さるほどに、山又山、上れば峰は益累り、頂は愈々聳えて、見渡せば、見渡せば、此處ばかり日の本を、雪が封ずる光景かな。
幸に風が無く、雪路に譬ひ山中でも、然までには寒くない、踏みしめるに力の入るだけ、却つて汗するばかりであつたが、裾も袂も硬ばるやうに、ぞつと寒さが身に迫ると、山々の影がさして、忽ち暮なむとする景色。あはよく峠に戸を鎖した一軒の山家の軒に辿り着いた。
さて奧樣、目當にいたして參つたは此の小家、忰は武生に勞働に行つて居り、留守は山の主のやうな、爺と婆二人ぐらし、此處にお泊りとなさいまし、戸を叩いてあけさせませう。また彼方此方五六軒立場茶屋もござりますが、美しい貴女さま、唯お一人、預けまして、安心なは、此の外にござりませぬ。武生の富藏が受合ひました、何にしろお泊んなすつて、今夜の樣子を御覽じまし。此の雪の止むか止まぬかが勝負でござります。もし留みませぬと、迚も路は通じません、降やんでくれさへすれば、雪車の出ます便宜もあります、御存じでもありませうが、此の邊では、雪籠といつて、山の中で一夜の内に、不意に雪に會ひますると、時節の來るまで何方へも出られぬことになりますから、私は稼人、家に四五人も抱へて居ります、萬に一つも、もし、然やうな目に逢ひますると、媽々や小兒が
を釣らねばなりませぬで、此の上お供は出來かねまする。お別れといたしまして、其處らの茶店をあけさせて、茶碗酒をぎうとあふり、其の勢で、暗雲に、とんぼを切つて轉げるまでも、今日の内に麓まで歸ります、とこれから雪の伏家を叩くと、老人夫婦が出迎へて、富藏に仔細を聞くと、お可哀相のいひつゞけ。
行先が案じられて、我にもあらずしよんぼりと、門に彳んで入りもやらぬ、媚しい最明寺殿を、手を採つて招じ入れて、舁据ゑるやうに圍爐裏の前。
お前まあ些と休んでと、深切にほだされて、懷しさうに民子がいふのを、いゝえ、さうしては居られませぬ、お荷物は此處へ、もし御遠慮はござりませぬ、足を投出して、裾の方からお温りなされませ、忘れても無理な路はなされますな。それぢやとつさん頼んだぜ、婆さん、いたはつて上げてくんなせい。
富藏さんとやら、といつて、民子は思はず涙ぐむ。
へい、奧さま御機嫌よう、へい、又通りがかりにも、お供の御病人に氣をつけます。あゝ、いかい難儀をして、おいでなさるさきの旦那樣も御大病さうな、唯の時なら橋の上も、欄干の方は避けてお通りなさらうのに、おいたはしい。お天道樣、何分お頼み申しますぜ、やあお天道樣といや降ることは/\。
あとに頼むは老人夫婦、之が又、補陀落山から假にこゝへ、庵を結んで、南無大悲民子のために觀世音。
其の情で、饑ゑず、凍えず、然も安心して寢床に入ることが出來た。
佗しさは、食べるものも、着るものも、こゝに斷るまでもない、薄い蒲團も、眞心には暖く、殊に些は便りにならうと、故と佛間の佛壇の前に、枕を置いてくれたのである。
心靜に枕には就いたが、民子は何うして眠られよう、晝の疲勞を覺ゆるにつけても、思ひ遣らるゝ後の旅。
更け行く閨に聲もなく、凉しい目ばかりぱち/\させて、鐘の音も聞えぬのを、徒に指を折る、寂々とした板戸の外に、ばさりと物音。
民子は樹を辷つた雪のかたまりであらうと思つた。
しばらくして又ばさりと障つた、恁る時、恁る山家に雪の夜半、此の音に恐氣だつた、婦人氣はどんなであらう。
富藏は疑はないでも、老夫婦の心は分つて居ても、孤家である、この孤家なる言は、昔語にも、お伽話にも、淨瑠璃にも、ものの本にも、年紀今年二十になるまで、民子の耳に入つた響きに、一ツとして、悲慘悽愴の趣を今爰に囁き告ぐる、材料でないのはない。
呼吸を詰めて、なほ鈴のやうな瞳を凝せば、薄暗い行燈の灯の外、壁も襖も天井も暗りでないものはなく、雪に眩めいた目には一しほで、ほのかに白いは我とわが、俤に立つ頬の邊を、確乎とおさへて枕ながら幽にわなゝく小指であつた。
あなわびし、うたてくもかゝる際に、小用がたしたくなつたのである。
もし。ふるへ聲で又、
もし/\と、二聲三聲呼んで見たが、目ざとい老人も寐入ばな、分けて、罪も屈託も、山も町も何にもないから、雪の夜に靜まり返つて一層寐心の好ささうに、鼾も聞えずひツそりして居る。
堪りかねて、民子は密と起き直つたが、世話になる身の遠慮深く、氣味が惡いぐらゐには家のぬし起されず、其まゝ突臥して居たけれども、さてあるべきにあらざれば、恐々行燈を引提げて、勝手は寢しなに聞いて置いた、縁側について出ようとすると、途絶えて居たのが、ばたりと當ツて、二三度續けさまにばさ、ばさ、ばさ。
はツと唾をのみ、胸を反して退つたが、やがて思切つて用を達して出るまでは、まづ何事もなかつた處。
手を洗はうとする時は、民子は殺されると思つたのである。
雨戸を一枚ツト開けると、直ちに、東西南北へ五里十里の眞白な山であるから。
如何なることがあらうも知れずと、目を瞑つて、行燈をうしろに差置き、わなゝき/\柄杓を取つて、埋もれた雪を拂ひながら、カチリとあたる水を灌いで、投げるやうに放したトタン、颯とばかり雪をまいて、ばつさり飛込んだ一個の怪物。
民子は思はずあツといつた。
夫婦はこれに刎起きたが、左右から民子を圍つて、三人六の目を注ぐと、小暗き方に蹲つたのは、何ものかこれ唯一羽の雁なのである。
老人は口をあいて笑ひ、いや珍しくもない、まゝあること、俄の雪に降籠められると、朋に離れ、塒に迷ひ、行方を失ひ、食に饑ゑて、却つて人に懷き寄る、これは獵師も憐んで、生命を取らず、稗、粟を與へて養ふ習と、仔細を聞けば、所謂窮鳥懷に入つたるもの。
翌日も降り止まず、民子は心も心ならねど、神佛とも思はるゝ老の言に逆らはず、二日三日は宿を重ねた。
其夜の雁も立去らず、餌にかはれた飼鳥のやう、よくなつき、分けて民子に慕ひ寄つて、膳の傍に羽を休めるやうになると、はじめに生命がけ恐しく思ひしだけ、可愛さは一入なり。つれ/″\には名を呼んで、翼を撫でもし、膝に抱きもし、頬もあて、夜は衾に懷を開いて、暖い玉の乳房の間に嘴を置かせて、すや/\と寐ることさへあつたが、一夜、凄じき寒威を覺えた。あけると凍てて雪車が出る、直に發足。
老人夫婦に別を告げつつ、民子は雁にも殘惜しいまで不便であつたなごりを惜んだ。
神の使であつたらう、この鳥がないと、民子は夫にも逢へず、其の看護も出來ず、且つやがて大尉に昇進した少尉の榮を見ることもならず、與曾平の喜顏にも、再會することが出來なかつたのである。
民子をのせて出た雪車は、路を辷つて、十三谷といふ難所を、大切な客ばかりを千尋の谷底へ振り落した、雪ゆゑ怪我はなかつたが、落込んだのは炭燒の小屋の中。
五助。
權九郎。
といふ、兩名の炭燒が、同一雪籠に會つて封じ込められたやうになり、二日三日は貯蓄もあつたが、四日目から、粟一粒も口にしないで、熊の如き荒漢等、山狗かとばかり痩せ衰へ、目を光らせて、舌を噛んで、背中合せに倒れたまゝ、唸く聲さへ幽な處、何、人間なりとて容赦すべき。
帶を解き、衣を剥ぎ、板戸の上に縛めた、其のありさまは、こゝに謂ふまい。立處其の手足を炙るべく、炎々たる炭火を熾して、やがて、猛獸を拒ぐ用意の、山刀と斧を揮つて、あはや、其胸を開かむとなしたる處へ、神の御手の翼を擴げて、其膝、其手、其肩、其脛、狂ひまつはり、搦まつて、民子の膚を蔽うたのは、鳥ながらも心ありけむ、民子の雪車のあとを慕うて、大空を渡つて來た雁であつた。
瞬く間に、雁は炭燒に屠られたが、民子は微傷も受けないで、完き璧の泰らかに雪の膚は繩から拔けた。
渠等は敢て鬼ではない、食を得たれば人心地になつて、恰も可し、谷間から、いたはつて、負つて世に出た。
●表記について
- このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。
- 「くの字点」は「/\」で、「濁点付きくの字点」は「/″\」で表しました。
- 「くの字点」をのぞくJIS X 0213にある文字は、画像化して埋め込みました。
- 傍点や圏点、傍線の付いた文字は、強調表示にしました。
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