四
「馬士にも、荷担夫にも、畑打つ人にも、三人二人ぐらいずつ、村一つ越しては川沿の堤防へ出るごとに逢ったですが、皆唯立停って、じろじろ見送ったばかり、言葉を懸ける者はなかったです。これは熨斗目の紋着振袖という、田舎に珍しい異形な扮装だったから、不思議な若殿、迂濶に物も言えないと考えたか、真昼間、狐が化けた? とでも思ったでしょう。それとも本人逆上返って、何を言われても耳に入らなかったのかも解らんですよ。
ふとその渡場の手前で、背後から始めて呼び留めた親仁があります。兄や、兄やと太い調子。
私は仰向いて見ました。
ずんぐり脊の高い、銅色の巌乗造な、年配四十五、六、古い単衣の裾をぐいと端折って、赤脛に脚絆、素足に草鞋、かっと眩いほど日が照るのに、笠は被らず、その菅笠の紐に、桐油合羽を畳んで、小さく縦に長く折ったのを結えて、振分けにして肩に投げて、両提の煙草入、大きいのをぶら提げて、どういう気か、渋団扇で、はたはたと胸毛を煽ぎながら、てくりてくり寄って来て、何処へ行くだ。
御山へ花を取りに、と返事すると、ふんそれならば可し、小父が同士に行って遣るべい。但、この前の渡を一つ越さねばならぬで、渡守が咎立をすると面倒じゃ、さあ、負され、と言うて背中を向けたから、合羽を跨ぐ、足を向うへ取って、猿の児背負、高く肩車に乗せたですな。
その中も心の急く、山はと見ると、戸室が低くなって、この医王山が鮮明な深翠、肩の上から下に瞰下されるような気がしました。位置は変って、川の反対の方に見えて来た、なるほど渡を渡らねばなりますまい。
足を圧えた片手を後へ、腰の両提の中をちゃらちゃらさせて、爺様頼んます、鎮守の祭礼を見に、頼まれた和郎じゃ、と言うと、船を寄せた老人の腰は、親仁の両提よりもふらふらして干柿のように干からびた小さな爺。
やがて綱に掴まって、縋ると疾い事!
雀が鳴子を渡るよう、猿が梢を伝うよう、さらさら、さっと。」
高坂は思わず足踏をした、草の茂がむらむらと揺いで、花片がまたもや散り来る――二片三片、虚空から。――
「左右へ傾く舷へ、流が蒼く搦み着いて、真白に颯と翻ると、乗った親仁も馴れたもので、小児を担いだまま仁王立。
真蒼な水底へ、黒く透いて、底は知れず、目前へ押被さった大巌の肚へ、ぴたりと船が吸寄せられた。岸は可恐く水は深い。
巌角に刻を入れて、これを足懸りにして、こちらの堤防へ上るんですな。昨日私が越した時は、先ず第一番の危難に逢うかと、膏汗を流して漸々縋り着いて上ったですが、何、その時の親仁は……平気なものです。」
高坂は莞爾して、
「爪尖を懸けると更に苦なく、負さった私の方がかえって目を塞いだばかりでした。
さて、些と歩行かっせえと、岸で下してくれました。それからは少しずつ次第に流に遠ざかって、田の畦三つばかり横に切れると、今度は赤土の一本道、両側にちらほら松の植わっている処へ出ました。
六月の中ばとはいっても、この辺には珍しい酷く暑い日だと思いましたが、川を渡り切った時分から、戸室山が雲を吐いて、処々田の水へ、真黒な雲が往ったり、来たり。
並木の松と松との間が、どんよりして、梢が鳴る、と思うとはや大粒な雨がばらばら、立樹を五本と越えない中に、車軸を流す烈しい驟雨。ちょッ待て待て、と独言して、親仁が私の手を取って、そら、台なしになるから脱げと言うままにすると、帯を解いて、紋着を剥いで、浅葱の襟の細く掛った襦袢も残らず。
小児は糸も懸けぬ全裸体。
雨は浴るようだし、恐さは恐し、ぶるぶる顫えると、親仁が、強いぞ強いぞ、と言って、私の衣類を一丸げにして、懐中を膨らますと、紐を解いて、笠を一文字に冠ったです。
それから幹に立たせて置いて、やがて例の桐油合羽を開いて、私の天窓からすっぽりと目ばかり出るほど、まるで渋紙の小児の小包。
いや! 出来た、これなら海を潜っても濡れることではない、さあ、真直に前途へ駈け出せ、曳、と言うて、板で打たれたと思った、私の臀をびたりと一つ。
濡れた団扇は骨ばかりに裂けました。
怪飛んだようになって、蹌踉けて土砂降の中を飛出すと、くるりと合羽に包まれて、見えるは脚ばかりじゃありませんか。
赤蛙が化けたわ、化けたわと、親仁が呵々と笑ったですが、もう耳も聞えず真暗三宝。何か黒山のような物に打付かって、斛斗を打って仰様に転ぶと、滝のような雨の中に、ひひんと馬の嘶く声。
漸々人の手に扶け起されると、合羽を解いてくれたのは、五十ばかりの肥った婆さん。馬士が一人腕組をして突立っていた。門の柳の翠から、黒駒の背へ雫が流れて、はや雲切がして、その柳の梢などは薄雲の底に蒼空が動いています。
妙なものが降り込んだ。これが豆腐なら資本入らずじゃ、それともこのまま熨斗を附けて、鎮守様へ納めさっしゃるかと、馬士は掌で吸殻をころころ遣る。
主さ、どうした、と婆さんが聞くんですが、四辺をきょときょとすばかり。
何処から出た乞食だよ、とまた酷いことを言います。尤も裸体が渋紙に包まれていたんじゃ、氏素性あろうとは思わぬはず。
衣物を脱がせた親仁はと、唯悔しく、来た方を眺めると、脊が小さいから馬の腹を透かして雨上りの松並木、青田の縁の用水に、白鷺の遠く飛ぶまで、畷がずっと見渡されて、西日がほんのり紅いのに、急な大雨で往来もばったり、その親仁らしい姿も見えぬ。
余の事にしくしく泣き出すと、こりゃ餒うて口も利けぬな、商売品で銭を噛ませるようじゃけれど、一つ振舞うて遣ろかいと、汚い土間に縁台を並べた、狭ッくるしい暗い隅の、苔の生えた桶の中から、豆腐を半挺、皺手に白く積んで、そりゃそりゃと、頬辺の処へ突出してくれたですが、どうしてこれが食べられますか。
そのくせ腹は干されたように空いていましたが、胸一杯になって、頭を掉ると、はて食好をする犬の、と呟いて、ぶくりとまた水へ落して、これゃ、慈悲を享けぬ餓鬼め、出て失せと、私の胸へ突懸けた皺だらけの手の黒さ、顔も漆で固めたよう。
黒婆どの、情ない事せまいと、名もなるほど黒婆というのか、馬士が中へ割って入ると、貸を返せ、この人足めと怒鳴ったです。するとその豆腐の桶のある後が、蜘蛛の巣だらけの藤棚で、これを地境にして壁も垣もない隣家の小家の、炉の縁に、膝に手を置いて蹲っていた、十ばかりも年上らしいお媼さん。
見兼ねたか、縁側から摺って下り、ごつごつ転がった石塊を跨いで、藤棚を潜って顔を出したが、柔和な面相、色が白い。
小児衆小児衆、私が許へござれ、と言う。疾く白媼が家へ行かっしゃい、借がなくば、此処へ馬を繋ぐではないと、馬士は腰の胴乱に煙管をぐっと突込んだ。
そこで裸体で手を曳かれて、土間の隅を抜けて、隣家へ連込まれる時分には、鳶が鳴いて、遠くで大勢の人声、祭礼の太鼓が聞えました。」
高坂は打案じ、
「渡場からこちらは、一生私が忘れない処なんだね、で今度来る時も、前の世の旅を二度する気で、松一本、橋一ツも心をつけて見たんだけれども、それらしい家もなく、柳の樹も分らない。それに今じゃ、三里ばかり向うを汽車が素通りにして行くようになったから、人通もなし。大方、その馬士も、老人も、もうこの世の者じゃあるまいと思う、私は何だかその人たちの、あのまま影を埋めた、丁どその上を、姉さん。」
花売は後姿のまま引留められたようになって停った。
「貴女と二人で歩行いているように思うですがね。」
「それからどう遊ばした、まあお話しなさいまし。」
と静に前へ。高坂も徐ろに、
「娘が来て世話をするまで、私には衣服を着せる才覚もない。暑い時節じゃで、何ともなかろが、さぞ餒かろうで、これでも食わっしゃれって。
囲炉裡の灰の中に、ぶすぶすと燻っていたのを、抜き出してくれたのは、串に刺した茄子の焼いたんで。
ぶくぶく樺色に膨れて、湯気が立っていたです。
生豆腐の手掴に比べては、勿体ない御料理と思った。それにくれるのが優しげなお婆さん。
地が性に合うで好う出来るが、まだこの村でも初物じゃという、それを、空腹へ三つばかり頬張りました。熱い汁が下腹へ、たらたらと染みた処から、一睡して目が覚めると、きやきや痛み出して、やがて吐くやら、瀉すやら、尾籠なお話だが七顛八倒。能も生きていられた事と、今でも思うです。しかし、もうその時は、命の親の、優しい手に抱かれていました。世にも綺麗な娘で。
人心地もなく苦しんだ目が、幽に開いた時、初めて見た姿は、艶かな黒髪を、男のような髷に結んで、緋縮緬の襦袢を片肌脱いでいました。日が経って医王山へ花を採りに、私の手を曳いて、楼に朱の欄干のある、温泉宿を忍んで裏口から朝月夜に、田圃道へ出た時は、中形の浴衣に襦子の帯をしめて、鎌を一挺、手拭にくるんでいたです。その間に、白媼の内を、私を膝に抱いて出た時は、髷を唐輪のように結って、胸には玉を飾って、丁ど天女のような扮装をして、車を牛に曳かせたのに乗って、わいわいという群集の中を、通ったですが、村の者が交る交る高く傘を掛けて練ったですね。
村端で、寺に休むと、此処で支度を替えて、多勢が口々に、御苦労、御苦労というのを聞棄てに、娘は、一人の若い者に負させた私にちょっと頬摺をして、それから、石高路の坂を越して、賑かに二階屋の揃った中の、一番屋の棟の高い家へ入ったですが、私は唯幽に呻吟いていたばかり。尤も白姥の家に三晩寝ました。その内も、娘は外へ出ては帰って来て、膝枕をさせて、始終集って来る馬蠅を、払ってくれたのを、現に苦みながら覚えています。車に乗った天女に抱かれて、多人数に囲まれて通った時、庚申堂の傍に榛の木で、半ば姿を秘して、群集を放れてすっくと立った、脊の高い親仁があって、熟と私どもを見ていたのが、確に衣服を脱がせた奴と見たけれども、小児はまだ口が利けないほど容体が悪かったんですな。
私はただその気高い艶麗な人を、今でも神か仏かと、思うけれど、後で考えると、先ずこうだろうと、思われるのは、姥の娘で、清水谷の温泉へ、奉公に出ていたのを、祭に就いて、村の若い者が借りて来て八ヶ村九ヶ村をこれ見よと喚いて歩行いたものでしょう。娘はふとすると、湯女などであったかも知れないです。」
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