泉鏡花集成7 |
ちくま文庫、筑摩書房 |
1995(平成7)年12月4日 |
1995(平成7)年12月4日第1刷 |
鏡花全集 第二十六巻 |
岩波書店 |
1942(昭和17)年10月15日 |
場所。
信州松本、村越の家
人物。
村越欣弥(新任検事)
滝の白糸(水芸の太夫)
撫子(南京出刃打の娘)
高原七左衛門(旧藩士)
おその、おりく(ともに近所の娘)
[#改ページ]
撫子。円髷、前垂がけ、床の間の花籠に、黄の小菊と白菊の大輪なるを莟まじり投入れにしたるを視め、手に三本ばかり常夏の花を持つ。
傍におりく。車屋の娘。
撫子 今日は――お客様がいらっしゃるッて事だから、籠も貸して頂けば、お庭の花まで御無心して、ほんとうに済みませんのね。
りく 内の背戸にありますと、ただの草ッ葉なんですけれど、奥さんがそうしてお活けなさいますと、お祭礼の時の余所行のお曠衣のように綺麗ですわ。
撫子 この細りした、(一輪を指す)絹糸のような白いのは、これは、何と云う名の菊なんですえ。
りく 何ですか、あの……糸咲々々ってお父さんがそう云いますよ。
撫子 ああ、糸咲……の白菊……そうですか。
りく そして、あのその撫子はお活けなさいませんの。
撫子 おお、この花は撫子ですか。(手なる常夏を見る。)
りく ええ、返り咲の花なんですよ。枯れた薄の根に咲いて、珍しいから、と内でそう申しましてね。
撫子 その返り咲が嬉いから、どうせお流儀があるんじゃなし、綺麗でさえあれば可い、去嫌い構わずに、根〆《ねじめ》にしましょうと思ったけれど、白菊が糸咲で、私、常夏と覚えた花が、撫子と云うのでしたら、あの……ちょっと、台所の隅へでも、瓶に挿しましょう。
りく そう、見つけて来ましょう。(起つ。)
撫子 (熟と籠なると手の撫子とを見較ぶ。)
りく これじゃいかが。
撫子 ああ結構よ。(瓶にさす時水なし)あら水がない。
りく 汲んで来ましょう。
撫子 いいえ、撫子なんか、水がなくって沢山なの。
りく まあ、どうして?
撫子 それはね、南京流の秘伝なの。ほほほ。(寂しく笑う。)
おその、蓮葉に裏口より入る。駄菓子屋の娘。
その 奥様。
撫子 おや、おそのさん。
その あの、奥様。お客様の御馳走だって、先刻、お台所で、魚のお料理をなさるのに、小刀でこしらえていらしった事を、私、帰ってお饒舌をしましたら、お母さんが、まあ、何というお嬢様なんだろう。どんな御身分の方が、お慰みに、お飯事をなさるんでも、それでは御不自由、これを持って行って差上げな、とそう言いましてね。(言いつつ、古手拭を解く)いま研いだのを持って来ました。よく切れます……お使いなさいまし、お間に合せに。……(無遠慮に庖丁を目前に突出す。)
撫子 (ゾッと肩をすくめ、瞳を見据え、顔色かわる)おそのさん、その庖丁は借ません。
その ええ。
撫子 出刃は私に祟るんです。早く、しまって下さいな。
その 何でございますか、田舎もので、飛んだことをしましたわ。御免なさい、おりくさん、お詫をして頂戴な。
りく お気に障りましたら、御勘弁下さいまし。
撫子 飛んでもない。お辞儀なんかしちゃあ不可ません。おそのさん、おりくさん。
りく いいえ、奥様、私たちを、そんな、様づけになんかなさらないで、奉公人同様に、りくや。
その その、と呼棄てに、お目を掛けて下さいまし。
撫子 勿体ないわね、あなたがたはれっきとした町内の娘さんじゃありませんか。
りく いいえ、私は車屋ですもの。
その 親仁は日傭取の、駄菓子屋ですもの。
撫子 駄菓子屋さん立派、車屋さん結構よ。何の卑下する処があります。私はそれが可羨しい。狗の子だか、猫の子だか、掃溜ぐらいの小屋はあっても、縁の下なら宿なし同然。このお邸へ来るまでは、私は、あれ、あの、菊の咲く、垣根さえ憚って、この撫子と一所に倒れて、草の露に寝たんですよ。
りく あら、あんな事を。
その まあ……奥様。
撫子 その奥様と言われるのを、済まない済まない、勿体ない、と知っていながら、つい、浅はかに、一度が二度、三度めには幽に返事をしていました。その罰が当ったんです。いまの庖丁が可恐い。私はね、南京出刃打の小屋者なんです。
娘二人顔を見合わす。
俎の上で切刻まれ、磔にもかかる処を、神様のような旦那様に救われました。その神様を、雪が積って、あの駒ヶ岳へあらわれる、清い気高い、白い駒、空におがんでいなければならないんだのに。女にうまれた一生の思出に、空耳でも、僻耳でも、奥さん、と言われたさに、いい気になって返事をして、確に罰が当ったんです……ですが、この円髷は言訳をするんじゃありませんけれど、そんな気なのではありません。一生涯他へはお嫁入りをしない覚悟、私は尼になった気です。……(涙ぐみつつ)もう、今からは怪我にだって、奥さんなんぞとおっしゃるなよ。おりくさん、おそのさん、更めてお詫をします。
りく それでも、やっぱり奥さんですわ。ねえ、おそのさん。
その ええ、そうよ。
撫子 いいえ、いま思知ったんです、まったく罰が当りますから、私を可哀想だとお思いなすったら、このお邸のおさんどん、いくや、いくや、とおっしゃってね、豆腐屋、薪屋の方角をお教えなすって下さいまし。何にも知らない不束なものですから、余所の女中に虐められたり、毛色の変った見世物だと、邸町の犬に吠えられましたら、せめて、貴女方が御贔屓に、私を庇って下さいな、後生ですわ、ええ。
その 私どうしたら可いでしょう――こんなもの、掃溜へ打棄って来るわ。(立つ。)
撫子 ああ、靴の音が。
りく 旦那様のお帰りですね。
村越欣弥。高原七左衛門。登場。道を譲る。
村越 ま、まあ、御老人。
七左 いや、まず……先生。
村越 先生は弱りました。(忸怩たり)では書生流です、御案内。
七左 その気象! その気象!
撫子。出迎えんとして、ちょっと髷に手を遣り、台所へ下らんとするおりくの手を無理に取って、並んで出迎う。
撫子 お帰り遊ばせ。
村越 お客様に途中で逢ったよ。
撫子 (一度あげたる顔を、黙ってまた俯向き、手をつく。)
七左。よう、という顔色にて、兀頭の古帽を取って高く挙げ、皺だらけにて、ボタン二つ離れたる洋服の胸を反らす。太きニッケル製の時計の紐がだらりとあり。
村越 さあ、どうぞ。
七左 御免、真平御免。
腰を屈め、摺足にて、撫子の前を通り、すすむる蒲団の座に、がっきと着く。
撫子 ようおいで遊ばしました。
七左 ははっ、奥さん。(と倒になる。)
撫子 (手を支えたるまま、つつと退る。)
村越 父、母の御懇意。伯父さん同然な方だ。――高原さん……それは余所の娘です。
七左 (高らかに笑う)はッはッはッ、いずれ、そりゃ、そりゃ、いずれ、はッはッはッはッ。一度は余所の娘御には相違ないてな。いや、婆どのも、かげながら伝え聞いて申しておる。村越の御子息が、目のあたり立身出世は格別じゃ、が、就中、豪いのはこの働きじゃ。万一この手廻しがのうてみさっしゃい、団子噛るにも、蕎麦を食うにも、以来、欣弥さんの嫁御の事で胸が詰る。しかる処へ、奥方連のお乗込みは、これは学問修業より、槍先の功名、と称えて可い、とこう云うてな。
この間に、おりく茶を運ぶ、がぶりとのむ。
はッはッはッはッ。
撫子弱っている。
村越 (額に手を当て)いや、召使い……なんですよ。
七左 いずれそりゃ、そりゃいずれ、はッはッはッ、若いものの言う事は極っておる。――奥方、気にせまい。いずれそりゃ、田鼠化為鶉、雀入海中為蛤、とあってな、召つかいから奥方になる。――老人田舎もののしょうがには、山の芋を穿って鰻とする法を飲込んでいるて。拙者、足軽ではござれども、(真面目に)松本の藩士、士族でえす。刀に掛けても、追つけ表向の奥方にいたす、はッはッはッ、――これ遁げまい。
撫子、欣弥の目くばせに、一室にかくる。
欣弥さんはお奉行様じゃ、むむ、奥方にあらず、御台所と申そうかな。
撫子 お支度が。(――いい由知らせる。)
村越 さあ、小父さん、とにかくあちらで。何からお話を申して可いか……なにしろまあ、那室へ。
七左 いずれ、そりゃ、はッはッはッ、御馳走には預るのじゃ、はッはッはッ。遠慮は不沙汰、いや、しからば、よいとまかせのやっとこな。(と云って立つ。村越に続いて一室に入らんとして、床の間の菊を見る)や、や、これは潔く爽じゃ。御主人の気象によく似ておる。
欣弥、莞爾して撫子の顔を見て、その心づかいを喜び謝す。撫子嬉しそうに胸を抱く。