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薬草取(やくそうとり)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-23 10:45:40  点击:  切换到繁體中文



       四

馬士まごにも、荷担夫にかつぎにも、畑打はたうつ人にも、三にんにんぐらいずつ、村一つ越しては川沿かわぞい堤防どてへ出るごとに逢ったですが、みんなただ立停たちどまって、じろじろ見送ったばかり、言葉を懸ける者はなかったです。これは熨斗目のしめ紋着振袖もんつきふりそでという、田舎にめずらしい異形いぎょう扮装なりだったから、不思議な若殿、迂濶うかつに物も言えないと考えたか、真昼間まっぴるま、狐が化けた? とでも思ったでしょう。それとも本人逆上返のぼせかえって、何を言われても耳に入らなかったのかもわからんですよ。
 ふとその渡場わたしばの手前で、背後うしろから始めて呼び留めた親仁おやじがあります。にいや、にいやと太い調子。
 私は仰向あおむいて見ました。
 ずんぐりの高い、銅色あかがねいろ巌乗造がんじょうづくりな、年配四十五、六、古い単衣ひとえすそをぐいと端折はしょって、赤脛からずね脚絆きゃはん、素足に草鞋わらじ、かっとまばゆいほど日が照るのに、笠はかぶらず、その菅笠すげがさの紐に、桐油合羽とうゆがっぱたたんで、小さくたてに長く折ったのをゆわえて、振分ふりわけにして肩に投げて、両提ふたつさげ煙草入たばこいれ、大きいのをぶらげて、どういう気か、渋団扇しぶうちわで、はたはたと胸毛をあおぎながら、てくりてくり寄って来て、何処どこくだ。
 御山おやまへ花を取りに、と返事すると、ふんそれならばし、小父おじ同士どうしに行ってるべい。ただし、このさきわたしを一つ越さねばならぬで、渡守わたしもり咎立とがめだてをすると面倒じゃ、さあ、おぶされ、と言うて背中を向けたから、合羽かっぱまたぐ、足を向うへ取って、さる背負おんぶ、高く肩車に乗せたですな。
 そのうちも心のく、山はと見ると、戸室とむろが低くなって、この医王山が鮮明あざやか深翠ふかみどり、肩の上から下に瞰下みおろされるような気がしました。位置は変って、川の反対むこうの方に見えて来た、なるほどわたしを渡らねばなりますまい。
 足をおさえた片手をうしろへ、腰の両提ふたつさげの中をちゃらちゃらさせて、爺様じさま頼んます、鎮守ちんじゅ祭礼まつりを見に、頼まれた和郎わろじゃ、と言うと、船を寄せた老人としよりの腰は、親仁おやじ両提ふたつさげよりもふらふらして干柿ほしがきのようにからびた小さなじじい
 やがて綱につかまって、すがるとはやい事!
 すずめ鳴子なるこを渡るよう、猿がこずえを伝うよう、さらさら、さっと。」
 高坂は思わず足踏あしぶみをした、草のしげりがむらむらとゆらいで、花片はなびらがまたもや散り来る――二片三片ふたひらみひら虚空おおぞらから。――
「左右へ傾くふなばたへ、ながれが蒼くからみ着いて、真白にさっひるがえると、乗った親仁も馴れたもので、小児こどもかついだまま仁王立におうだち
 真蒼まっさお水底みなそこへ、黒くいて、底は知れず、目前めさき押被おっかぶさった大巌おおいわはらへ、ぴたりと船が吸寄すいよせられた。岸は可恐おそろしく水は深い。
 巌角いわかどきざを入れて、これを足懸あしがかりにして、こちらの堤防どてあがるんですな。昨日きのう私が越した時は、先ず第一番の危難に逢うかと、膏汗あぶらあせを流して漸々ようようすがり着いてあがったですが、何、その時の親仁は……平気なものです。」
 高坂は莞爾にっこりして、
爪尖つまさきを懸けると更になく、おぶさった私の方がかえって目をふさいだばかりでした。
 さて、ちっ歩行あるかっせえと、岸で下してくれました。それからは少しずつ次第にながれに遠ざかって、田のあぜ三つばかり横に切れると、今度は赤土あかつちの一本道、両側にちらほら松の植わっているところへ出ました。
 六月の中ばとはいっても、この辺にはめずらしいひどく暑い日だと思いましたが、川を渡り切った時分から、戸室山とむろやまが雲を吐いて、処々ところどころ田の水へ、真黒な雲がったり、来たり。
 並木なみきの松と松との間が、どんよりして、こずえが鳴る、と思うとはや大粒な雨がばらばら、立樹たちきを五本と越えないうちに、車軸を流す烈しい驟雨ゆうだち。ちょッ待て待て、と独言ひとりごとして、親仁おやじが私の手を取って、そら、台なしになるから脱げと言うままにすると、帯を解いて、紋着もんつきいで、浅葱あさぎえりの細くかかった襦袢じゅばんも残らず。
 小児こどもは糸も懸けぬ全裸体まるはだか
 雨はあびるようだし、こわさは恐し、ぶるぶるふるえると、親仁が、強いぞ強いぞ、と言って、私の衣類を一丸ひとまるげにして、懐中をふくらますと、紐を解いて、笠を一文字にかぶったです。
 それから幹に立たせて置いて、やがて例の桐油合羽とうゆがっぱを開いて、私の天窓あたまからすっぽりと目ばかり出るほど、まるで渋紙しぶかみ小児こどもの小包。
 いや! 出来た、これなら海をもぐっても濡れることではない、さあ、真直まっすぐ前途むこうへ駈け出せ、えい、と言うて、板でたれたと思った、私のしりをびたりと一つ。
 濡れた団扇うちわは骨ばかりに裂けました。
 怪飛けしとんだようになって、蹌踉よろけて土砂降どしゃぶりの中を飛出とびだすと、くるりと合羽かっぱに包まれて、見えるは脚ばかりじゃありませんか。
 赤蛙あかがえるが化けたわ、化けたわと、親仁おやじ呵々からからと笑ったですが、もう耳も聞えず真暗三宝まっくらさんぼう。何か黒山くろやまのような物に打付ぶッつかって、斛斗もんどりを打って仰様のけざまに転ぶと、滝のような雨の中に、ひひんと馬のいななく声。
 漸々ようよう人の手にたすおこされると、合羽を解いてくれたのは、五十ばかりの肥ったばあさん。馬士まごが一人腕組うでぐみをして突立つッたっていた。かどの柳のみどりから、黒駒くろこまの背へしずくが流れて、はや雲切くもぎれがして、その柳のこずえなどは薄雲の底に蒼空あおぞらが動いています。
 妙なものが降り込んだ。これが豆腐とうふなら資本もとでらずじゃ、それともこのまま熨斗のしを附けて、鎮守様ちんじゅさまおさめさっしゃるかと、馬士まごてのひら吸殻すいがらをころころる。
 ぬしさ、どうした、と婆さんが聞くんですが、四辺あたりをきょときょと※(「目+句」、第4水準2-81-91)みまわすばかり。
 何処どこから出た乞食こじきだよ、とまたひどいことを言います。もっと裸体はだか渋紙しぶかみに包まれていたんじゃ、氏素性うじすじょうあろうとは思わぬはず。
 衣物きものを脱がせた親仁おやじはと、ただくやしく、来た方を眺めると、が小さいから馬の腹をかして雨上りの松並木、青田あおだへりの用水に、白鷺しらさぎの遠く飛ぶまで、なわてがずっと見渡されて、西日がほんのりあかいのに、急な大雨で往来ゆききもばったり、その親仁らしい姿も見えぬ。
 あまりの事にしくしく泣き出すと、こりゃひもじゅうて口も利けぬな、商売品あきないものぜにを噛ませるようじゃけれど、一つ振舞ふるもうてろかいと、きたない土間に縁台えんだいを並べた、狭ッくるしい暗いすみの、こけの生えたおけの中から、豆腐とうふ半挺はんちょう皺手しわでに白く積んで、そりゃそりゃと、頬辺ほっぺたところ突出つきだしてくれたですが、どうしてこれが食べられますか。
 そのくせ腹はされたように空いていましたが、胸一杯になって、かぶりると、はて食好しょくごのみをする犬の、とつぶやいて、ぶくりとまた水へ落して、これゃ、慈悲をけぬ餓鬼がきめ、出てせと、私の胸へ突懸つッかけた皺だらけの手の黒さ、顔もうるしで固めたよう。
 黒婆くろばばどの、なさけない事せまいと、名もなるほど黒婆というのか、馬士まごが中へ割ってると、かしを返せ、この人足めと怒鳴どなったです。するとその豆腐の桶のあるうしろが、蜘蛛くもの巣だらけの藤棚で、これを地境じざかいにして壁もかきもない隣家となり小家こいえの、ふちに、膝に手を置いてうずくまっていた、とおばかりも年上らしいおばあさん。
 見兼ねたか、縁側えんがわからってり、ごつごつ転がった石塊いしころまたいで、藤棚をくぐって顔を出したが、柔和にゅうわ面相おもざし、色が白い。
 小児衆こどもしゅう小児衆、わしとこへござれ、と言う。はや白媼しろうばうちかっしゃい、かりがなくば、此処ここへ馬を繋ぐではないと、馬士まごは腰の胴乱どうらん煙管きせるをぐっと突込つッこんだ。
 そこで裸体はだかで手をかれて、土間の隅を抜けて、隣家となり連込つれこまれる時分には、とびが鳴いて、遠くで大勢の人声、祭礼まつり太鼓たいこが聞えました。」
 高坂は打案うちあんじ、
渡場わたしばからこちらは、一生私が忘れないところなんだね、で今度来る時も、さきの世の旅を二度する気で、松一本、橋一ツも心をつけて見たんだけれども、それらしい家もなく、柳の樹も分らない。それに今じゃ、三里ばかり向うを汽車が素通りにしてくようになったから、人通ひとどおりもなし。大方、その馬士まごも、老人としよりも、もうこの世の者じゃあるまいと思う、私は何だかその人たちの、あのまま影をうずめた、ちょうどその上を、ねえさん。」
 花売はなうり後姿うしろすがたのまま引留ひきとめられたようになってとまった。
貴女あなたと二人で歩行あるいているように思うですがね。」
「それからどう遊ばした、まあお話しなさいまし。」
 としずかに前へ。高坂もおもむろに、
「娘が来て世話をするまで、わしには衣服きものを着せる才覚もない。暑い時節じゃで、何ともなかろが、さぞひもじかろうで、これでも食わっしゃれって。
 囲炉裡いろりの灰の中に、ぶすぶすとくすぶっていたのを、抜き出してくれたのは、くしに刺した茄子なすの焼いたんで。
 ぶくぶく樺色かばいろふくれて、湯気ゆげが立っていたです。
 生豆腐なまどうふ手掴てづかみに比べては、勿体もったいない御料理と思った。それにくれるのがやさしげなお婆さん。
 つちしょうに合うでう出来るが、まだこの村でも初物はつものじゃという、それを、空腹すきばらへ三つばかり頬張ほおばりました。熱いつゆ下腹したばらへ、たらたらとみたところから、一睡ひとねむりして目が覚めると、きやきや痛み出して、やがて吐くやら、くだすやら、尾籠びろうなお話だが七顛八倒しちてんはっとうよくも生きていられた事と、今でも思うです。しかし、もうその時は、命の親の、優しい手に抱かれていました。世にも綺麗きれいな娘で。
 人心地ひとごこちもなく苦しんだ目が、かすかいた時、初めて見た姿は、つややかな黒髪くろかみを、男のようなまげに結んで、緋縮緬ひぢりめん襦袢じゅばん片肌かたはだ脱いでいました。日がって医王山へ花を採りに、私の手をいて、たかどのに朱の欄干てすりのある、温泉宿を忍んで裏口から朝月夜あさづきよに、田圃道たんぼみちへ出た時は、中形ちゅうがた浴衣ゆかた襦子しゅすの帯をしめて、鎌を一挺、手拭てぬぐいにくるんでいたです。そのあいだに、白媼しろうばうちを、私を膝に抱いて出た時は、まげ唐輪からわのようにって、胸には玉を飾って、ちょう天女てんにょのような扮装いでたちをして、車を牛に曳かせたのに乗って、わいわいという群集ぐんじゅの中を、通ったですが、村の者がかわがわる高く傘を※(「敬/手」、第3水準1-84-92)さしかけてったですね。
 村端むらはずれで、寺に休むと、此処ここ支度したくを替えて、多勢おおぜい口々くちぐちに、御苦労、御苦労というのを聞棄ききずてに、娘は、一人の若い者におんぶさせた私にちょっと頬摺ほおずりをして、それから、石高路いしだかみちの坂を越して、にぎやかに二階屋にかいやの揃った中の、一番むねの高い家へ入ったですが、私はただかすか呻吟うめいていたばかり。もっと白姥しろうばの家に三晩みばん寝ました。その内も、娘は外へ出ては帰って来て、膝枕ひざまくらをさせて、始終たかって来る馬蠅うまばえを、払ってくれたのを、現にくるしみながら覚えています。車に乗った天女に抱かれて、多人数たにんずに囲まれてかよった時、庚申堂こうしんどうわきはんの木で、なかば姿をかくして、群集ぐんじゅを放れてすっくと立った、せいの高い親仁おやじがあって、じっと私どもを見ていたのが、たしかに衣服を脱がせた奴と見たけれども、小児こどもはまだ口が利けないほど容体ようだいが悪かったんですな。
 私はただその気高けだか艶麗あでやかな人を、今でも神か仏かと、思うけれど、あとで考えると、先ずこうだろうと、思われるのは、うばの娘で、清水谷しみずだにの温泉へ、奉公ほうこうに出ていたのを、祭にいて、村の若い者が借りて来て八ヶそん九ヶそんをこれ見よとわめいて歩行あるいたものでしょう。娘はふとすると、湯女ゆななどであったかも知れないです。」

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