鏡花全集 巻二十七 |
岩波書店 |
1942(昭和17)年10月20日 |
1988(平成10)年11月2日第3刷 |
今は然る憂慮なし。大塚より氷川へ下りる、たら/\坂は、恰も芳野世經氏宅の門について曲る、昔は辻斬ありたり。こゝに幽靈坂、猫又坂、くらがり坂など謂ふあり、好事の士は尋ぬべし。田圃には赤蜻蛉、案山子、鳴子などいづれも風情なり。天麗かにして其幽靈坂の樹立の中に鳥の聲す。句になるね、と知つた振をして聲を懸くれば、何か心得たる樣子にて同行の北八は腕組をして少時默る。
氷川神社を石段の下にて拜み、此宮と植物園の竹藪との間の坂を上りて原町へ懸れり。路の彼方に名代の護謨製造所のあるあり。職人眞黒になつて働く。護謨の匂面を打つ。通り拔ければ木犀の薫高き横町なり。これより白山の裏に出でて、天外君の竹垣の前に至るまでは我々之を間道と稱へて、夜は犬の吠ゆる難處なり。件の垣根を差覗きて、をぢさん居るか、と聲を懸ける。黄菊を活けたる床の間の見透さるゝ書齋に聲あり、居る/\と。
やがて着流し懷手にて、冷さうな縁側に立顯れ、莞爾として曰く、何處へ。あゝ北八の野郎とそこいらまで。まあ、お入り。いづれ、と言つて分れ、大乘寺の坂を上り、駒込に出づ。
料理屋萬金の前を左へ折れて眞直に、追分を右に見て、むかうへ千駄木に至る。
路に門あり、門内兩側に小松をならべ植ゑて、奧深く住へる家なり。主人は、巣鴨邊の學校の教授にて知つた人。北八を顧みて、日曜でないから留守だけれども、氣の利いた小間使が居るぜ、一寸寄つて茶を呑まうかと笑ふ。およしよ、と苦い顏をする。即ちよして、團子坂に赴く。坂の上の煙草屋にて北八嗜む處のパイレートを購ふ。勿論身錢なり。此の舶來煙草此邊には未だ之れあり。但し濕つて味可ならず。
坂の下は、左右の植木屋、屋外に足場を設け、半纏着の若衆蛛手に搦んで、造菊の支度最中なりけり。行く/\フと古道具屋の前に立つ。彌次見て曰く、茶棚はあんなのが可いな。入らつしやいまし、と四十恰好の、人柄なる女房奧より出で、坐して慇懃に挨拶する。南無三聞えたかとぎよつとする。爰に於てか北八大膽に、おかみさん彼の茶棚はいくら。皆寒竹でございます、はい、お品が宜しうございます、五圓六十錢に願ひたう存じます。兩人顏を見合せて思入あり。北八心得たる顏はすれども、さすがにどぎまぎして言はむと欲する處を知らず、おかみさん歸にするよ。唯々。お邪魔でしたと兄さんは旨いものなり。虎口を免れたる顏色の、何うだ、北八恐入つたか。餘計な口を利くもんぢやないよ。
思ひ懸けず又露地の口に、抱餘る松の大木を筒切にせしよと思ふ、張子の恐しき腕一本、荷車に積置いたり。追て、大江山はこれでござい、入らはい/\と言ふなるべし。
笠森稻荷のあたりを通る。路傍のとある駄菓子屋の奧より、中形の浴衣に繻子の帶だらしなく、島田、襟白粉、襷がけなるが、緋褌を蹴返し、ばた/\と駈けて出で、一寸、煮豆屋さん/\。手には小皿を持ちたり。四五軒行過ぎたる威勢の善き煮豆屋、振返りて、よう!と言ふ。
そら又化性のものだと、急足に谷中に着く。いつも變らぬ景色ながら、腕と島田におびえし擧句の、心細さいはむ方なし。
森の下の徑を行けば、土濡れ、落葉濕れり。白張の提灯に、薄き日影さすも物淋し。苔蒸し、樒枯れたる墓に、門のみいかめしきもはかなしや。印の石も青きあり、白きあり、質滑にして斑のあるあり。あるが中に神婢と書いたるなにがしの女が耶蘇教徒の十字形の塚は、法の路に迷ひやせむ、異國の人の、友なきかと哀深し。
竹の埒結ひたる中に、三四人土をほり居るあたりにて、路も分らずなりしが、洋服着たる坊ちやん二人、學校の戻と見ゆるがつか/\と通るに頼母しくなりて、後をつけ、やがて木の間に立つ湯氣を見れば掛茶屋なりけり。
休ましておくれ、と腰をかけて一息つく。大分お暖でございますと、婆は銅の大藥罐の茶をくれる。床几の下に俵を敷けるに、犬の子一匹、其日の朝より目の見ゆるものの由、漸と食づきましたとて、老年の餘念もなげなり。折から子を背に、御新造一人、片手に蝙蝠傘をさして、片手に風車をまはして見せながら、此の前を通り行きぬ。あすこが踏切だ、徐々出懸けようと、茶店を辭す。
何うだ北八、線路の傍の彼の森が鶯花園だよ、畫に描いた天女は賣藥の廣告だ、そんなものに、見愡れるな。おつと、また其古道具屋は高さうだぜ、お辭儀をされると六ヶしいぞ。いや、何か申す内に、ハヤこれは笹の雪に着いて候が、三時すぎにて店はしまひ、交番の角について曲る。この流に人集ひ葱を洗へり。葱の香の小川に流れ、とばかりにて句にはならざりしが、あゝ、もうちつとで思ふこといはぬは腹ふくるゝ業よといへば、いま一足早かりせば、笹の雪が賣切にて腹ふくれぬ事よといふ。さあ、じぶくらずに、歩行いた/\。
一寸伺ひます。此路を眞直に參りますと、左樣三河島と、路を行く人に教へられて、おや/\と、引返し、白壁の見ゆる土藏をあてに他の畦を突切るに、ちよろ/\水のある中に紫の花の咲いたる草あり。綺麗といひて見返勝、のんきにうしろ歩行をすれば、得ならぬ臭、細き道を、肥料室の挾撃なり。目を眠つて吶喊す。既にして三島神社の角なり。
亡なつた一葉女史が、たけくらべといふ本に、狂氣街道といつたのは是から前ださうだ、うつかりするな、恐しいよ、と固く北八を警戒す。
やあ汚え溝だ。恐しい石灰だ。酷い道だ。三階があるぜ、浴衣ばかしの土用干か、夜具の裏が眞赤な、何だ棧橋が突立つてら。叱! 默つて/\と、目くばせして、衣紋坂より土手に出でしが、幸ひ神田の伯父に逢はず、客待の車と、烈しい人通の眞晝間、露店の白い西瓜、埃だらけの金鍔燒、おでんの屋臺の中を拔けて柳の下をさつ/\と行く。實は土手の道哲に結縁して艷福を祈らばやと存ぜしが、まともに西日を受けたれば、顏がほてつて我慢ならず、土手を行くこと纔にして、日蔭の田町へ遁げて下りて、さあ、よし。北八大丈夫だ、と立直つて悠然となる。此邊小ぢんまりとしたる商賣の軒ならび、しもたやと見るは、産婆、人相見、お手紙したゝめ處なり。一軒、煮染屋の前に立ちて、買物をして居た中年増の大丸髷、紙あまた積んだる腕車を推して、小僧三人向うより來懸りしが、私語して曰く、見ねえ、年明だと。
[1] [2] 下一页 尾页