鏡花短篇集 |
岩波文庫、岩波書店 |
1987(昭和62)年9月16日 |
1987(昭和62)年9月16日第1刷 |
鏡花全集 巻七 |
岩波書店 |
1942(昭和17)年7月 |
一
日光掩蔽 地上清涼 靉靆垂布 如可承攬
其雨普等 四方倶下 流樹無量 率土充洽
山川険谷 幽邃所生 卉木薬艸 大小諸樹
「もし憚ながらお布施申しましょう。」
背後から呼ぶ優しい声に、医王山の半腹、樹木の鬱葱たる中を出でて、ふと夜の明けたように、空澄み、気清く、時しも夏の初を、秋見る昼の月の如く、前途遥なる高峰の上に日輪を仰いだ高坂は、愕然として振返った。
人の声を聞き、姿を見ようとは、夢にも思わぬまで、遠く里を離れて、はや山深く入っていたのに、呼懸けたのは女であった。けれども、高坂は一見して、直に何ら害心のない者であることを認め得た。
女は片手拝みに、白い指尖を唇にあてて、俯向いて経を聞きつつ、布施をしようというのであるから、
「否、私は出家じゃありません。」
と事もなげに辞退しながら、立停って、女のその雪のような耳許から、下膨れの頬に掛けて、柔に、濃い浅葱の紐を結んだのが、露の朝顔の色を宿して、加賀笠という、縁の深いので眉を隠した、背には花籠、脚に脚絆、身軽に扮装ったが、艶麗な姿を眺めた。
かなたは笠の下から見透すが如くにして、
「これは失礼なことを申しました。お姿は些ともそうらしくはございませんが、結構な御経をお読みなさいますから、私は、あの、御出家ではございませんでも、御修行者でいらっしゃいましょうと存じまして。」
背広の服で、足拵えして、帽を真深に、風呂敷包を小さく西行背負というのにしている。彼は名を光行とて、医科大学の学生である。
時に、妙法蓮華経薬草諭品、第五偈の半を開いたのを左の掌に捧げていたが、右手に支いた力杖を小脇に掻上げ、
「そりゃまあ、修行者は修行者だが、まだ全然素人で、どうして御布施を戴くようなものじゃない。
読方だって、何だ、大概、大学朱熹章句で行くんだから、尊い御経を勿体ないが、この山には薬の草が多いから、気の所為か知らん。麓からこうやって一里ばかりも来たかと思うと、風も清々しい薬の香がして、何となく身に染むから、心願があって近頃から読み覚えたのを、誦えながら歩行いているんだ。」
かく打明けるのが、この際自他のためと思ったから、高坂は親しく先ず語って、さて、
「姉さん、お前さんは麓の村にでも住んでいる人なんか。」
「はい、二俣村でございます。」
「あああの、越中の蛎波へ通う街道で、此処に来る道の岐れる、目まぐるしいほど馬の通る、彼処だね。」
「さようでございます。もう路が悪うございまして、車が通りませんものですから、炭でも薪でも、残らず馬に附けて出しますのでございます。
それに丁どこの御山の石の門のようになっております、戸室口から石を切出しますのを、皆馬で運びますから、一人で五疋も曳きますのでございますよ。」
「それではその麓から来たんだね、唯一人。……」
静に歩を移していた高坂は、更にまた女の顔を見た。
「はい、一人でございます、そしてこちらへ参りますまで、お姿を見ましたのは、貴方ばかりでございますよ。」
いかにもという面色して、
「私もやっぱり、そうさ、半里ばかりも後だった、途中で年寄った樵夫に逢って、路を聞いた外にはお前さんきり。
どうして往って還るまで、人ッ子一人いようとは思わなかった。」
この辺唯なだらかな蒼海原、沖へ出たような一面の草をしながら、
「や、ものを言っても一つ一つ谺に響くぞ、寂しい処へ、能くお前さん一人で来たね。」
女は乳の上へ右左、幅広く引掛けた桃色の紐に両手を挟んで、花籃を揺直し、
「貴方、その樵夫の衆にお尋ねなすって可うございました。そんなに嶮しい坂ではございませんが、些とも人が通いませんから、誠に知れにくいのでございます。」
「この奥の知れない山の中へ入るのに、目標があの石ばかりじゃ分らんではないかね。
それも、南北、何方か医王山道とでも鑿りつけてあればまだしもだけれど、唯河原に転っている、ごろた石の大きいような、その背後から草の下に細い道があるんだもの、ちょいと間違えようものなら、半年経歴っても頂には行かれないと、樵夫も言ったんだが、全体何だって、そんなに秘して置く山だろう。全くあの石の裏より外に、何処も路はないのだろうか。」
「ございませんとも、この路筋さえ御存じで在らっしゃれば、世を離れました寂しさばかりで、獣も可恐のはおりませんが、一足でも間違えて御覧なさいまし、何千丈とも知れぬ谷で、行留りになりますやら、断崖に突当りますやら、流に岩が飛びましたり、大木の倒れたので行く前が塞ったり、その間には草樹の多いほど、毒虫もむらむらして、どんなに難儀でございましょう。
旧へ帰るか、倶利伽羅峠へ出抜けますれば、無事に何方か国へ帰られます。それでなくって、無理に先へ参りますと、終局には草一条も生えません焼山になって、餓死をするそうでございます。
本当に貴方がおっしゃいます通り、樵夫がお教え申しました石は、飛騨までも末広がりの、医王の要石と申しまして、一度踏外しますと、それこそ路がばらばらになってしまいますよ。」
名だたる北国秘密の山、さもこそと思ったけれども、
「しかし一体、医王というほど、此処で薬草が採れるのに、何故世間とは隔って、行通がないのだろう。」
「それは、あの承りますと、昔から御領主の御禁山で、滅多に人をお入れなさらなかった所為なんでございますって。御領主ばかりでもござんせん。結構な御薬の採れます場所は、また御守護の神々仏様も、出入をお止め遊ばすのでございましょうと存じます。」
譬えば仙境に異霊あって、恣に人の薬草を採る事を許さずというが如く聞えたので、これが少からず心に懸った。
「それでは何か、私なんぞが入って行って、欲い草を取って帰っては悪いのか。」
と高坂はやや気色ばんだが、悚然と肌寒くなって、思わず口の裡で、
慧雲含潤 電光晃耀 雷声遠震 令衆悦予
日光掩蔽 地上清涼 靉靆垂布 如可承攬
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