二十六
「奴は勝ほこった体で、毛筋も動かぬその硝子面を、穴蔵の底に光る朽木のように、仇艶を放ってしながら、
(な、けれども、殿、殿たちは上を庇わしゃろうで、懇申した効に、たってとはよう言わぬ。選まっしゃれ、選んで指さっしゃれ、それを奪ろう。……奪ろう。……それを奪ろう! やいの、殿。)
と捲し掛けて、
(ここには見えぬ、なれども、殿たちの妻、子、親、縁者、奴婢、指さっしゃれば、たちどころに奪って見しょう。)
と言語道断な事を。
とはたはたと廂の幕が揺動いて、そのなぐれが、向う三階の蚊帳を煽った、その時、雨を持った風が颯と吹いた。
(また……我を、と名告らっしゃれ……殿、殿ならば殿を奪ろう。)
(勝手にしろ、馬鹿な。)
と唾吐くように、忌々しそうに打棄って、子爵は、くるりと戸外を向いた。
(随意にしょうでは気迷うぞいの、はて?……)
とその面はつけたりで、畳込んだ腹の底で声が出る。
(さて……どれもどれも好ましい。やあ、天井、屋の棟にのさばる和郎等! どれが望みじゃ。やいの、)
と心持仰向くと、不意に何と……がらがら、どど、がッと鼠か鼬だろう、蛇も交るか、凄じく次の室を駆けて荒廻ると、ばらばらばらばらと合せ目を透いて埃が落ちる。
(うむ、や、和郎等。埃を浴びせた、その埃のかかったものが欲いと言うかの――望みかいの。)
ばたばた、はらはらと、さあ、情ない、口惜いが、袖や袂を払いた音。
(やれ羽打つ、へへへ、小鳥のように羽掻を煽つ、雑魚のように刎ねる、へへ。……さて、騒ぐまい、今がはそで無い。そうでは無いげじゃ。どの玩弄物欲しい、と私が問うたでの、前へ悦喜の雀躍じゃ、……這奴等、騒ぐまい、まだ早い。殿たち名告らずば、やがて、選ろう、選取りに私が選って奪ろう!)
(勝手にして、早く退座をなさい、余りといえば怪しからん。無礼だ、引取れ。)
と子爵が喝した、叱ったんだ。
(催促をせずと可うござる。)
と澄まし返って、いかにも年寄くさく口の裡で言った、と思うと、
(やあ、)
と不意に調子を上げた。ものを呼びつけたようだっけ。幽に一つ、カアと聞えて、またたく間に、水道尻から三ツのその灯の上へかけて、棟近い処で、二三羽、四五羽、烏が啼いた、可厭な声だ。
(カアカアカア――)
と婆々が遣ったが、嘴も尖ったか、と思う、その黒い唇から、正真の烏の声を出して、
(カアカア来しゃれえ! 火の車で。)
と喚く、トタンに、吉原八町、寂として、廓の、地の、真中の底から、ただ一ツ、カラカラと湧上ったような車の音。陰々と響いて、――あけ方早帰りの客かも知れぬ――空へ舞上ったように思うと、凄い音がして、ばッさりと何か物干の上へ落ちた。
(何だ!)
と言うと、猛然として、ずんと立って、堪えられぬ……で、地響で、琴の師匠がずかずかと行って、物干を覗いたっけ。
裸脱ぎの背に汗を垂々と流したのが、灯で幽に、首を暗夜へ突込むようにして、
(おお、稲妻が天王寺の森を走る、……何じゃ、これは、烏の死骸をどうするんじゃい。)と引掴んで来て、しかも癪に障った様子で、婆々の前へ敲きつけた。
あ、弱った。……
その臭気といったらない。
皆、ただ呼吸を詰めた。
婆々が、ずらずらとその蛆の出そうな烏の死骸を、膝の前へ、蒼い頤の下へ引附けた。」
二十七
「で、頭を下げて、熟と見ながら、
(蠅よ、蠅よ、蒼蠅よ。一つ腸の中を出され、ボーンと。――やあ、殿、上たち、私がの、今ここを引取るついでに、蒼蠅を一ツ申そう。ボーンと飛んで、額、頸首、背、手足、殿たちの身体にボーンと留まる、それを所望じゃ。物干へ抜いて、大空へ奪って帰ろう。名告らしゃれ。蠅がたからば名告らしゃれ。名告らぬと卑怯なぞ。人間は卑怯なものと思うぞよ。笑うぞよ……可いか、蒼蠅を忘れまい。
蠅よ、蠅よ、蒼蠅よ、ボーンと出され、おじゃった! おお!)
一座残らず、残念ながら動揺めいた。
トふわりと起ったが、その烏の死骸をぶら下げ、言おうようの無い悪臭を放って、一寸、二寸、一尺ずつ、ずるずると引いた裾が、長く畳を摺ったと思うと、はらりと触ったかして、燭台が、ばったり倒れた。
その時、捻向いて、くなくなと首を垂れると、摺った後褄を、あの真黒な嘴で、ぐい、と啣えて上げた、と思え。……鳥のような、獣のような異体な黄色い脚を、ぬい、と端折った、傍若無人で。
(ボーン、ボーン、ボーン、)と云うのが、ねばねばと、重っくるしく、納豆の糸を引くように、そして、点々と切れて、蒼蠅の羽音やら、奴の声やら分らぬ。
そのまま、ふわりとして、飜然と上った。物干の暗黒へ影も隠れる。
(あれ。)
と真前に言ったはお三輪で。
(わ、)とまた言った人がある。
さあ、膝で摺る、足で退く、ばたばたと二階の口まで駆出したが、
(ええ)と引返したは誰だっけ。……蠅が背後から縋ったらしい。
物干から、
(やあ、小鳥のように羽打つ、雑魚のように刎ねる。はて、笑止じゃの。名告れ、名告らぬか、さても卑怯な。やいの、殿たち。上たち。へへへ、人間ども。ボーン、ボーン、ボーン、あれ、それそれ転ぶわ、めるわ、這うわ。とまったか、たかったか。誰じゃ、名告れ、名告らぬか、名告れ。……ボーン、)
と云う時、稲妻が閃めいて、遠い山を見るように天王寺の森が映った。
皆ただ、蠅の音がただ、雷のように人々の耳に響いた。
ただ一縮みになった時、
(ほう、)
と心着いたように、物干のその声が、
(京から人が帰ったような。早や夜もしらむ。さらば、身代りの婦を奪ろう!……も一つ他にもある。両の袂で持重ろう。あとは背負うても、抱いても荷じゃ。やあ、殿、上たち、此方衆にはただ遊うだじゃいの。道すがら懇申した戯じゃ。安堵さっしゃれ、蠅は掌へ、ハタと掴んだ。
さるにても卑怯なの、は、は、は、梅干で朝の茶まいれ、さらばじゃ。)
ばっと屋上を飛ぶ音がした。
フッと見ると、夜が白んで、浅葱になった向うの蚊帳へ、大きな影がさしたっけ。けたたましい悲鳴が聞えて、白地の浴衣を、扱帯も蹴出しも、だらだらと血だらけの婦の姿が、蚊帳の目が裂けて出る、と行燈が真赤になって、蒼い細い顔が、黒髪を被りながら黒雲の中へ、ばったり倒れた。
ト車軸を流す雨になる。
電燈が点いたが、もうその色は白かった。
婆々の言った、両の袂の一つであろう、無理心中で女郎が一人。――
戸を開ける音、閉める音。人影が燈籠のように、三階で立騒いだ。
照吉は……」
と民弥は言って、愁然とすると、梅次も察して、ほろりと泣く。
「ああ、その弟ばかりじゃない、皆の身代りになってくれたように思う。」
明治四十四(一九一一)年三月
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