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みさごの鮨(みさごのすし)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-23 10:41:46  点击:  切换到繁體中文


       六

 実は、さきに小春を連れて、この旅館へ帰った頃に、廊下を歩行あるれたこの女が、手を取ったほど早や暗くて、座敷もかろうじて黒白あいろの分るくらいであった。金屏風きんびょうぶとむきあった、客の脱すてを掛けた衣桁いこうもとに、何をしていたか、つぐんでいて、道陸神どうろくじんのような影を、ふらふらと動かして、ぬいと出たものがあった。あれと言った小春と、ぎょっとした教授に「北国一。」とあびせ掛けて、またたく間に廊下をすっ飛んで行ったのは、あのお光であったが。
 すぐに小春が、客の意を得て、例の卓上電話で、二人の膳を帳場に通すと、今度註文をうけに出たのは、以前の、歯を染めた寂しいおんなで、しょんぼりと起居たちいをするのが、何だか、産女鳥うぶめのように見えたほど、――時間はさまでにもなかったが、わけてこの座敷は陰気だった。
 頼もしいほど、陽気ににぎやかなのは、ひさしはずれに欄干の見える、崖の上の張出しの座敷で、客も大勢らしい、四五人の、芸妓の、いろいろな声に、客のがまじって、唄う、弾く、踊っていた。
 船のみよしの出たように、もう一座敷かさなって、そこにも三味線さみせんの音がしたが、時々どっと笑う声は、天狗てんぐこだまを返すように、崖下の庭は暮れるものを、いつまでも電燈がつかない。
 小春のあいの淡い襟、冷い島田が、幾度いくたびも、縁をのぞいて、ともにともしを待ちもした。
 この縁の突当りに、上敷うわしきを板に敷込んだ、後架こうかがあって、機械口の水もさわやかだったのに、その暗紛れに、教授が入った時は一滴の手水ちょうずも出なかったので、小春に言うと、電話までもなく、帳場へ急いで、しばらくして、真鍮しんちゅうの水さしを持って来て言うのには、手水は発動機で汲上くみあげている処、発電池に故障があって、電燈もそのためにおくれると、帳場で言っているそうで。そこで中縁なかえんの土間のおおきな石の手水鉢、ただし落葉が二三枚、不思議に燈籠に火をともしたように見えて、からからに乾いて水はない。そこへ誘って、つき膝で、えんになまめかしくさっと流してくれて、
「あれ、はんけちを田圃道たんぼみちで落して来て、……」
「それも死神の風呂敷だったよ。」
可恐こわいわ、旦那さん。」

 その水さしが、さて……いまやっぱり、手水鉢のはたすわっているのがかすかに見える。夕暮のさぎが長いくちばしで留ったようで、何となく、水の音も、ひたひたとするようだったが、この時、木菟みみずくのようになって、とっぷりと暮れて真暗まっくらだった。

「どうした、どうした。……おお、泣いているのか。――私は……」
「ああれ、旦那さん。」
 と、かわやの板戸を、内から細目に、小春の姿が消えそうに、
「私、つい、つい、うっかりして、あのお恥かしくって泣くんですわ……ここには水がありません。」
「そうか。」
 と教授が我が手で、その戸を開けてやりつつ、
「こっちへお出で、かけてやろう。さ。」
「は。」
いか、十分に……」
「あれ、どうしましょう、勿体ない、私は罰が当ります。」
 懐紙に二階の影が散る。……高い廊下をちらちらと燭台しょくだいの火が、その高楼たかどの欄干てすりを流れた。
「罰の当ったはこの方だ。――しかし、婦人おんなの手に水をかけたのは生れてからはじめてだ。赤ん坊になったから、見ておくれ。おかげで白髪が皆消えて、真黒まっくろになったろう。」
 まことに髪が黒かった。教授の顔の明るさ。
「この手水鉢は、実盛さねもり首洗くびあらいの池も同じだね。」
「ええ、縁起でもない、旦那さん。」
「ま、姦通まおとこめ。ううむ、おどれ等。」
「北国一だ。……あぶねえよ。」
 殺した声と、うめく声で、どたばた、どしんと音がすると、万歳と、むこう二階で喝采やんや、ともろ声にわめいたのとほとんど一所に、赤い電燈が、蒟蒻こんにゃくのようにぶるぶると震えていた。

       七

 小春の身を、背にかばって立った教授が、見ると、繻子しゅすの黒足袋の鼻緒ずれに破れたやつを、ばたばたと空にねる、治兵衛坊主を真俯向まうつむけに、押伏せて、お光が赤蕪あかかぶのような膝をはだけて、のしかかっているのである。
「危い――刃ものを持ってるぞ。」
 絨毯じゅうたんを縫いながら、治兵衛の手の大小刀おおナイフが、しかし赤黒い電燈に、錆蜈蚣さびむかでのようにうごめくのを、事ともしないで、
「何が、犬にもきばがありゃ、牛にも角があるだあね。こんな人間の刃ものなんぞ、どうするかね。この馬鹿野郎。それでも私が来ねえと、大事なお客さんに怪我をさせる処だっけ。飛んでもねえ嫉妬野郎やきもちやろうだ。でけい声を出してお帳場を呼ぼうかね、旦那さん、どうするね。私が一つ横ずっぽうりこくってやろうかね。」
「ああ、しずかに――乱暴をしちゃ不可いけない。」
 教授は敷居へ、内へ向けて引きながら、縁側の籐椅子とういすに掛けた。
「君は、誰を斬るつもりかね。」
「うむ、おどれから先に……当前あたりまえじゃい。うむ、放せ、口惜くやしいわい。」
「迷惑をするじゃあないか。旅の客が湯治場の芸妓げいしゃを呼んで遊んだが、それがどうした。」
おどれ、俺の店まで、呼出しに、汝、逢曳あいびきにうせおって、姦通まおとこめ。」
「血迷うな、誤解はどうでも構わないが、君は卑劣だよ。……使った金子かねに世の中が行詰ゆきづまって、自分で死ぬのは、間違いにしろ、勝手だが、死ぬのに一人死ねないで、未練にも相手の女を道づれにしようとして附絡つけまとうのは卑劣じゃあないか。――投出す生命いのちに女のつれこさえようとするしみったれさはどうだ。出した祝儀に、利息を取るよりけちな男だ。君、可愛い女と一所に居る時は、のみが一つ余計に女にたかっても、ああ、おれの身をかわりに吸え、可哀想だと思うが情だ。涼しい時に虫が鳴いても、かぜを引くなよ、寝冷ねびえをするなと念じてやるのが男じゃないか。――自分で死ぬほど、要らぬ生命いのちを持っているなら、おなじ苦労をした女の、寿命のさきへ、鼻毛をよって、継足つぎたしをしてやるがい。このうつくしい、優しい女を殺そうとは何事だ。これ聞け。俺も、こんな口を利いたって、ちっとも偉い男ではない。お互に人間の中の虫だ。――虫だが、書物ばかり食っている、しみのような虫だから、失礼ながら君よりは、清潔きれいだよ。それさえ……それでさえ、聞けよ。――心中の相談をしている時に、おやじが蜻蛉とんぼ釣る形の可笑おかしさに、道端へ笑い倒れる妙齢としごろの気の若さ……今もだ……うっかり手水ちょうずに行って、手を洗う水がないと言って、戸を開け得ない、きれいな女と感じた時は、娘のような可愛さに、唇の触ったばかりでも。」
「ううむ、ううむ。」とうなった。
「申訳のなさに五体が震える。何だ、その女に対して、隠元、田螺たにしの分際で、薄汚い。いろも、亭主も、心中も、殺すも、いかすもあるものか。――しずかにここを引揚げて、早く粟津の湯へ入れ――自分にも二つはあるまい、生命いのちの養生をするがい。」
「餓鬼めが、畜生!」
「おっと、どっこい。」
「うむ、放せ。」
ねえさん、放しておやり。」
あぶねえ、旦那さん。」
「いや、私はまだその人に、殺されも、斬られもしそうな気はしない。お放し。」
「おお、もっともな、私がこの手を押えているで、どうする事も出来はしねえだ。」
「さあ、胸を出せ、袖を開けろ。私は指一つおさえていない。婦人おんなってそこへすがれば、話は別だ。桂清水かつらしみずとか言うので顔を洗って私も出直す――それ、それ、見たがい。婦人おんなは、どうだ、椅子の陰へ小さく隠れて、身を震わしているじゃあないか。――帰りたまえ。」
 また電燈が、滅びるように、呼吸いきをひいて、すっと消えた。
「二人とも覚えてけつかれ。」
「この野郎、どこから入った。ああ、――そうか。三畳の窓をくぐって、ちっこい、庭境にわざかい隣家となりの塀から入ったな。争われぬもんだってば。……入った処から出て行くだからな。壁をって、窓をって、あれ板塀にひッついた、とかげ野郎。」
 小春は花のいきするように、ただ教授の背後うしろから、帯に縋って、さめざめと泣いていた。

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