七
「ゴロロロロ、」
と濁った、太い、変に地響きのする声がした、――不思議は無い。猫が鳴いた事は、誰の耳にも聞えたが、場合が場合で、一同が言合わせたごとく、その四角な、大きな、真暗な穴の、遥かな底は、上野天王寺の森の黒雲が灰色の空に浸んで湧上る、窓を見た。
フト寂しい顔をしたのもあるし、苦笑いをしたのもあり、中にはピクリと肩を動かした人もあった。
「三輪ちゃん、内の猫かい。」
民弥は、その途端に、ひたと身を寄せたお三輪に訊ねた。……遠慮をしながら、成たけこの男の傍に居て、先刻から人々の談話の、凄く可恐い処というと、密と縋り縋り聞いていたのである。
「いいえ、内の猫は、この間死にました。」
「死んだ?」
「ええ、どこの猫でしょう……近所のは、皆たま(猫の名)のお友達で、私は声を知ってるんですけれど……可厭な声ね。きっと野良猫よ。」
それと極っては、内所の飼猫でも、遊女の秘蔵でも、遣手の懐児でも、町内の三毛、斑でも、何のと引手茶屋の娘の勢。お三輪は気軽に衝と立って、襟脚を白々と、結綿の赤い手絡を障子の桟へ浮出したように窓を覗いた。
「遁げてよ。もう居やしませんわ。」
一人の婦人が、はらはらと後毛のかかった顔で、
「姉さん。」
「はーい、」と、呼ばれたのを嬉しそうな返事をする。
「閉めていらっしゃいな。」
で、蓮葉にぴたり。
後に話合うと、階下へ用達しになど、座を起って通る時、その窓の前へ行くと、希代にヒヤリとして風が冷い。処で、何心なく障子をスーツと閉めて行く、……帰りがけに見るとさらりと開いている。が、誰もそこへ坐るのでは無いから、そのままにして座に戻る。また別人が立つ、やっぱりぞっとするから閉めて行く、帰りがけにはちゃんと開けてあった。それを見た人は色々で、細目の時もあり、七八分目の時もあり、開放しの時もあった、と言う。
さて、そのときまでは、言ったごとく、陽気立って、何が出ても、ものが身に染むとまでには至らなかったが、物語の猫が物干の声になってから、各自言合わせたように、膝が固まった。
時々灰吹の音も、一ツ鉦のようにカーンと鳴って、寂然と耳に着く。……
気合が更まると、畳もかっと広くなって、向合い、隣同士、ばらばらと開けて、間が隔るように思われるので、なおひしひしと額を寄せる。
「消そうか、」
「大人気ないが面白い。」
ここで電燈が消えたのである。――
「案外身に染みて参りました。人数の多過ぎなせいもありましょう。わざと灯を消したり、行燈に変えたりしますと、どうもちと趣向めいて、バッタリ機巧を遣るようで一向潮が乗りません。
前の向島の大連の時で、その経験がありますから、今夜は一番、明晃々とさして、どうせ顕れるものなら真昼間おいでなさい、明白で可い、と皆さんとも申合せていましたっけ。
いや、こうなると、やっぱり暗い方が配合が可うございます、身が入りますぜ、これから。」
と言う、幹事雑貨店主の冴えた声が、キヤキヤと刻込んで、響いて聞えて、声を聞く内だけ、その鼻の隆い、痩せて面長なのが薄ら蒼く、頬のげっそりと影の黒いのが、ぶよぶよとした出処の定かならぬ、他愛の無い明に映って、ちょっとでも句が切れると、はたと顔も見えぬほどになったのである。
八
灯は水道尻のその瓦斯と、もう二ツ――一ツは、この二階から斜違な、京町の向う角の大きな青楼の三階の、真角一ツ目の小座敷の障子を二枚両方へ明放した裡に、青い、が、べっとりした蚊帳を釣って、行燈がある、それで。――夜目には縁も欄干も物色われず、ただその映出した処だけは、たとえば行燈の枠の剥げたのが、朱塗であろう……と思われるほど定かに分る。……そこが仄明いだけ、大空の雲の黒さが、此方に絞った幕の上を、底知れぬ暗夜にする。……が、廓が寂れて、遠く衣紋坂あたりを一つ行く俥の音の、それも次第に近くはならず、途中の電信の柱があると、母衣が凧。引掛りそうに便なく響が切れて行く光景なれば、のべの蝴蝶が飛びそうな媚かしさは無く、荒廃したる不夜城の壁の崩れから、菜畠になった部屋が露出しで、怪しげな朧月めく。その行燈の枕許に、有ろう? 朱羅宇の長煙管が、蛇になって動きそうに、蓬々と、曠野に![※(「彳+淌のつくり」、第3水準1-84-33)](http://www.aozora.gr.jp/gaiji/1-84/1-84-33.png)
う夜の気勢。地蔵堂に釣った紙帳より、かえって侘しき草の閨かな。
風の死んだ、寂とした夜で、あたかも宙に拡げたような、蚊帳のその裙が、そよりと戦ぐともしないのに、この座の人の動くに連れて、屋の棟とともに、すっと浮いて上ったり、ずうと行燈と一所に、沈んで下ったりする。
もう一つは同じ向側の、これは低い、幕の下に懸って、真暗な門へ、奥の方から幽かに明の漏れるのが、戸の格子の目も疎に映って、灰色に軒下の土間を茫と這うて、白い暖簾の断れたのを泥に塗らした趣がある。それと二つである。
その家は、表をずッと引込んだ処に、城の櫓のような屋根が、雲の中に陰気に黒い。両隣は引手茶屋で、それは既に、先刻中引けが過ぎる頃、伸上って蔀を下ろしたり、仲の町の前後を見て戸を閉めたり、揃って、家並は残らず音も無いこの夜更の空を、地に引く腰張の暗い板となった。
時々、海老屋の大時計の面が、時間の筋を畝らして、幽な稲妻に閃めき出るのみ。二階で便る深夜の光は、瓦斯を合わせて、ただその三つの灯となる。
中のどれかが、折々気紛れの鳥影の映すように、飜然と幕へ附着いては、一同の姿を、種々に描き出す。……
時しもありけれ、魯智深が、大なる挽臼のごとき、五分刈頭を、天井にぐるりと廻して、
「佐川さんや、」
と顔は見えず……その天井の影が動く。話の切目で、咳の音も途絶えた時で、ひょいと見ると誰の目にも、上にぼんやりと映る、その影が口を利くかと思われる。従って、声もがッと太く渦巻く。
「変に静まりましたな、もって来いという間の時じゃ、何ぞお話し下さらんか。宵からまだ、貴下に限って、一ツも凄いのが出ませんでな、所望ですわ。」
成程、民弥は聞くばかりで、まだ一題も話さなかった。
「差当り心当りが無いものですから、」
とその声も暗さを辿って、
「皆さんが実によく、種々な可恐いのを御存じです。……確にお聞きになったり、また現に逢ったり見たりなすっておいでになります。
私は、又聞きに聞いたのだの、本で読んだのぐらいな処で、それも拵えものらしいのが多いんですから、差出てお話するほどのがありません。生憎……ッても可笑いんですが、ざらある人魂だって、自分で見た事はありませんでね。怪い光物といっては、鼠が啣え出した鱈の切身が、台所でぽたぽたと黄色く光ったのを見て吃驚したくらいなものです。お話にはなりません。
けれども、嬉しがって一人で聞かしてばかり頂いていたんでは、余り勝手過ぎます。申訳が無いようですから、詰らない事ですが、一つ、お話し申しましょうか。
日の暮合いに、今日、現に、此家へ参ります途中でした。」
九
「可恐い事、ちょっと、可恐くって。」
と例の美しい若い声が身近に聞えて、ぞっとするように袖を窄めた気勢がある。
「私に附着いていらっしゃい。」と蘭子が傍で、香水の優しい薫。
「いや、下らないんですよ、」
と、慌てたように民弥は急いで断って、
「ちと薄気味でも悪いようだと、御愛嬌になるんだけれど……何にも彼にも、一向要領を得ないんです、……時にだね、三輪ちゃん。」
とちと更まって呼んだ時に、皆が目を灌ぐと、どの灯か、仏壇に消忘れたようなのが幽に入って、スーと民弥のその居直った姿を映す。……これは生帷の五ツ紋に、白麻の襟を襲ねて、袴を着でいた。――あたかもその日、繋がる縁者の葬式を見送って、その脚で廻ったそうで、時節柄の礼服で宵から同じ着附けが、この時際立って、一人、舞台へ出たように目に留まった。麻は冷たい、さっくりとして膚にも着かず、肩肱は凜々しく武張ったが、中背で痩せたのが、薄ら寒そうな扮装、襟を引合わせているので物優しいのに、細面で色が白い。座中では男の中の第一年下の二十七で、少々しいのも気の弱そうに見えるのが、今夜の会には打ってつけたような野辺送りの帰りと云う。
気のせいか、沈んで、悄れて見える処へ、打撞かったその冷い紋着で、水際の立ったのが、薄りと一人浮出したのであるから、今その呼懸けたお三輪さえ、声に応じて、結綿の綺麗な姿が、可恐そうな、可憐な風情で、並んでそこへ、呼出されたように、座上の胸に描かれた。
「つかん事を聞くがね、どこかこの近所で、今夜あたりお産をしそうな人はあるまいか。」
と妙な事を沈んで聞く。
「今夜……ですか。」とお三輪はきっぱり聞返す。
「……そうだね、今夜、と極まった事も無いけれど、この頃にさ、そういう家がありやしないかい。」
「嬰児が生れる許?」
「そうさ、」
「この近所、……そうね。」
せっかく聞かされたものを、あれば可いが、と思う容子で、しばらくして、
「無いわ、ちっと離れていては悪くって、江戸町辺。」
「そこらにあるかい。」
と気を入れる。
「無い事よ、――やっぱり、」とうっかりしたように澄まして言う。
「何だい、詰らない。」
と民弥は低声に笑を漏らした。
「ちょいと、階下へ行って、才ちゃんに聞いて来ましょうか。」
「…………」
「ええ、兄さん、」
と遣ったが、フト黙って、
「私、聞いて来ましょう、先生。」
「何、可い、それには及ばんのだよ。……いいえ、少しね、心当りな事があるもんだから、そらね。」
と斜になって、俯向いて幕張の裾から透かした、ト酔覚のように、顔の色が蒼白い。
「向うに、暗く明の点いた家が一軒あるだろう……近所は皆閉っていて。」
「はあ、お医者様のならび、あすこは寮よ……」
「そうだ、公園近だね。あすこへ時々客では無い、町内の人らしいのが、引過ぎになってもちょいちょい出たり入ったりするから、少しその心当りの事もあるし、……何も夜中の人出入りが、お産とは極らないけれど、その事でね。もしかすると、そうではあるまいか、と思ったからさ。何だか余り合点み過ぎたようで妙だったね。」
十
「それに何だか、明も陰気だし、人の出入りも、ばたばたして……病人でもありそうな様子だったもんだから。」
と言って、その明を俯向いて見透かす、民弥の顔にまた陰気な影が映した。
「でもね、当りましたわ、先生、やっぱり病人があるのよ。それでもって、寝ないでいるの、お通夜をして……」
「お通夜?」
と一人、縁に寄った隅の方から、声を懸けた人がある。
「あの……」
「夜伽じゃないか。」と民弥が引取る。
「ああ、そうよ。私は昨夜も、お通夜だってそう言って、才ちゃんに叱られました。……その夜伽なのよ。」
「病人は……女郎衆かい。」
「そうじゃないの。」
とついまたものいいが蓮葉になって、
「照吉さんです、知ってるでしょう。」
民弥は何か曖昧な声をして、
「私は知らないがね、」
けれども一座の多人数は、皆耳を欹てた。――彼は聞えた妓である――中には民弥の知らないという、その訳をさえ、よく心得たものがある。その梅次と照吉とは、待宵と後朝[#ルビの「きぬぎぬ」は底本では「きねぎぬ」]、と対に廓で唄われた、仲の町の芸者であった。
お三輪はサソクに心着いたか、急に声も低くなって、
「芸者です、今じゃ、あの、一番綺麗な人なんです、芸も可いの。可哀相だわ、大変に塩梅が悪くって。それだもんですから、内は角町の水菓子屋で、出ているのは清川(引手茶屋)なんですけれど、どちらも狭いし、それに、こんな処でしょう、落着いて養生も出来ないからって……ここでも大切な姉さんだわ。ですから皆で心配して、海老屋でもしんせつにそう云ってね、四五日前から、寮で大事にしているんですよ。」
「そうかい、ちっとも知らなかった。」と民弥はうっかりしたように言う。
「夜伽をするんじゃ、大分悪いな。」と子爵が向うから声を懸けた。
「ええ、不可いんですって、もうむずかしいの。」
とお三輪は口惜しそうに、打附けて言ったのである。
「何の病気かね。」
と言う、魯智深の頭は、この時も天井で大きく動いた。
「何んですか、性がちっとも知れないんですって。」
民弥は待構えてでもいたように、
「お医師は廓のなんだろう、……そう言っちゃ悪いけれど。」
「いいえ、立派な国手も綱曳でいらっしゃったんですの。でもね、ちっとも分りませんとさ。そしてね、照吉さんが、病気になった最初っから、なぜですか、もうちゃんと覚悟をして、清川を出て寮へ引移るのにも、手廻りのものを、きちんと片附けて、この春から記けるようにしたっちゃ、威張っていた、小遣帳の、あの、蜜豆とした処なんか、棒を引いたんですってね。才ちゃんはそう言って、話して、笑いながら、ほろほろ涙を落すのよ。
いつ煩っても、ごまかして薬をのんだ事のない人が、その癖、あの、……今度ばかりは、掻巻に凭懸っていて、お猪口を頂いて飲むんだわ。それがなお心細いんだって、皆そう云うの。
私も、あの、手に持って飲まして来ます。
(三輪ちゃん、さようなら。)って俯向くんです、……枕にこぼれて束ね切れないの、私はね、櫛を抜いて密と解かしたのよ……雲脂なんかちっとも無いの、するする綺麗ですわ、そして煩ってから余計に殖えたようよ……髪ばかり長くなって、段々命が縮むんだわねえ。――兄さん、」
と、話に実が入るとつい忘れる。
「可哀相よ。そして、いつでもそうなの、見舞に行くたんびに(さようなら)……」
上一页 [1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] ... 下一页 >> 尾页