五
「ええ、その時、この、村方で、不思議千万な、色出入り、――変な姦通事件がございました。
村入りの雁股と申す処に(代官婆)という、庄屋のお婆さんと言えば、まだしおらしく聞こえますが、代官婆。……渾名で分かりますくらいおそろしく権柄な、家の系図を鼻に掛けて、俺が家はむかし代官だぞよ、と二言めには、たつみ上がりになりますので。その了簡でございますから、中年から後家になりながら、手一つで、まず……伜どのを立派に育てて、これを東京で学士先生にまで仕立てました。……そこで一頃は東京住居をしておりましたが、何でも一旦微禄した家を、故郷に打っ開けて、村中の面を見返すと申して、估券潰れの古家を買いまして、両三年前から、その伜の学士先生の嫁御、近頃で申す若夫人と、二人で引き籠もっておりますが。……菜大根、茄子などは料理に醤油が費え、だという倹約で、葱、韮、大蒜、辣薤と申す五薀の類を、空地中に、植え込んで、塩で弁ずるのでございまして。……もう遠くからぷんと、その家が臭います。大蒜屋敷の代官婆。……
ところが若夫人、嫁御というのが、福島の商家の娘さんで学校をでた方だが、当世に似合わないおとなしい優しい、ちと内輪すぎますぐらい。もっともこれでなくっては代官婆と二人住居はできません。……大蒜ばなれのした方で、鋤にも、鍬にも、連尺にも、婆どのに追い使われて、いたわしいほどよく辛抱なさいます。
霜月の半ば過ぎに、不意に東京から大蒜屋敷へお客人がございました。学士先生のお友だちで、この方はどこへも勤めてはいなさらない、もっとも画師だそうでございますから、きまった勤めとてはございますまい。学士先生の方は、東京のある中学校でれっきとした校長さんでございますが。――
で、その画師さんが、不意に、大蒜屋敷に飛び込んで参ったのは、ろくに旅費も持たずに、東京から遁げ出して来たのだそうで。……と申しますのは――早い話が、細君がありながら、よそに深い馴染が出来ました。……それがために、首尾も義理も世の中は、さんざんで、思い余って細君が意見をなすったのを、何を! と言って、一つ横頬を撲わしたはいいが、御先祖、お両親の位牌にも、くらわされてしかるべきは自分の方で、仏壇のあるわが家には居たたまらないために、その場から門を駈け出したは出たとして、知合にも友だちにも、女房に意見をされるほどの始末で見れば、行き処がなかったので、一夜しのぎに、この木曾谷まで遁げ込んだのだそうでございます、遁げましたなあ。……それに、その細君というのが、はじめ画師さんには恋人で、晴れて夫婦になるのには、この学士先生が大層なお骨折りで、そのおかげで思いが叶ったと申したようなわけだそうで。……遁げ込み場所には屈竟なのでございました。
時に、弱りものの画師さんの、その深い馴染というのが、もし、何と……お艶様――手前どもへ一人でお泊まりになったその御婦人なんでございます。……ちょいと申し上げておきますが、これは画師さんのあとをたずねて、雪を分けておいでになったのではございません。その間がざっと半月ばかりございました。その間に、ただいま申しました、姦通騒ぎが起こったのでございます。」
と料理番は一息した。
「そこで……また代官婆に変な癖がございましてな。癖より病で――あるもの知りの方に承りましたのでは、訴訟狂とか申すんだそうで、葱が枯れたと言っては村役場だ、小児が睨んだと言えば交番だ。……派出所だ裁判だと、何でも上沙汰にさえ持ち出せば、我に理があると、それ貴客、代官婆だけに思い込んでおりますのでございます。
その、大蒜屋敷の雁股へ掛かります、この街道、棒鼻の辻に、巌穴のような窪地に引っ込んで、石松という猟師が、小児だくさんで籠もっております。四十親仁で、これの小僧の時は、まだ微禄をしません以前の……その婆のとこに下男奉公、女房も女中奉公をしたものだそうで。……婆がえろう家来扱いにするのでございますが、石松猟師も、堅い親仁で、はなはだしく御主人に奉っておりますので。……
宵の雨が雪になりまして、その年の初雪が思いのほか、夜半を掛けて積もりました。山の、猪、兎が慌てます。猟はこういう時だと、夜更けに、のそのそと起きて、鉄砲しらべをして、炉端で茶漬を掻っ食らって、手製の猿の皮の毛頭巾を被った。筵の戸口へ、白髪を振り乱して、蕎麦切色の褌……いやな奴で、とき色の禿げたのを不断まきます、尻端折りで、六十九歳の代官婆が、跣足で雪の中に突っ立ちました。(内へ怪けものが出た、来てくれせえ。)と顔色、手ぶりで喘いで言うので。……こんな時鉄砲は強うございますよ、ガチリ、実弾をこめました。……旧主人の後室様がお跣足でございますから、石松も素跣足。街道を突っ切って韮、辣薤、葱畑を、さっさっと、化けものを見届けるのじゃ、静かにということで、婆が出て来ました納戸口から入って、中土間へ忍んで、指さされるなりに、板戸の節穴から覗きますとな、――何と、六枚折の屏風の裡に、枕を並べて、と申すのが、寝てはいなかったそうでございます。若夫人が緋の長襦袢で、掻巻の襟の肩から辷った半身で、画師の膝に白い手をかけて俯向けになりました、背中を男が、撫でさすっていたのだそうで。いつもは、もんぺを穿いて、木綿のちゃんちゃんこで居る嫁御が、その姿で、しかもそのありさまでございます。石松は化けもの以上に驚いたに相違ございません。(おのれ、不義もの……人畜生。)と代官婆が土蜘蛛のようにのさばり込んで、(やい、……動くな、その状を一寸でも動いて崩すと――鉄砲だぞよ、弾丸だぞよ。)と言う。にじり上がりの屏風の端から、鉄砲の銃口をヌッと突き出して、毛の生えた蟇のような石松が、目を光らして狙っております。
人相と言い、場合と申し、ズドンとやりかねない勢いでごさいますから、画師さんは面喰らったに相違ございますまい。(天罰は立ち処じゃ、足四本、手四つ、顔二つのさらしものにしてやるべ。)で、代官婆は、近所の村方四軒というもの、その足でたたき起こして廻って、石松が鉄砲を向けたままの、そのありさまをさらしました。――夜のあけ方には、派出所の巡査、檀那寺の和尚まで立ち会わせるという狂い方でございまして。学士先生の若夫人と色男の画師さんは、こうなると、緋鹿子の扱帯も藁すべで、彩色をした海鼠のように、雪にしらけて、ぐったりとなったのでございます。
男はとにかく、嫁はほんとうに、うしろ手に縛りあげると、細引を持ち出すのを、巡査が叱りましたが、叱られるとなお吼り立って、たちまち、裁判所、村役場、派出所も村会も一所にして、姦通の告訴をすると、のぼせ上がるので、どこへもやらぬ監禁同様という趣で、ひとまず檀那寺まで引き上げることになりましたが、活き証拠だと言い張って、嫁に衣服を着せることを肯きませんので、巡査さんが、雪のかかった外套を掛けまして、何と、しかし、ぞろぞろと村の女小児まであとへついて、寺へ参ったのでございますが。」
境はききつつ、ただ幾度も歎息した。
「――遁がしたのでございましょうな。画師さんはその夜のうちに、寺から影をかくしました。これはそうあるべきでございます。――さて、聞きますれば、――伜の親友、兄弟同様の客じゃから、伜同様に心得る。……半年あまりも留守を守ってさみしく一人で居ることゆえ、嫁女や、そなたも、伜と思うて、つもる話もせいよ、と申して、身じまいをさせて、衣ものまで着かえさせ、寝る時は、にこにこ笑いながら、床を並べさせたのだと申すことで。……嫁御はなるほど、わけしりの弟分の膝に縋って泣きたいこともありましたろうし、芸妓でしくじるほどの画師さんでございます、背中を擦るぐらいはしかねますまい、……でございますな。
代官婆の憤り方をお察しなさりとう存じます。学士先生は電報で呼ばれました。何と宥めても承知をしません。ぜひとも姦通の訴訟を起こせ。いや、恥も外聞もない、代官といえば帯刀じゃ。武士たるものは、不義ものを成敗するはかえって名誉じゃ、とこうまで間違っては事面倒で。たって、裁判沙汰にしないとなら、生きておらぬ。咽喉笛鉄砲じゃ、鎌腹じゃ、奈良井川の淵を知らぬか。……桔梗ヶ池へ身を沈める……こ、こ、この婆め、沙汰の限りな、桔梗ヶ池へ沈めますものか、身投げをしようとしたら、池が投げ出しましょう。」
と言って、料理番は苦笑した。
「また、今時に珍しい、学校でも、倫理、道徳、修身の方を御研究もなされば、お教えもなさいます、学士は至っての御孝心。かねて評判な方で、嫁御をいたわる傍の目には、ちと弱すぎると思うほどなのでございますから、困じ果てて、何とも申しわけも面目もなけれども、とにかく一度、この土地へ来てもらいたい。万事はその上で。と言う――学士先生から画師さんへのお頼みでございます。
さて、これは決闘状より可恐しい。……もちろん、村でも不義ものの面へ、唾と石とを、人間の道のためとか申して騒ぐ方が多い真中でございますから。……どの面さげて画師さんが奈良井へ二度面がさらされましょう、旦那。」
「これは何と言われても来られまいなあ。」
「と言って、学士先生との義理合いでは来ないわけにはまいりますまい。ところで、その画師さんは、その時、どこに居たと思し召します。……いろのことから、怪しからん、横頬を撲ったという細君の、袖のかげに、申しわけのない親御たちのお位牌から頭をかくして、尻も足もわなわなと震えていましたので、弱った方でございます。……必ず、連れて参ります――と代官婆に、誓って約束をなさいまして、学士先生は東京へ立たれました。
その上京中。その間のことなのでございます、――柳橋の蓑吉姉さん……お艶様が……ここへお泊まりになりましたのは。……」
六
「――どんな用事の御都合にいたせ、夜中、近所が静まりましてから、お艶様が、おたずねになろうというのが、代官婆の処と承っては、一人ではお出し申されません。ただ道だけ聞けば、とのことでございましたけれども、おともが直接について悪ければ、垣根、裏口にでもひそみまして、内々守って進じようで……帳場が相談をしまして、その人選に当たりましたのが、この、ふつつかな私なんでございました。……
お支度がよろしくばと、私、これへ……このお座敷へ提灯を持って伺いますと……」
「ああ、二つ巴の紋のだね。」と、つい誘われるように境が言った。
「へい。」
と暗く、含むような、頤で返事を吸って、
「よく御存じで。」
「二度まで、湯殿に点いていて、知っていますよ。」
「へい、湯殿に……湯殿に提灯を点けますようなことはございませんが、――それとも、へーい。」
この様子では、今しがた庭を行く時、この料理番とともに提灯が通ったなどとは言い出せまい。境は話を促した。
「それから。」
「ちと変な気がいたしますが。――ええ、ざっとお支度済みで、二度めの湯上がりに薄化粧をなすった、めしものの藍鼠がお顔の影に藤色になって見えますまで、お色の白さったらありません、姿見の前で……」
境が思わず振り返ったことは言うまでもない。
「金の吸口で、烏金で張った煙管で、ちょっと歯を染めなさったように見えます。懐紙をな、眉にあてて私を、おも長に御覧なすって、
――似合いますか。――」
「むむ、む。」と言う境の声は、氷を頬張ったように咽喉に支えた。
「畳のへりが、桔梗で白いように見えました。
(ええ、勿体ないほどお似合いで。)と言うのを聞いて、懐紙をおのけになると、眉のあとがいま剃立ての真青で。……(桔梗ヶ池の奥様とは?)――(お姉妹……いや一倍お綺麗で)と罰もあたれ、そう申さずにはおられなかったのでございます。
ここをお聞きなさいまし。」……
(お艶さん、どうしましょう。)
「雪がちらちら雨まじりで降る中を、破れた蛇目傘で、見すぼらしい半纏で、意気にやつれた画師さんの細君が、男を寝取った情婦とも言わず、お艶様――本妻が、その体では、情婦だって工面は悪うございます。目を煩らって、しばらく親許へ、納屋同然な二階借りで引き籠もって、内職に、娘子供に長唄なんか、さらって暮らしていなさるところへ、思い余って、細君が訪ねたのでございます。」
(お艶さん、私はそう存じます。私が、貴女ほどお美しければ、「こんな女房がついています。何の夫が、木曾街道の女なんぞに。」と姦通呼ばわりをするその婆に、そう言ってやるのが一番早分りがすると思います。)(ええ、何よりですともさ。それよりか、なおその上に、「お妾でさえこのくらいだ。」と言って私を見せてやります方が、上になお奥さんという、奥行があってようございます。――「奥さんのほかに、私ほどのいろがついています。田舎で意地ぎたなをするもんですか。」婆にそう言ってやりましょうよ。そのお嫁さんのためにも。)――
「――あとで、お艶様の、したためもの、かきおきなどに、この様子が見えることに、何ともどうも、つい立ち至ったのでございまして。……これでございますから、何の木曾の山猿なんか。しかし、念のために土地の女の風俗を見ようと、山王様御参詣は、その下心だったかとも存じられます。……ところを、桔梗ヶ池の、凄い、美しいお方のことをおききなすって、これが時々人目にも触れるというので、自然、代官婆の目にもとまっていて、自分の容色の見劣りがする段には、美しさで勝つことはできない、という覚悟だったと思われます。――もっとも西洋剃刀をお持ちだったほどで。――それでいけなければ、世の中に煩い婆、人だすけに切っちまう――それも、かきおきにございました。
雪道を雁股まで、棒端をさして、奈良井川の枝流れの、青白いつつみを参りました。氷のような月が皎々と冴えながら、山気が霧に凝って包みます。巌石、がらがらの細谿川が、寒さに水涸れして、さらさらさらさら、……ああ、ちょうど、あの音、……洗面所の、あの音でございます。」
「ちょっと、あの水口を留めて来ないか、身体の筋々へ沁み渡るようだ。」
「御同然でございまして……ええ、しかし、どうも。」
「一人じゃいけないかね。」
「貴方様は?」
「いや、なに、どうしたんだい、それから。」
「岩と岩に、土橋が架かりまして、向うに槐の大きいのが枯れて立ちます。それが危なかしく、水で揺れるように月影に見えました時、ジイと、私の持ちました提灯の蝋燭が煮えまして、ぼんやり灯を引きます。(暗くなると、巴が一つになって、人魂の黒いのが歩行くようね。)お艶様の言葉に――私、はッとして覗きますと、不注意にも、何にも、お綺麗さに、そわつきましたか、ともしかけが乏しくなって、かえの蝋燭が入れてございません。――おつき申してはおります、月夜だし、足許に差支えはございませんようなものの、当館の紋の提灯は、ちょっと土地では幅が利きます。あなたのおためにと思いまして、道はまだ半町足らず、つい一っ走りで、駈け戻りました。これが間違いでございました。」
声も、言も、しばらく途絶えた。
「裏土塀から台所口へ、……まだ入りませんさきに、ドーンと天狗星の落ちたような音がしました。ドーンと谺を返しました。鉄砲でございます。」
「…………」
「びっくりして土手へ出ますと、川べりに、薄い銀のようでございましたお姿が見えません。提灯も何も押っ放り出して、自分でわッと言って駈けつけますと、居処が少しずれて、バッタリと土手っ腹の雪を枕に、帯腰が谿川の石に倒れておいででした。(寒いわ。)と現のように、(ああ、冷たい。)とおっしゃると、その唇から糸のように、三条に分かれた血が垂れました。
――何とも、かとも、おいたわしいことに――裾をつつもうといたします、乱れ褄の友染が、色をそのままに岩に凍りついて、霜の秋草に触るようだったのでございます。――人も立ち会い、抱き起こし申す縮緬が、氷でバリバリと音がしまして、古襖から錦絵を剥がすようで、この方が、お身体を裂く思いがしました。胸に溜まった血は暖かく流れましたのに。――
撃ちましたのは石松で。――親仁が、生計の苦しさから、今夜こそは、どうでも獲ものをと、しとぎ餅で山の神を祈って出ました。玉味噌を塗って、串にさして焼いて持ちます、その握飯には、魔が寄ると申します。がりがり橋という、その土橋にかかりますと、お艶様の方では人が来るのを、よけようと、水が少ないから、つい川の岩に片足おかけなすった。桔梗ヶ池の怪しい奥様が、水の上を横に伝うと見て、パッと臥打ちに狙いをつけた。俺は魔を退治たのだ、村方のために。と言って、いまもって狂っております。――
旦那、旦那、旦那、提灯が、あれへ、あ、あの、湯どのの橋から、……あ、あ、ああ、旦那、向うから、私が来ます、私とおなじ男が参ります。や、並んで、お艶様が。」
境も歯の根をくいしめて、
「しっかりしろ、可恐しくはない、可恐しくはない。……怨まれるわけはない。」
電燈の球が巴になって、黒くふわりと浮くと、炬燵の上に提灯がぼうと掛かった。
「似合いますか。」
座敷は一面の水に見えて、雪の気はいが、白い桔梗の汀に咲いたように畳に乱れ敷いた。
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