三
「どっちです、白鷺かね、五位鷺かね。」
「ええ――どっちもでございますな。両方だろうと思うんでございますが。」
料理番の伊作は来て、窓下の戸際に、がッしり腕組をして、うしろ向きに立って言った。
「むこうの山口の大林から下りて来るんでございます。」
言の中にも顕われる、雪の降りやんだ、その雲の一方は漆のごとく森が黒い。
「不断のことではありませんが、……この、旦那、池の水の涸れるところを狙うんでございます。鯉も鮒も半分鰭を出して、あがきがつかないのでございますから。」
「怜悧な奴だね。」
「馬鹿な人間は困っちまいます――魚が可哀相でございますので……そうかと言って、夜一夜、立番をしてもおられません。旦那、お寒うございます。おしめなさいまし。……そちこち御註文の時刻でございますから、何か、不手際なものでも見繕って差し上げます。」
「都合がついたら、君が来て一杯、ゆっくりつき合ってくれないか。――私は夜ふかしは平気だから。一所に……ここで飲んでいたら、いくらか案山子になるだろう。……」
「――結構でございます。……もう台所は片附きました、追ッつけ伺います。――いたずらな餓鬼どもめ。」
と、あとを口こごとで、空を睨みながら、枝をざらざらと潜って行く。
境は、しかし、あとの窓を閉めなかった。もちろん、ごく細目には引いたが。――実は、雪の池のここへ来て幾羽の鷺の、魚を狩る状を、さながら、炬燵で見るお伽話の絵のように思ったのである。すわと言えば、追い立つるとも、驚かすとも、その場合のこととして……第一、気もそぞろなことは、二度まで湯殿の湯の音は、いずれの隙間からか雪とともに、鷺が起ち込んで浴みしたろう、とそうさえ思ったほどであった。
そのままじっと覗いていると、薄黒く、ごそごそと雪を踏んで行く、伊作の袖の傍を、ふわりと巴の提灯が点いて行く。おお今、窓下では提灯を持ってはいなかったようだ。――それに、もうやがて、庭を横ぎって、濡縁か、戸口に入りそうだ、と思うまで距たった。遠いまで小さく見える、としばらくして、ふとあとへ戻るような、やや大きくなって、あの土間廊下の外の、萱屋根のつま下をすれずれに、だんだんこなたへ引き返す、引き返すのが、気のせいだか、いつの間にか、中へはいって、土間の暗がりを点れて来る。……橋がかり、一方が洗面所、突当りが湯殿……ハテナとぎょッとするまで気がついたのは、その点れて来る提灯を、座敷へ振り返らずに、逆に窓から庭の方に乗り出しつつ見ていることであった。
トタンに消えた。――頭からゾッとして、首筋を硬く振り向くと、座敷に、白鷺かと思う女の後ろ姿の頸脚がスッと白い。
違い棚の傍に、十畳のその辰巳に据えた、姿見に向かった、うしろ姿である。……湯気に山茶花の悄れたかと思う、濡れたように、しっとりと身についた藍鼠の縞小紋に、朱鷺色と白のいち松のくっきりした伊達巻で乳の下の縊れるばかり、消えそうな弱腰に、裾模様が軽く靡いて、片膝をやや浮かした、褄を友染がほんのり溢れる。露の垂りそうな円髷に、桔梗色の手絡が青白い。浅葱の長襦袢の裏が媚かしく搦んだ白い手で、刷毛を優しく使いながら、姿見を少しこごみなりに覗くようにして、化粧をしていた。
境は起つも坐るも知らず息を詰めたのである。
あわれ、着た衣は雪の下なる薄もみじで、膚の雪が、かえって薄もみじを包んだかと思う、深く脱いだ襟脚を、すらりと引いて掻き合わすと、ぼっとりとして膝近だった懐紙を取って、くるくると丸げて、掌を拭いて落としたのが、畳へ白粉のこぼれるようであった。
衣摺れが、さらりとした時、湯どのできいた人膚に紛うとめきが薫って、少し斜めに居返ると、煙草を含んだ。吸い口が白く、艶々と煙管が黒い。
トーンと、灰吹の音が響いた。
きっと向いて、境を見た瓜核顔は、目ぶちがふっくりと、鼻筋通って、色の白さは凄いよう。――気の籠もった優しい眉の両方を、懐紙でひたと隠して、大きな瞳でじっと視て、
「……似合いますか。」
と、莞爾した歯が黒い。と、莞爾しながら、褄を合わせざまにすっくりと立った。顔が鴨居に、すらすらと丈が伸びた。
境は胸が飛んで、腰が浮いて、肩が宙へ上がった。ふわりと、その婦の袖で抱き上げられたと思ったのは、そうでない、横に口に引き銜えられて、畳を空に釣り上げられたのである。
山が真黒になった。いや、庭が白いと、目に遮った時は、スッと窓を出たので、手足はいつか、尾鰭になり、我はぴちぴちと跳ねて、婦の姿は廂を横に、ふわふわと欄間の天人のように見えた。
白い森も、白い家も、目の下に、たちまちさっと……空高く、松本城の天守をすれすれに飛んだように思うと、水の音がして、もんどり打って池の中へ落ちると、同時に炬燵でハッと我に返った。
池におびただしい羽音が聞こえた。
この案山子になど追えるものか。
バスケットの、蔦の血を見るにつけても、青い呼吸をついてぐったりした。
廊下へ、しとしとと人の音がする。ハッと息を引いて立つと、料理番が膳に銚子を添えて来た。
「やあ、伊作さん。」
「おお、旦那。」
四
「昨年のちょうど今ごろでございました。」
料理番はひしと、身を寄せ、肩をしめて話し出した。
「今年は今朝から雪になりましたが、そのみぎりは、忘れもしません、前日雪が降りました。積もり方は、もっと多かったのでございます。――二時ごろに、目の覚めますような御婦人客が、ただお一方で、おいでになったのでございます。――目の覚めるようだと申しましても派手ではありません。婀娜な中に、何となく寂しさのございます、二十六七のお年ごろで、高等な円髷でおいででございました。――御容子のいい、背のすらりとした、見立ての申し分のない、しかし奥様と申すには、どこか媚めかしさが過ぎております。そこは、田舎ものでも、大勢お客様をお見かけ申しておりますから、じきにくろうと衆だと存じましたのでございまして、これが柳橋の蓑吉さんという姐さんだったことが、後に分かりました。宿帳の方はお艶様でございます。
その御婦人を、旦那――帳場で、このお座敷へ御案内申したのでございます。
風呂がお好きで……もちろん、お嫌な方もたんとございますまいが、あの湯へ二度、お着きになって、すぐと、それに夜分に一度、お入りなすったのでございます――都合で、新館の建出しは見合わせておりますが、温泉ごのみに石で畳みました風呂は、自慢でございまして、旧の二階三階のお客様にも、ちと遠うございますけれども、お入りを願っておりましたところが――実はその、時々、不思議なことがありますので、このお座敷も同様にしばらく使わずにおきましたのを、旦那のような方に試みていただけば、おのずと変なこともなくなりましょうと、相談をいたしまして、申すもいかがでございますが、今日久しぶりで、湧かしも使いもいたしましたような次第なのでございます。
ところで、お艶様、その御婦人でございますが、日のうち一風呂お浴びになりますと、(鎮守様のお宮は、)と聞いて、お参詣なさいました。贄川街道よりの丘の上にございます。――山王様のお社で、むかし人身御供があがったなどと申し伝えてございます。森々と、もの寂しいお社で。……村社はほかにもございますが、鎮守と言う、お尋ねにつけて、その儀を帳場で申しますと……道を尋ねて、そこでお一人でおのぼりなさいました。目を少々お煩いのようで、雪がきらきらして疼むからと言って、こんな土地でございます、ほんの出来あいの黒い目金を買わせて、掛けて、洋傘を杖のようにしてお出掛けで。――これは鎮守様へ参詣は、奈良井宿一統への礼儀挨拶というお心だったようでございます。
無事に、まずお帰りなすって、夕飯の時、お膳で一口あがりました。――旦那の前でございますが、板前へと、御丁寧にお心づけを下すったものでございますから私……ちょいと御挨拶に出ました時、こういうおたずねでございます――お社へお供物にきざ柿と楊枝とを買いました、……石段下のそこの小店のお媼さんの話ですが、山王様の奥が深い森で、その奥に桔梗ヶ原という、原の中に、桔梗の池というのがあって、その池に、お一方、お美しい奥様がいらっしゃると言うことですが、ほんとうですか。――
――まったくでございます、と皆まで承わらないで、私が申したのでございます。
論より証拠、申して、よいか、悪いか存じませんが、現に私が一度見ましたのでございます。」
「…………」
「桔梗ヶ原とは申しますが、それは、秋草は綺麗に咲きます、けれども、桔梗ばかりというのではございません。ただその大池の水が真桔梗の青い色でございます。桔梗はかえって、白い花のが見事に咲きますのでございまして。……
四年あとになりますが、正午というのに、この峠向うの藪原宿から火が出ました。正午の刻の火事は大きくなると、何国でも申しますが、全く大焼けでございました。
山王様の丘へ上がりますと、一目に見えます。火の手は、七条にも上がりまして、ぱちぱちぱんぱんと燃える音が手に取るように聞こえます。……あれは山間の滝か、いや、ぽんぷの水の走るのだと申すくらい。この大南風の勢いでは、山火事になって、やがて、ここもとまで押し寄せはしまいかと案じますほどの激しさで、駈けつけるものは駈けつけます、騒ぐものは騒ぐ。私なぞは見物の方で、お社前は、おなじ夥間で充満でございました。
二百十日の荒れ前で、残暑の激しい時でございましたから、ついつい少しずつお社の森の中へ火を見ながら入りましたにつけて、不断は、しっかり行くまじきとしてある処ではございますが、この火の陽気で、人の気の湧いている場所から、深いといっても半町とはない。大丈夫と。ところで、私陰気もので、あまり若衆づきあいがございませんから、誰を誘うでもあるまいと、杉檜の森々としました中を、それも、思ったほど奥が深くもございませんで、一面の草花。……白い桔梗でへりを取った百畳敷ばかりの真青な池が、と見ますと、その汀、ものの二……三……十間とはない処に……お一人、何ともおうつくしい御婦人が、鏡台を置いて、斜めに向かって、お化粧をなさっていらっしゃいました。
お髪がどうやら、お召ものが何やら、一目見ました、その時の凄さ、可恐しさと言ってはございません。ただいま思い出しましても御酒が氷になって胸へ沁みます。ぞっとします。……それでいてそのお美しさが忘れられません。勿体ないようでございますけれども、家のないもののお仏壇に、うつしたお姿と存じまして、一日でも、この池の水を視めまして、その面影を思わずにはおられませんのでございます。――さあ、その時は、前後も存ぜず、翼の折れた鳥が、ただ空から落ちるような思いで、森を飛び抜けて、一目散に、高い石段を駈け下りました。私がその顔の色と、怯えた様子とてはなかったそうでございましてな。……お社前の火事見物が、一雪崩になって遁げ下りました。森の奥から火を消すばかり冷たい風で、大蛇がさっと追ったようで、遁げた私は、野兎の飛んで落ちるように見えたということでございまして。
とこの趣を――お艶様、その御婦人に申しますと、――そうしたお方を、どうして、女神様とも、お姫様とも言わないで、奥さまと言うんでしょう。さ、それでございます。私はただ目が暗んでしまいましたが、前々より、ふとお見上げ申したものの言うのでは、桔梗の池のお姿は、眉をおとしていらっしゃりまするそうで……」
境はゾッとしながら、かえって炬燵を傍へ払った。
「どなたの奥方とも存ぜずに、いつとなくそう申すのでございまして……旦那。――お艶様に申しますと、じっとお聞きなすって――だと、その奥さまのお姿は、ほかにも見た方がありますか、とおっしゃいます――ええ、月の山の端、花の麓路、螢の影、時雨の提灯、雪の川べりなど、随分村方でも、ちらりと拝んだものはございます。――お艶様はこれをきいて、猪口を下に置いて、なぜか、しょんぼりとおうつむきなさいました。――
――ところで旦那……その御婦人が、わざわざ木曾のこの山家へ一人旅をなされた、用事がでございまする。」
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