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みさごの鮨(みさごのすし)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-23 10:41:46  点击:  切换到繁體中文



       四

 ここに、第九師団衛戍えいじゅ病院の白い分院がある。――薬師寺、万松園まんしょうえん春日山かすがやまなどと共に、療養院は、山代の名勝に入っている。絵はがきがある。御覧なさい。
 病院にして名勝の絵になったのは、全国ここばかりであろうも知れない。
 この日当りで暖かそうなが、青白い建ものの、門の前は、枯葉半ば、色づいた桜の木が七八株、一列に植えたのを境に、もう温泉いでゆの町も場末のはずれで、道が一坂小だかくなって、三方は見通しの原で、東に一帯の薬師山の下が、幅の広いなわてになる。桂谷かつらだにと言うのへ通ずる街道である。病院の背後をしきって、蜿々うねうねと続いた松まじりの雑木山は、畠を隔てたばかり目のさきに近いから、遠い山も、けわしいみねも遮られる。ために景色が穏かで、空も優しい。真綿のように処々白い雲をいたおっとりとした青空で、ややななめな陽が、どことなく立渡る初冬の霧に包まれて、ほんのりと輝いて、光は弱いが、まともに照らされては、のぼせるほどの暖かさ。が、陰の袖は、そぞろに冷い。
 その近山ちかやますそは半ば陰ったが、病院とは向う合せに、この畷から少し低く、くだりめになって、陽の一杯に当る枯草のみちが、ちょろちょろとついて、そのこみちと、畷の交叉点こうさてんがゆるく三角になって、十坪ばかりの畑が一枚。見霽みはらしの野山の中に一つある。一方が広々とした刈田かりたとの境に、垣根もあったらしいが、竹も塀もこわれごわれで、朽ちたくいばかり一本、せめて案山子かかしにでも化けたそうに灰色に残って、尾花が、ぼうと消えそうに、しかし陽を満々と吸って、あ、あ、長閑のどか欠伸あくびでも出そうに、その杭にもたれている。わらが散り、木の葉が乱れた畑には、ここらあたりさかんに植える、杓子菜しゃくしなと云って、株の白い処が似ているから、蓮華菜れんげなとも言うのを、もう散々に引棄てたあとへ、陽気があたたかだから、乾いた土の、ほかほかともりあがった処へ、細く青く芽をふいた。
 畑の裾は、町裏の、ごみごみした町家まちや、農家が入乱れて、樹立こだちがくれに、小流こながれを包んで、ずっと遠く続いたのは、山中みちで、そこは雲の加減で、陽が薄赤くさっす。
 色も空も一淀ひとよどみする、この日溜ひだまりの三角畑の上ばかり、雲の瀬にべにの葉がしがらむように、夥多おびただしく赤蜻蛉あかとんぼが群れていた。――出会ったり、別れたり、上下うえしたにスッと飛んだり。あの、紅また薄紅、うつくしい小さな天女の、水晶の翼は、きらきらと輝くのだけれど、もう冬で……遊びもたけなわに、恍惚うっとりしたらしく、夢を※(「彳+尚」、第3水準1-84-33)※(「彳+羊」、第3水準1-84-32)さまようように、ふわふわと浮きつ、沈みつ、ただよいつ。で、時々目がさめたように、パッと羽を光らせるが、またぼうとなって、暖かに霞んで飛交う。
 日南ひなたにじの姫たちである。
 風情に見愡みとれて、近江屋の客はただ一人、三角畑の角に立って、山を背にめぐらしつつたたずんでいるのであった。
 四辺あたり長閑のどかさ。しかししずかな事は――昼飯をすませてから――買ものに出た時とは反対の方に――そぞろ歩行あるきでぶらりと出て、温泉いでゆくるわを一巡り、店さきのきらびやかな九谷焼、奥深く彩った漆器店。両側の商店が、やがて片側になって、なまめかしい、べにがら格子ごうしを五六軒見たあとは、細流せせらぎが流れて、薬師山を一方に、呉羽神社くれはじんじゃの大鳥居前を過ぎたあたりから、往来ゆきかう人も、来る人も、なくなって、古ぼけた酒店さかみせの杉葉のもとに、茶と黒と、まりの伸びたほどの小犬が、上になり下になり、おっとりと耳をんだり、ちょいと鼻づらをひっかき合ったり。……これを見ると、うらやましいか、おけの蔭から、むくと起きて、脚をひろげて、もう一匹よちよちと、同じような小狗こいぬは出て来ても、村の閑寂間しじまか、棒切ぼうきれ持った小児こどもも居ない。
 で、ここへ来た時……前途むこう山の下から、頬被ほおかぶりした脊の高い草鞋わらじばきの親仁おやじが、柄の長い鎌を片手に、水だか酒だか、縄からげの一升罎いっしょうびんをぶら下げたのが、てくりてくりと、畷を伝い、松茸の香をぷんとさせて、蛇の茣蓙ござとなうる、裏白の葉をうずたかった大籠おおかご背負しょったのを、一ツゆすって通過ぎた。うしろつきも、罎と鎌で調子を取って、大手を振った、おのずから意気の揚々とした処は、山の幸を得たほこりを示す。……籠に、あの、ばさばさ群った葉の中に、なまずのような、小鮒こぶなのような、頭のおおきたけがびちびち跳ねていそうなのが、温泉いでゆの町の方へずッと入った。しばらく、人に逢ったのはそればかりであった。
 客は、ひなたの赤蜻蛉に見愡みとれた瞳を、ふと、畑際はたぎわの尾花に映すと、蔭の片袖が悚然ぞっとした。一度、しかとしめてこまぬいた腕をほどいて、やや震える手さきを、小鬢こびんそっと触れると、喟然きぜんとしておもてを暗うしたのであった。
 日南ひなたに霜が散ったように、鬢にちらちらと白毛しらがが見える。その時、赤蜻蛉の色の真紅まっかなのが忘れたようにスッと下りて、尾花のもとに、杭のさきとまった。……一度伏せた羽を、と張った、きらりと輝かした時、あの緑の目を、ちょっと此方こなたへ振動かした。
 小狗のたわむれにも可懐なつかしんだ。幼心おさなごころに返ったのである。
 教授は、ほとびるがごとき笑顔になった。が、きりりと唇をしめると、真黒まっくろな厚いおおき外套がいとうの、背腰を屁びりにかがめて、及腰およびごしに右の片手をのばしつつ、そっねらって寄った。が、どうしてどうして、小児こどものように軽く行かない。ぎくり、しゃくり、いまが大切、……よちりと飛附く。……南無三宝なむさんぽう、赤蜻蛉はさっれた。
 はっと思った時である。
「おほほほほ。ははははは。」
 花々しく調子高に、若い女の笑声が響いた。
 向うに狗児いぬころかげも、早や見えぬ。四辺あたりに誰も居ないのを、一息のもとに見渡して、我を笑うと心着いた時、咄嗟とっさに渋面を造って、身をじるように振向くと……
 この三角畑の裾の樹立こだちから、広野ひろのの中に、もう一条ひとすじなわてと傾斜面の広き刈田を隔てて、突当りの山裾へ畦道あぜみちがあるのが屏風のごとくつらなった、長く、せいの高い掛稲かけいねのずらりと続いたのにおおわれて、半ばで消えるので気がつかなかった。掛稲のきれ目を見ると、遠山の雪の頂が青空にほとばしって、白い兎が月にけるようである。下も水のごとく、尾花の波が白く敷く。刈残したあわの穂の黄色なのと段々になって、立蔽う青い霧に浮いていた。
 と見向いた時、畦の嫁菜をつまにして、その掛稲の此方こなたに、目もはるかな野原刈田を背にしてあわいが離れてしかとは見えぬが、薄藍うすあい浅葱あさぎの襟して、髪のつややかな、色の白い女が居て、いま見合せた顔を、急に背けるや否や、たたきつけるように片袖を口に当てたが、声は高々と、澄切った空を、野に響いた。
「おほほほほほ、おほほほ、おほほほほほ。」
 おや、顔に何かついている?……すべりをしごいて、思わずでると、これがまた化かされものが狐に対する眉毛につばと見えたろう。
 金切声で、「ほほほほほほ。」
 十歩ばかり先に立って、一人男のつれが居た。しまがらは分らないが、くすんだなりで、青磁色の中折帽なかおれぼうを前のめりにした小造こづくりな、せた、形の粘々ねばねばとした男であった。これが、その晴やかな大笑おおわらいの笑声に驚いたように立留って、ひさしにらみに、女を見ている。
 何を笑う、教授はまた……これはこの陽気に外套を着たのが可笑おかしいのであろうと思った……言うまでもない。――途中でな、誰を見ても、若いものにも、老人としよりにも、外套を着たものは一人もなかった。湯の廓は皆柳の中を広袖どてら出歩行であるく。いきおいなのは浴衣一枚、裸体はだかも見えた。もっとも宿を出る時、外套はと気がさしたが、借りて着込んだ浴衣ののり硬々こわごわ突張つっぱって、広袖のはだにつかないのが、悪く風を通して、ぞくぞくするために、すっぽりと着込んでいるのである。成程、ただ一人、帽子も外套も真黒まっくろに、畑に、つッくりと立った処は、影法師に狐がいたようで、ふんどしをぶら下げて裸でおかに立ったより、わかい女には可笑おかしかろう……
 いや、蜻蛉釣とんぼつりだ。
 ああ、それだ。
 小鬢こびんに霜のわれらがと、たちまち心着いて、思わず、禁ぜざる苦笑をもらすと、その顔がまた合った。
「ぷッ、」と噴出すように更に笑った女が、たまらぬといったていに、裾をぱッぱッと、もとのかたへ、五歩いつあし六歩むあし駈戻かけもどって、じたように胸を折って、
「おほほほほ。」
 胸をそらして、仰向あおむけに、
「あはははは。」
 たちまちくるりとうしろ向きに、何か、もみじの散りかかる小紋の羽織の背筋を見せて、向うむきに、雪の遠山へ、やたらに叩頭おじぎをする姿で、うつむいて、
「おほほ、あはは、あははははは。あははははは。」
 やがて、朱鷺色ときいろ手巾ハンケチで口を蔽うて、肩で呼吸いきして、向直って、ツンとすまして横顔で歩行あるこうとした。が、何と、おのずから目がこっちに向くではないか。二つ三つ手巾に、すぶりをくれて、たたきつけて、また笑った。
「おほほほほ、あははは、あははははは。」
 八口やつくちくれないに、腕の白さのちらめくのを、振ってんで身悶みもだえする。
 きょろんと立ったつれの男が、一歩ひとあし返して、おさえるごとくに、握拳にぎりこぶしをぬっと突出すと、今度はその顔をかがみ腰に仰向いて見て、それにも、したたかに笑ったが、またもや目を教授に向けた。
 教授もこらえず、ひとり寂しくニヤニヤとしながら、半ば茫然として立っていたが、余りの事に、そこで、うっかり、べかッこを遣ったと思え。
「きゃっ、ひいッ。」と逆に半身を折って、前へ折曲げて、脾腹ひばらを腕で圧えたが追着おッつかない。身を悶え、肩を揉み揉みへとへとになったらしい。……畦の端の草もみじに、だらしなく膝をついた。半襟の藍に嫁菜が咲いて、
「おほほほほほほ、あはははは、おほほほほほ。」
 そこを両脇、乳も、胸も、もぞもぞと尾花がくすぐる! はだかる襟の白さを合すと、合す隙に、しどけない膝小僧の雪を敷く。島田髷しまだも、切れ、はらはらとなって、
「堪忍してよう、おほほほほ、あははははは。」
 と、手をふるはずみに、鳴子縄なるこなわに、くいつくばかり、ひしとすがると、刈田の鳴子が、山に響いてからからから、からからからから。
「あはははははは。おほほほほほ。」
 勃然むっとしたていで、島田の上で、握拳の両手を、一度打擲ちょうちゃくをするごとくふって見せて、むっとして男が行くので、はあはあ膝をらし、腰を引いて、背には波を打たしながら、身をうねらせて、やっと立って、女は褄を引合せざまに振向くと、ちょっと小腰を屈めながら、教授に会釈をするがはやいか。
「きゃあ――」と笑って、けざまに、男のあとを掛稲の背後うしろへ隠れた。
 その掛稲は、一杯の陽の光と、あふれるばかり雀を吸って、むくむくとして、音のするほど膨れ上って、なおこらえず、おほほほほ、笑声を吸込んで、遣切やりきれなくなって、はち切れた。稲穂がゆさゆさと一斉に揺れたと思うと、女の顔がぼっと出て、髪を黒く、唇をあかく、
「おほほほほほほほ、あはははははは。」
白痴奴だらめおどれ!」
 ねつい、いかった声が響くと同時に、ハッとして、もとの路へげ出した女の背に、つかみかかる男の手が、伸びつつ届くを、かわそうとしたのが、真横にばったり。
 しかかると、二ツ三ツ、ものをも言わずに、頬とも言わず、肩とも言わず、男の拳が、尾花の穂がへし折れるように見えて打擲した。
 顔も、髪も、どろまみれに、真白まっしろな手を袖口から、ひしと合せて、おがんで縋って、起きようとする、腕を払って、男が足を上げて一つ蹴た。
 瞬くばかりの間である。
「何をする、何をする。」
 たかが山家やまがの恋である。男女の痴話の傍杖そばづえより、今は、高きそら、広き世を持つ、学士榊三吉も、むかし、一高で骨を鍛えた向陵の健児の意気は衰えず、
「何をする、何をするんだ。」
 草のみちももどかしい。あぜともいわず、刈田と言わず、真直まっすぐ突切つっきって、さっと寄った。
 この勢いに、男は桂谷の山手の方へ、掛稲を縫って、烏とともに飛んでげた。
「おお。」
「あ、あれ、先刻さっきの旦那さん。」
 遁げた男は治兵衛坊主で――お光に聞いた――小春であった。
「外套をかぶって、帽子をめして、……見違えて、おほほほほ、失礼な、どうしましょう。」
 と小春は襟も帯も乱れた胸を、かよわく手でおさえて、片手で外套の袖に縋りながら、蒼白まっさおな顔をして、涙の目でなお笑った。
「おほほほほほ、堪忍、御免なすって、あははははは。」
 妙齢としごろだ。この箸がころんでも笑うものを、と憮然ぶぜんとしつつ、駒下駄が飛んで、はだしの清い、肩も膝もくれないの乱れたおんなの、半ば起きた肩を抱いた。
「御免なすって、旦那さん、赤蜻蛉をつかまえようと遊ばした、貴方あなたの、貴方の形が、余り……余り……おほほほほ。」
「いや、我ながら、思えば可笑おかしい。笑うのは当り前だ。が、気の毒だ。つれの男は何という乱暴だ。」
「ええ、うちではかえって人目に立つッて、あの、おほほ、心中しんじゅうの相談をしに来た処だものですから、あはははは。」
 ひたと胸に、顔をうずめて、泣きながら、
「おほほほほほほ。」

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