鏡花全集 巻二十七 |
岩波書店 |
1942(昭和17)年10月20日 |
1988(昭和63)年11月2日第3刷 |
千駄木の森の夏ぞ晝も暗き。此處の森敢て深しといふにはあらねど、おしまはし、周圍を樹林にて取卷きたれば、不動坂、團子坂、巣鴨などに縱横に通ずる蜘蛛手の路は、恰も黄昏に樹深き山路を辿るが如し。尤も小石川白山の上、追分のあたりより、一圓の高臺なれども、射る日の光薄ければ小雨のあとも路は乾かず。此の奧に住める人の使へる婢、やつちや場に青物買ひに出づるに、いつも高足駄穿きて、なほ爪先を汚すぬかるみの、特に水溜には、蛭も泳ぐらんと氣味惡きに、唯一重森を出づれば、吹通しの風砂を捲きて、雪駄ちやら/\と人の通る、此方は裾端折の然も穿物の泥、二の字ならぬ奧山住の足痕を、白晝に印するが極惡しなど歎つ。
嘗て雨のふる夜、其の人の家より辭して我家に歸ることありしに、固より親いまさず、いろと提灯は持たぬ身の、藪の前、祠のうしろ、左右畑の中を拾ひて、蛇の目の傘脊筋さがりに引かつぎたるほどこそよけれ、たかひくの路の、ともすれば、ぬかるみの撥ひやりとして、然らぬだに我が心覺束なきを、やがて追分の方に出んとして、森の下に入るよとすれば呀、眞暗三寶黒白も分かず。今までは、春雨に、春雨にしよぼと濡れたもよいものを、夏はなほと、はら/\はらと降りかゝるを、我ながらサテ情知り顏の袖にうけて、綽々として餘裕ありし傘とともに肩をすぼめ、泳ぐやうなる姿して、右手を探れば、竹垣の濡れたるが、する/\と手に觸る。左手を傘の柄にて探りながら、顏ばかり前に出せば、此の折ぞ、風も遮られて激しくは當らぬ空に、蜘蛛の巣の頬にかゝるも侘しかりしが、然ばかり降るとも覺えざりしに、兎かうして樹立に出づれば、町の方は車軸を流す雨なりき。
蚊遣の煙古井戸のあたりを籠むる、友の家の縁端に罷來て、地切の強煙草を吹かす植木屋は、年久しく此の森に住めりとて、初冬にもなれば、汽車の音の轟く絶間、凩の吹きやむトタン、時雨來るをり/\ごとに、狐狸の今も鳴くとぞいふなる。然もあるべし、但狸の聲は、老夫が耳に蚯蚓に似たりや。
件の古井戸は、先住の家の妻ものに狂ふことありて其處に空しくなりぬとぞ。朽ちたる蓋犇々として大いなる石のおもしを置いたり。友は心強にして、小夜の螢の光明るく、梅の切株に滑かなる青苔の露を照して、衝と消えて、背戸の藪にさら/\とものの歩行く氣勢するをも恐れねど、我は彼の雨の夜を惱みし時、朽木の燃ゆる、はた板戸洩る遠灯、畦行く小提灯の影一つ認めざりしこそ幸なりけれ。思へば臆病の、目を塞いでや歩行きけん、降しきる音は徑を挾む梢にざツとかぶさる中に、取つて食はうと梟が鳴きぬ。
恁くは森のおどろ/\しき姿のみ、大方の風情はこれに越えて、朝夕の趣言ひ知らずめでたき由。
曙は知らず、黄昏に此の森の中辿ることありしが、幹に葉に茜さす夕日三筋四筋、梢には羅の靄を籠めて、茄子畑の根は暗く、其の花も小さき實となりつ。
棚して架るとにもあらず、夕顏のつる西家の廂を這ひ、烏瓜の花ほの/″\と東家の垣に霧を吐きぬ。強ひて我句を求むるにはあらず、藪には鶯の音を入るゝ時ぞ。
日は茂れる中より暮れ初めて、小暗きわたり蚊柱は家なき處に立てり。袂すゞしき深みどりの樹蔭を行く身には、あはれ小さきものども打群れてもの言ひかはすわと、それも風情かな。分けて見詰むるばかり、現に見ゆるまで美しきは紫陽花なり。其の淺葱なる、淺みどりなる、薄き濃き紫なる、中には紅淡き紅つけたる、額といふとぞ。夏は然ることながら此の邊分けて多し。明きより暗きに入る處、暗きより明きに出づる處、石に添ひ、竹に添ひ、籬に立ち、戸に彳み、馬蘭の中の、古井の傍に、紫の俤なきはあらず。寂たる森の中深く、もう/\と牛の聲して、沼とも覺しき泥の中に、埒もこはれ/″\牛養へる庭にさへ紫陽花の花盛なり。
此時、白襟の衣紋正しく、濃いお納戸の單衣着て、紺地の帶胸高う、高島田の品よきに、銀の平打の笄のみ、唯黒髮の中に淡くかざしたるが、手車と見えたり、小豆色の膝かけして、屈竟なる壯佼具したるが、車の輪も緩やかに、彼の蜘蛛手の森の下道を、訪ふ人の家を尋ね惱みつと覺しく、此處彼處、紫陽花咲けりと見る處、必ず、一時ばかりの間に六度七度出であひぬ。實に我も其日はじめて訪ひ到れる友の家を尋ねあぐみしなりけり。
玉簾の中もれ出でたらんばかりの女の俤、顏の色白きも衣の好みも、紫陽花の色に照榮えつ。蹴込の敷毛燃立つばかり、ひら/\と夕風にへる状よ、何處、いづこ、夕顏の宿やおとなふらん。
笛の音も聞えずや、あはれ此のあたりに若き詩人や住める、うつくしき學士やあると、折からの森の星のゆかしかりしを、今も忘れず。さればゆかしさに、敢て岡燒をせずして記をつくる。
明治三十四年八月
●表記について
- このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。
- 「くの字点」は「/\」で、「濁点付きくの字点」は「/″\」で表しました。
- 「くの字点」をのぞくJIS X 0213にある文字は、画像化して埋め込みました。