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湯島の境内(ゆしまのけいだい)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-23 10:53:49  点击:  切换到繁體中文

 
早瀬 いから、何を買ったんだよ。
お蔦 見せましょうか、叱らない?
早瀬 …………
お蔦 叱ったって、もう買ったんだから構わない、(風呂敷より紙づつみを出す)髷形まげがたよ、円髷まるまげの。仲町に評判な内があるんですわ。
早瀬 髷形を、お蔦。(思わずそのつつみに手を掛く)おれ位牌いはいでも買やいのに。
お蔦 まあ、お位牌はちゃんと飾って、貴方のおふた親に、お気に入らないかも知れないけれど、私ゃ、私ばかりは嫁の気で、届かぬながら、朝晩おもりをしていますわ。
早瀬 樹から落ちた俺の身体からだだ。……優しい嫁の孝行で、はじめて戒名が出来たくらいだ。俺は勘当されたッて。……何をお前、両親がお前に不足があるものか。――位牌と云うのは俺の位牌だ。――
お蔦 ええ。
早瀬 お蔦、もう俺ゃ死んだ気になって、お前に話したい事がある。
お蔦 (聞くとひとしくあわただしく両手にて両方の耳をおおう。)
早瀬 ちょっと、もう一度掛けてくれ。
お蔦 (ものも言わず、頭をふる。)
早瀬 よ。(と胸に手を当て、おそうとして、火に触れたるがごとく、ツト手を引く)死ぬ気になって、と聞いたばかりで、動悸どうきはどうだ、震えている。稲妻を浴びせたように……可哀相かわいそうに……チョッいっそ二人で巡礼でも。……いやいや先生に誓った上は。――ええ、俺は困った。どうしよう。(倒るるがごとくベンチにうつむく。)
お蔦 (見て、優しく擦寄る)聞かして下さい、聞かして下さい、私ゃ心配で身体からだがすくむ。(とせわしく)早く聞かして下さいな。(としずかに云う。)
早瀬 俺が死んだと思って聞けよ。
お蔦 可厭いや。(はげしく再び耳をおさう)何を聞くのか知らないけれど、貴下あなたこの二三日の様子じゃ、雷様より私は可恐こわいよ。
早瀬 (肩に手を置く)やあ、ほんとに、わなわな震えて。
お蔦 ええ、たとい弱くッて震えても、貴方の身替りに死ねとでも云うんなら、喜んで聞いてあげます。貴方が死んだつもりだなんて、私ゃ死ぬまで聞きませんよ。
早瀬 おお、お前も殺さん、俺も死なない、が聞いてくれ。
お蔦 そんなら、……でも、可恐こわいから、目をふさいで。
早瀬 お蔦。
お蔦 …………
早瀬 俺とこれッきり別れるんだ。
お蔦 ええ。
早瀬 思切って別れてくれ。
お蔦 早瀬さん。
早瀬 …………
お蔦 串戯じょうだんじゃ、――貴方、なさそうねえ。
早瀬 洒落しゃれや串戯で、こ、こんな事が。俺は夢になれと思っている。
※(歌記号、1-3-28)跡には二人さしあいも、涙ぬぐうて三千歳が、恨めしそうに顔を見て、
お蔦 ほんとうなのねえ。
早瀬 俺があやまる、頭を下げるよ。
お蔦 切れるの別れるのッて、そんな事は、芸者の時に云うものよ。……私にゃ死ねと云って下さい。蔦には枯れろ、とおっしゃいましな。
ツンとしてそがいになる。
早瀬 お蔦、お蔦、俺は決して薄情じゃない。
お蔦 ええ、薄情とは思いません。
早瀬 誓ってお前をきはしない。
お蔦 ええ、厭かれてたまるもんですか。
早瀬 こっちを向いて、まあ、聞きなよ。ほかに何もふさぐ事はない、この二三日、顔を色をあやしまれる、屈託はこの事だ。今も言おう、この時言おう、口へ出そうと思っても、朝、目をさませば俺より前に、台所だいどころでおかかを掻く音、夜寝る時は俺よりあとに、あかりの下で針仕事。心配そうに煙管きせるいて、考えると見ればおかずの献立、味噌漉みそこしで豆腐を買う後姿を見るにつけ、位牌の前へお茶湯ちゃとうして、合せる手を見るにつけ、咽喉のどを切っても、胸を裂いても、唇を破っても、分れてくれとは言えなかった。先刻さっきも先刻、今も今、優しいこと、嬉しいこと、可愛いことを聞くにつけ、云おう云おうと胸を衝くのは、罪も報いも無いものを背後うしろからだましうちに、岩か玄翁げんのうでその身体からだを打砕くような思いがして、俺は冷汗に血が交った。な、こんなおもいをするんだもの、よくせきな事だと断念あきらめて、きれると承知をしてくんな。……お前に、そんなにねられては、俺はきてる空はない。
お蔦 ですから、死ねとおっしゃいよ。切れろ、別れろ、と云うから可厭いやなの。死ねなら、あい、と云いますわ。私ゃ生命いのちおしくはない。
早瀬 さあ、その生命に、俺の生命を、二つ合せても足りないほどな、大事な方を知っているか。お前が神仏かみほとけを念ずるにも、まず第一に拝むと云った、その言葉が嘘でなければ、言わずとも分るだろう。そのお方のいいつけなんだ。
お蔦 (消ゆるがごとく崩折くずおれる)ええ、それじゃ、貴方の心でなく、別れろ、とおっしゃるのは、真砂町の先生の。(と茫然ぼうぜんとす。)
早瀬 おれは死ぬにも死なれない。(身をもだゆ。)
お蔦 (はっと泣いて、早瀬にすがる。)
※(歌記号、1-3-28)一日逢わねば、千日の思いにわたしゃ煩うて、針や薬のしるしさえ、なきの涙に紙濡らし、枕を結ぶ夢さめて、いとど思いのますかがみ。
この間に、早瀬、ベンチを立つ、お蔦縋るようにあとにつき、双方涙の目に月を仰ぎながらしずかにベンチを一周す。お蔦さきに腰を落し、立てる早瀬のたもとを控う。
お蔦 あきらめられない、もう一度、泣いてお膝に縋っても、是非もしようもないのでしょうか。
早瀬 実は柏家かしわやの奥座敷で、胸に匕首あいくちを刺されるような、御意見をこうむった。小芳こよしさんも、あおくなって涙を流して、とりなしてくんなすったが、たとい泣いても縋っても、こがれじにをしても構わん、おれの命令だ、とおっしゃってな、二の句は続かん、小芳さんも、俺も畳へ倒れたよ。
お蔦 (やや気色けしきばむ)まあ、死んでも構わないと、あの、ええ、死ぬまいとお思いなすって、……小芳さんの生命いのちを懸けた、わけしりでいて、水臭い、芸者のまことを御存じない! 私死にます、柳橋の蔦吉は男にこがれて死んで見せるわ。
早瀬 これ、飛んでもない、お前は、血相変えて、勿体もったいない、意地で先生にたてを突く気か。俺がさせない。待て、落着いて聞けと云うに!――死んでも構わないとおっしゃったのは、先生だけれど、……お前と切れる、女を棄てます、と誓ったのは、この俺だが、どうするえ。
お蔦 貴方をどうするって、そんな無理なことばッかり、情があるなら、実があるなら、先生のそうおっしゃった時、なぜ推返おしかえして出来ないまでも、私の心を、先生におっしゃってみては下さいません。
早瀬 血を吐く思いで俺も云った。小芳さんも、そばで聞く俺がきまりの悪いほど、お前の心を取次いでくれたけれど、――四の五の云うな、一も二もない――俺を棄てるか、おんなを棄てるか、さあ、どうだ――と胸つきつけて言われたには、何とも返す言葉がなかった。今もって、いや、尽未来際じんみらいざい、俺は何とも、ほかに言うべき言葉を知らん。
お蔦 (間)ああ、分りました。それで、あの、その時に、お前さん、女を棄てます、と云ったんだわね。
早瀬 堪忍しておくれ、済まない、が、たしかに誓った。
お蔦 よく、おっしゃった、男ですわ。女房の私も嬉しい。早瀬さん、男は……それで立ちました。
早瀬 立つも立たぬも、お前一つだ。じゃ肯分ききわけてくれるんだね。
お蔦 肯分けないでどうしましょう。
早瀬 それじゃ別れてくれるんだな。
お蔦 ですけれど……やっぱり私の早瀬さん、それだからなお未練が出るじゃありませんか。
早瀬 また、そんな無理を言う。
お蔦 どッちが、無理だと思うんですよ。
早瀬 じゃお前、私がこれだけ事を分けて頼むのに、肯入れちゃくれんのかい。
お蔦 いいえ。
早瀬 それじゃ一言、清く別れると云ってくんなよ。
お蔦 …………
早瀬 ええ、お蔦。(あせる。)
お蔦 いいますよ。(きれぎれに且つ涙)別れる切れると云う前に、夫婦で、も一度顔が見たい。(胸にすがって、顔を見合わす。)
※(歌記号、1-3-28)見る度ごとに面痩おもやせて、どうせながらえいられねば、殺して行ってくださんせ。
お蔦 見納めかねえ――それじゃ、お別れ申します。
早瀬 (涙を払い、気を替う)さあ、ここに金子かねがある、……下すったんだ、受取っておいておくれ。(渡す。)
お蔦 (取るとひとしく)手切れかい、失礼な、(となげうたんとして、腕のえたるさま)あの、先生が下すったんですか。
早瀬 まだ借金も残っていよう、当座の小使いにもするように、とお心づけ下すったんだ。
お蔦 (しおしおと押頂く)こうした時の気が乱れて、勿体ない事をしようとした、そんなら私、わざと頂いておきますよ。(と帯に納めて、落したる髷形まげがたの包に目を注ぐ。じっと泣きつつ拾取って砂を払う)も、荷になってなぜか重い。打棄うっちゃって行きたいけれど、それではねるに当るから。
早瀬 で、お前はどうする。
お蔦 私より貴方は……そうね、お源坊が実体じっていに働きますから、当分我慢が出来ましょう。私……もう、やがて、船の胡瓜きゅうりも出るし、お前さんの好きなお香々こうこうをおいしくして食べさせてめられようと思ったけれど、……ああ何も言うのも愚痴ぐちらしい。あの、それよりか、お前さんは私にばかり我ままを云う癖に、遠慮深くって女中にも用はいいつけ得ないんだもの。……これからはね、思うように用をさして、不自由をなさいますな。……寝冷ねびえをしては不可いけませんよ。私、山百合を買って来て、早く咲くのを見ようと思って、つぼみを吹いて、ふくらましていたんですよ、水をって下さいな……それから。
早瀬 (うつむいてうなずいてのみいる、たまりかねて)俺も世帯を持っちゃいないよ。お前にわかれて、何の洒落しゃれに。
お蔦 まあ、どうして。
早瀬 それでなくッてさえ、掏賊すりの同類だ、あいずりだと、新聞ではやされて、そこらに、のめのめ居られるものか。長屋はぬけて、静岡へ駈落かけおちだ。少し考えた事もあるし、当分引込ひっこんでいようと思う。
お蔦 遠いわねえ。静岡ッて箱根のもッと先ですか。貴方がここに待っていて、石段を下りたばかりでさえ、気がいてならなかったに、またいつ、お目にかかれるやら。(と膝にうつむく。)
早瀬 お蔦、お前は、それだから案じられる。忘れても一人でなんぞ、江戸の土を離れるな。静岡は箱根より遠いかは心細い。……ああ、親はなし、兄弟はなし、伯父叔母というものもなし、俺ばっかりをたよりにしたのに、せめて、従兄妹いとこが一人ありゃ、俺は、こんな思いはしやしない!……よう、お蔦、そしてお前は当分どうするつもりだ。
お蔦 (顔を上ぐ)貴方こそ、水がわり、たべものに気をつけて下さいよ。私の事はそんなに案じないがうござんす。小児こどもの時から髪を結うのが好きで、商売をやめてから、御存じの通り、銀杏返いちょうがえしなら人の手はかりませんし、お源の島田の真似もします。慰みに、おしゃくさんの桃割ももわれなんか、お世辞にもめられました。めの字のかみさんが幸い髪結かみゆいをしていますから、八丁堀へ世話になって、梳手すきてに使ってもらいますわ。
早瀬 すき手にかい。
お蔦 ええ、修業をして。……貴方よりさきへ死ぬまで、人さんの髪をましょう。私は尼になった気で、(風呂敷を髪にあねさんかぶりす)円髷まるまげって見せたかったけれど、いっそこの方が似合うでしょう。
早瀬 (そのかぶりものを、引手繰ひったぐってつつと立つ)さあ、一所に帰ろう。
お蔦 (外套を羽織らせながら)あの……今夜は内へ帰ってもいの。
早瀬 よく、肯分ききわけた、お蔦、それじゃ、すぐに、とぼとぼと八丁堀へ行く気だったか。
お蔦 ええ、そうよ。……じゃ、もう一度、雀にえさが遣れるのね、よく馴染なじんで、※(「木+靈」、第3水準1-86-29)子窓れんじまどの中まで来て、可愛いッたらないんですもの。……これまで別れるのは辛かったわ。
早瀬 何も言わん。さあ、せめて、かえりに、好きな我儘わがままを云っておくれ。
お蔦 (猶予ためらいつつ)手をいて。
※(歌記号、1-3-28)いえど此方こなたは水鳥の浮寝の床の水離れ、よしあし原をたちかぬれば、
この間に早瀬手を取る、お蔦振返る早瀬もともに、ふりかえり伏拝む。
さてかんとして、お蔦と一方に身を離す。
早瀬 どこへ行く。
お蔦 一人々々両側へ、別れたあとの心持を、しみじみ思って歩行あるいてみますわ。
早瀬 (うなずく。舞台を左右へ。)
お蔦 でも、もう我慢がし切れなくなって、私もしか倒れたら、けつけて下さいよ。
早瀬 (頷く。)
お蔦 切通しを帰るんだわね、おもいを切って通すんでなく、身体からだを裂いて分れるような。
早瀬 (頷く。)
お蔦しおしおときかかり、胸のいたみをおさえて立留たちどる、早瀬ハッと向合う。両方おもてを見合わす。
※(歌記号、1-3-28)に寒山のかなしみも、かくやとばかりふる雪に、積る……
幕外へ。
※(歌記号、1-3-28)思いぞ残しける。
男は足早に、女はしずかに。
――幕――
大正三(一九一四)年十月




 



底本:「泉鏡花集成7」ちくま文庫、筑摩書房
   1995(平成7)年12月4日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集」岩波書店
   1942(昭和17)年7月刊行開始
入力:門田裕志
校正:林 幸雄
2002年2月12日公開
2005年9月26日修正
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