しきもののわれを捕へむとするを、ここにひそめ、助かるべしとて、導きしにはあらずやなど、はかなきことを考へぬ。しばらくして小提灯こぢようちん火影ほかげあかきが坂下より急ぎのぼりて彼方かなたに走るを見つ。ほどなく引返ひつかえしてわがひそみたるやしろの前に近づきし時は、一人ならず二人三人ふたりみたり連立つれだちてきたりし感あり。
 あたかもその立留たちどまりし折から、別なる跫音あしおと、また坂をのぼりてさきのものと落合おちあひたり。
「おいおい分らないか。」
「ふしぎだな、なんでもこの辺で見たといふものがあるんだが。」
 とあとよりいひたるはわがいえにつかひたる下男の声に似たるに、あはやでむとせしが、恐しきもののはたばかりて、おびきいだすにやあらむと恐しさはひとしほ増しぬ。
「もう一度念のためだ、田圃たんぼの方でも廻つて見よう、お前も頼む。」
「それでは。」といひて上下うえしたにばらばらと分れてく。
 再びせきとしたれば、ソと身うごきして、足をのべ、板めに手をかけて眼ばかりと思ふ顔少し差出さしいだして、かたをうかがふに、何ごともあらざりければ、やや落着おちつきたり。あやしきものども、何とてやはわれをみいだし得む、おろかなる、とひややかに笑ひしに、思ひがけず、たれならむたまぎる声して、あわてふためきぐるがありき。驚きてまたひそみぬ。
「ちさとや、ちさとや。」と坂下あたり、かなしげにわれを呼ぶは、姉上の声なりき。

     大沼おおぬま

「ゐないツてわたしあどうしよう、じいや。」
「根ツからゐさつしやらぬことはござりますまいが、日は暮れまする。何せい、御心配なこんでござります。お前様まえさま遊びに出します時、帯のむすびめをとんとたたいてやらつしやればいに。」
「ああ、いつもはさうして出してやるのだけれど、けふはお前私にかくれてそツと出て行つたろうではないかねえ。」
「それはハヤ不念ぶねんなこんだ。帯のむすびめさへたたいときや、何がそれで姉様なり、母様おふくろさまなりのたましいが入るもんだでエテめはどうすることもしえないでごす。」
「さうねえ。」とものかなしげに語らひつつ、やしろの前をよこぎりたまへり。
 走りいでしが、あまりおそかりき。
 いかなればわれ姉上をまであやしみたる。
 ゆれど及ばず、かなたなる境内けいだいの鳥居のあたりまで追ひかけたれど、早やその姿は見えざりき。
 涙ぐみてたたずむ時、ふと見る銀杏いちようの木のくらき夜の空に、おおいなるまるき影して茂れる下に、女の後姿うしろすがたありてわがまなこさえぎりたり。
 あまりよく似たれば、姉上と呼ばむとせしが、よしなきものに声かけて、なまじひにわが此処ここにあるを知られむは、つたなきわざなればと思ひてやみぬ。
 とばかりありて、その姿またかくれ去りつ。見えずなればなほなつかしく、たとへ恐しきものなればとて、かりにもわがやさしき姉上の姿にしたる上は、われを捕へてむごからむや。さきなるはさもなくて、いま幻に見えたるがまことその人なりけむもわかざるを、何とてことばはかけざりしと、打泣うちなきしが、かひもあらず。
 あはれさまざまのもののあやしきは、すべてわがまなこのいかにかせし作用なるべし、さらずば涙にくもりしや、すべこそありけれ、かなたなる御手洗みたらしにて清めてみばやと寄りぬ。
 すすけたる行燈あんどうの横長きが一つ上にかかりて、ほととぎすのと句など書いたり。をともしたるに、水はよくみて、青きこけむしたる石鉢いしばちの底もあきらかなり。手にむすばむとしてうつむく時、思ひかけず見たるわが顔はそもそもいかなるものぞ。覚えず叫びしが心をめて、気をしずめて、両のまなこぬぐひ拭ひ、水にのぞむ。
 われにもあらでまたとは見るに忍びぬを、いかでわれかかるべき、必ず心の迷へるならむ、今こそ、今こそとわななきながら見直したる、肩をとらへて声ふるはし、
「お、お、千里ちさと。ええも、お前は。」と姉上ののたまふに、すがりつかまくみかへりたる、わが顔を見たまひしが、
「あれ!」
 といひて一足すさりて、
「違つてたよ、坊や。」とのみいひずてにせ去りたまへり。
 あやしき神のさまざまのことしてなぶるわと、あまりのことに腹立たしく、あしずりして泣きに泣きつつ、ひたばしりに追いかけぬ。捕へて何をかなさむとせし、そはわれ知らず。ひたすらものの口惜くちおしければ、とにかくもならばとてなむ。
 坂もおりたり、のぼりたり、大路おおみちと覚しき町にもでたり、暗きこみち辿たどりたり、野もよこぎりぬ。あぜも越えぬ。あとをも見ずて駈けたりし。
 道いかばかりなりけむ、漫々たる水面やみのなかに銀河の如くよこたはりて、黒き、恐しき森四方をかこめる、大沼おおぬまとも覚しきが、前途ゆくてふさぐと覚ゆるあしの葉の繁きがなかにわが身体からだ倒れたる、あとは知らず。

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