路に太郎稻荷あり、奉納の手拭堂を蔽ふ、小き鳥居夥多し。此處彼處露地の日あたりに手習草紙を干したるが到る處に見ゆ、最もしをらし。それより待乳山の聖天に詣づ。
本堂に額き果てて、衝と立ちて階の方に歩み出でたるは、年紀はやう/\二十ばかりと覺しき美人、眉を拂ひ、鐵漿をつけたり。前垂がけの半纏着、跣足に駒下駄を穿かむとして、階下につい居る下足番の親仁の伸をする手に、一寸握らせ行く。親仁は高々と押戴き、毎度何うも、といふ。境内の敷石の上を行きつ戻りつ、別にお百度を踏み居るは男女二人なり。女は年紀四十ばかり。黒縮緬の一ツ紋の羽織を着て足袋跣足、男は盲縞の腹掛、股引、彩ある七福神の模樣を織りたる丈長き刺子を着たり。これは素跣足、入交ひになり、引違ひ、立交りて二人とも傍目も觸らず。おい邪魔になると惡いよと北八を促し、道を開いて、見晴に上る。名にし負ふ今戸あたり、船は水の上を音もせず、人の家の瓦屋根の間を行交ふ樣手に取るばかり。水も青く天も青し。白帆あちこち、處々煙突の煙たなびけり、振さけ見れば雲もなきに、傍には大樹蒼空を蔽ひて物ぐらく、呪の釘もあるべき幹なり。おなじ臺に向顱巻したる子守女三人あり。身體を搖り、下駄にて板敷を踏鳴らす音おどろ/\し。其まゝ渡場を志す、石段の中途にて行逢ひしは、日傘さしたる、十二ばかりの友禪縮緬、踊子か。
振返れば聖天の森、待乳沈んで梢乘込む三谷堀は、此處だ、此處だ、と今戸の渡に至る。
出ますよ、さあ早く/\。彌次舷端にしがみついてしやがむ。北八悠然とパイレートをくゆらす。乘合十四五人、最後に腕車を乘せる。船少し右へ傾く、はツと思ふと少し蒼くなる。丁と棹をつく、ゆらりと漕出す。
船頭さん、渡場で一番川幅の廣いのは何處だい。先づ此處だね。何町位あるねといふ。唾乾きて齒の根も合はず、煙管は出したが手が震へる。北八は、にやり/\、中流に至る頃ひ一錢蒸汽の餘波來る、ぴツたり突伏して了ふ。危えといふは船頭の聲、ヒヤアと肝を冷す。圖らざりき、急かずに/\と二の句を續けるのを聞いて、目を開けば向島なり。それより百花園に遊ぶ。黄昏たり。
萩暮れて薄まばゆき夕日かな
言ひつくすべくもあらず、秋草の種々數ふべくもあらじかし。北八が此作の如きは、園内に散ばつたる石碑短册の句と一般、難澁千萬に存ずるなり。
床几に休ひ打眺むれば、客幾組、高帽の天窓、羽織の肩、紫の袖、紅の裙、薄に見え、萩に隱れ、刈萱に搦み、葛に絡ひ、芙蓉にそよぎ、靡き亂れ、花を出づる人、花に入る人、花をめぐる人、皆此花より生れ出でて、立去りあへず、舞ひありく、人の蝶とも謂ひつべう。
などと落雁を噛つて居る。處へ! 供を二人つれて、車夫體の壯佼にでつぷりと肥えた親仁の、唇がべろ/\として無花果の裂けたる如き、眦の下れる、頬の肉掴むほどあるのを負はして、六十有餘の媼、身の丈拔群にして、眼鋭く鼻の上の皺に惡相を刻み齒の揃へる水々しきが、小紋縮緬のりうたる着附、金時計をさげて、片手に裳をつまみ上げ、さすがに茶澁の出た脛に、淺葱縮緬を搦ませながら、片手に銀の鎖を握り、これに渦毛の斑の艷々しき狆を繋いで、ぐい/\と手綱のやうに捌いて來しが、太い聲して、何うぢや未だ歩行くか、と言ふ/\人も無げにさつさつと縱横に濶歩する。人に負はして連れた親仁は、腰の拔けたる夫なるべし。驚破秋草に、あやかしのついて候ぞ、と身構したるほどこそあれ、安下宿の娘と書生として、出來合らしき夫婦の來りしが、當歳ばかりの嬰兒を、男が、小手のやうに白シヤツを鎧へる手に、高々と抱いて、大童。それ鼬の道を切る時押して進めば禍あり、山に櫛の落ちたる時、之を避けざれば身を損ふ。兩頭の蛇を見たるものは死し、路に小兒を抱いた亭主を見れば、壽長からずとしてある也。ああ情ない目を見せられる、鶴龜々々と北八と共に寒くなる。人の難儀も構はばこそ、瓢箪棚の下に陣取りて、坊やは何處だ、母ちやんには、見えないよう、あばよといへ、ほら此處だ、ほらほらはゝはゝゝおほゝゝと高笑。弓矢八幡もう堪らぬ。よい/\の、犬の、婆の、金時計の、淺葱の褌の、其上に、子抱の亭主と來た日には、こりや何時までも見せられたら、目が眩まうも知れぬぞと、あたふた百花園を遁げて出る。
白髯の土手へ上るが疾いか、さあ助からぬぞ。二人乘、小官員と見えた御夫婦が合乘也。ソレを猜みは仕らじ。妬きはいたさじ、何とも申さじ。然りながら、然りながら、同一く子持でこれが又、野郎が膝にぞ抱いたりける。
わツといつて駈け拔けて、後をも見ずに五六町、彌次さん、北八、と顏を見合はせ、互に無事を祝し合ひ、まあ、ともかくも橋を越さう、腹も丁度北山だ、筑波おろしも寒うなつたと、急足になつて來る。言問の曲角で、天道是か非か、又一組、之は又念入な、旦那樣は洋服の高帽子で、而して若樣をお抱き遊ばし、奧樣は深張の蝙蝠傘澄して押並ぶ後から、はれやれお乳の人がついて手ぶらなり。えゝ! 日本といふ國は、男が子を抱いて歩行く處か、もう叶はぬこりやならぬ。殺さば殺せ、とべツたり尻餅。
旦那お相乘參りませう、と折よく來懸つた二人乘に這ふやうにして二人乘込み、淺草まで急いでくんな。安い料理屋で縁起直しに一杯飮む。此處で電燈がついて夕飯を認め、やゝ人心地になる。小庭を隔てた奧座敷で男女打交りのひそ/\話、本所も、あの餘り奧の方ぢやあ私厭アよ、と若い聲の媚めかしさ。旦那業平橋の邊が可うございますよ。おほゝ、と老けた聲の恐しさ。圍者の相談とおぼしけれど、懲りて詮議に及ばず。まだ此方が助りさうだと一笑しつゝ歸途に就く。噫此行、氷川の宮を拜するより、谷中を過ぎ、根岸を歩行き、土手より今戸に出で、向島に至り、淺草を經て歸る。半日の散策、神祇あり、釋教あり、戀あり、無常あり、景あり、人あり、從うて又情あり、錢の少きをいかにせむ。
明治三十二年十二月
●表記について
- このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。
- 「くの字点」は「/\」で、「濁点付きくの字点」は「/″\」で表しました。
- 傍点や圏点、傍線の付いた文字は、強調表示にしました。
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