二
「何だい、どうしたんです。」
「ああ、旦那。」と暗夜の庭の雪の中で。
「鷺が来て、魚を狙うんでございます。」
すぐ窓の外、間近だが、池の水を渡るような料理番――その伊作の声がする。
「人間が落ちたか、獺でも駈け廻るのかと思った、えらい音で驚いたよ。」
これは、その翌日の晩、おなじ旅店の、下座敷でのことであった。……
境は奈良井宿に逗留した。ここに積もった雪が、朝から降り出したためではない。別にこのあたりを見物するためでもなかった。……昨夜は、あれから――鶫を鍋でと誂えたのは、しゃも、かしわをするように、膳のわきで火鉢へ掛けて煮るだけのこと、と言ったのを、料理番が心得て、そのぶつ切りを、皿に山もり。目笊に一杯、葱のざくざくを添えて、醤油も砂糖も、むきだしに担ぎあげた。お米が烈々と炭を継ぐ。
越の方だが、境の故郷いまわりでは、季節になると、この鶫を珍重すること一通りでない。料理屋が鶫御料理、じぶ、おこのみなどという立看板を軒に掲げる。鶫うどん、鶫蕎麦と蕎麦屋までが貼紙を張る。ただし安価くない。何の椀、どの鉢に使っても、おん羮、おん小蓋の見識で。ぽっちり三臠、五臠よりは附けないのに、葱と一所に打ち覆けて、鍋からもりこぼれるような湯気を、天井へ立てたは嬉しい。
あまっさえ熱燗で、熊の皮に胡坐で居た。
芸妓の化けものが、山賊にかわったのである。
寝る時には、厚衾に、この熊の皮が上へ被さって、袖を包み、蔽い、裙を包んだのも面白い。あくる日、雪になろうとてか、夜嵐の、じんと身に浸むのも、木曾川の瀬の凄いのも、ものの数ともせず、酒の血と、獣の皮とで、ほかほかして三階にぐっすり寝込んだ。
次第であるから、朝は朝飯から、ふっふっと吹いて啜るような豆腐の汁も気に入った。
一昨日の旅館の朝はどうだろう。……溝の上澄みのような冷たい汁に、おん羮ほどに蜆が泳いで、生煮えの臭さといったらなかった。……
山も、空も氷を透すごとく澄みきって、松の葉、枯木の閃くばかり、晃々と陽がさしつつ、それで、ちらちらと白いものが飛んで、奥山に、熊が人立して、針を噴くような雪であった。
朝飯が済んでしばらくすると、境はしくしくと腹が疼みだした。――しばらくして、二三度はばかりへ通った。
あの、饂飩の祟りである。鶫を過食したためでは断じてない。二ぜん分を籠みにした生がえりのうどん粉の中毒らない法はない。お腹を圧えて、饂飩を思うと、思う下からチクチクと筋が動いて痛み出す。――もっとも、戸外は日当りに針が飛んでいようが、少々腹が痛もうが、我慢して、汽車に乗れないという容体ではなかったので。……ただ、誰も知らない。この宿の居心のいいのにつけて、どこかへのつらあてにと、逗留する気になったのである。
ところで座敷だが――その二度めだったか、厠のかえりに、わが座敷へ入ろうとして、三階の欄干から、ふと二階を覗くと、階子段の下に、開けた障子に、箒とはたきを立て掛けた、中の小座敷に炬燵があって、床の間が見通される。……床に行李と二つばかり重ねた、あせた萌葱の風呂敷づつみの、真田紐で中結わえをしたのがあって、旅商人と見える中年の男が、ずッぷり床を背負って当たっていると、向い合いに、一人の、中年増の女中がちょいと浮腰で、膝をついて、手さきだけ炬燵に入れて、少し仰向くようにして、旅商人と話をしている。
なつかしい浮世の状を、山の崖から掘り出して、旅宿に嵌めたように見えた。
座敷は熊の皮である。境は、ふと奥山へ棄てられたように、里心が着いた。
一昨日松本で城を見て、天守に上って、その五層めの朝霜の高層に立って、ぞっとしたような、雲に連なる、山々のひしと再び窓に来て、身に迫るのを覚えもした。バスケットに、等閑に絡めたままの、城あとの崩れ堀の苔むす石垣を這って枯れ残った小さな蔦の紅の、鶫の血のしたたるごときのを見るにつけても。……急に寂しい。――「お米さん、下階に座敷はあるまいか。――炬燵に入ってぐっすりと寝たいんだ。」
二階の部屋々々は、時ならず商人衆の出入りがあるからと、望むところの下座敷、おも屋から、土間を長々と板を渡って離れ座敷のような十畳へ導かれたのであった。
肱掛窓の外が、すぐ庭で、池がある。
白雪の飛ぶ中に、緋鯉の背、真鯉の鰭の紫は美しい。梅も松もあしらったが、大方は樫槻の大木である。朴の樹の二抱えばかりなのさえすっくと立つ。が、いずれも葉を振るって、素裸の山神のごとき装いだったことは言うまでもない。
午後三時ごろであったろう。枝に梢に、雪の咲くのを、炬燵で斜違いに、くの字になって――いい婦だとお目に掛けたい。
肱掛窓を覗くと、池の向うの椿の下に料理番が立って、つくねんと腕組して、じっと水を瞻るのが見えた。例の紺の筒袖に、尻からすぽんと巻いた前垂で、雪の凌ぎに鳥打帽を被ったのは、いやしくも料理番が水中の鯉を覗くとは見えない。大きな鷭が沼の鰌を狙っている形である。山も峰も、雲深くその空を取り囲む。
境は山間の旅情を解した。「料理番さん、晩の御馳走に、その鯉を切るのかね。」「へへ。」と薄暗い顔を上げてニヤリと笑いながら、鳥打帽を取ってお時儀をして、また被り直すと、そのままごそごそと樹を潜って廂に隠れる。
帳場は遠し、あとは雪がやや繁くなった。
同時に、さらさらさらさらと水の音が響いて聞こえる。「――また誰か洗面所の口金を開け放したな。」これがまた二度めで。……今朝三階の座敷を、ここへ取り替えない前に、ちと遠いが、手水を取るのに清潔だからと女中が案内をするから、この離座敷に近い洗面所に来ると、三カ所、水道口があるのにそのどれを捻っても水が出ない。さほどの寒さとは思えないが凍てたのかと思って、谺のように高く手を鳴らして女中に言うと、「あれ、汲み込みます。」と駈け出して行くと、やがて、スッと水が出た。――座敷を取り替えたあとで、はばかりに行くと、ほかに手水鉢がないから、洗面所の一つを捻ったが、その時はほんのたらたらと滴って、辛うじて用が足りた。
しばらくすると、しきりに洗面所の方で水音がする。炬燵から潜り出て、土間へ下りて橋がかりからそこを覗くと、三ツの水道口、残らず三条の水が一齊にざっと灌いで、徒らに流れていた。たしない水らしいのに、と一つ一つ、丁寧にしめて座敷へ戻った。が、その時も料理番が池のへりの、同じ処につくねんと彳んでいたのである。くどいようだが、料理番の池に立ったのは、これで二度めだ。……朝のは十時ごろであったろう。トその時料理番が引っ込むと、やがて洗面所の水が、再び高く響いた。
またしても三条の水道が、残らず開け放しに流れている。おなじこと、たしない水である。あとで手を洗おうとする時は、きっと涸れるのだからと、またしても口金をしめておいたが。――
いま、午後の三時ごろ、この時も、さらにその水の音が聞こえ出したのである。庭の外には小川も流れる。奈良井川の瀬も響く。木曾へ来て、水の音を気にするのは、船に乗って波を見まいとするようなものである。望みこそすれ、嫌いも避けもしないのだけれど、不思議に洗面所の開け放しばかり気になった。
境はまた廊下へ出た。果して、三条とも揃って――しょろしょろと流れている。「旦那さん、お風呂ですか。」手拭を持っていたのを見て、ここへ火を直しに、台十能を持って来かかった、お米が声を掛けた。「いや――しかし、もう入れるかい。」「じきでございます。……今日はこの新館のが湧きますから。」なるほど、雪の降りしきるなかに、ほんのりと湯の香が通う。洗面所の傍の西洋扉が湯殿らしい。この窓からも見える。新しく建て増した柱立てのまま、筵がこいにしたのもあり、足場を組んだ処があり、材木を積んだ納屋もある。が、荒れた厩のようになって、落葉に埋もれた、一帯、脇本陣とでも言いそうな旧家が、いつか世が成金とか言った時代の景気につれて、桑も蚕も当たったであろう、このあたりも火の燃えるような勢いに乗じて、贄川はその昔は、煮え川にして、温泉の湧いた処だなぞと、ここが温泉にでもなりそうな意気込みで、新館建増しにかかったのを、この一座敷と、湯殿ばかりで、そのまま沙汰やみになったことなど、あとで分かった。「女中さんかい、その水を流すのは。」閉めたばかりの水道の栓を、女中が立ちながら一つずつ開けるのを視て、たまらず詰るように言ったが、ついでにこの仔細も分かった。……池は、樹の根に樋を伏せて裏の川から引くのだが、一年に一二度ずつ水涸れがあって、池の水が干ようとする。鯉も鮒も、一処へ固まって、泡を立てて弱るので、台所の大桶へ汲み込んだ井戸の水を、はるばるとこの洗面所へ送って、橋がかりの下を潜らして、池へ流し込むのだそうであった。
木曾道中の新版を二三種ばかり、枕もとに散らした炬燵へ、ずぶずぶと潜って、「お米さん、……折り入って、お前さんに頼みがある。」と言いかけて、初々しくちょっと俯向くのを見ると、猛然として、喜多八を思い起こして、わが境は一人で笑った。「ははは、心配なことではないよ。――おかげで腹あんばいも至ってよくなったし、……午飯を抜いたから、晩には入り合せにかつ食い、大いに飲むとするんだが、いまね、伊作さんが渋苦い顔をして池を睨んで行きました。どうも、鯉のふとり工合を鑑定したものらしい……きっと今晩の御馳走だと思うんだ。――昨夜の鶫じゃないけれど、どうも縁あって池の前に越して来て、鯉と隣附き合いになってみると、目の前から引き上げられて、俎で輪切りは酷い。……板前の都合もあろうし、またわがままを言うのではない。……
活づくりはお断わりだが、実は鯉汁大歓迎なんだ。しかし、魚屋か、何か、都合して、ほかの鯉を使ってもらうわけには行くまいか。――差し出たことだが、一尾か二尾で足りるものなら、お客は幾人だか、今夜の入用だけは私がその原料を買ってもいいから。」女中の返事が、「いえ、この池のは、いつもお料理にはつかいませんのでございます。うちの旦那も、おかみさんも、お志の仏の日には、鮒だの、鯉だの、……この池へ放しなさるんでございます。料理番さんもやっぱり。……そして料理番は、この池のを大事にして、可愛がって、そのせいですか、隙さえあれば、黙ってああやって庭へ出て、池を覗いていますんです。」「それはお誂えだ。ありがたい。」境は礼を言ったくらいであった。
雪の頂から星が一つ下がったように、入相の座敷に電燈の点いた時、女中が風呂を知らせに来た。
「すぐに膳を。」と声を掛けておいて、待ち構えた湯どのへ、一散――例の洗面所の向うの扉を開けると、上がり場らしいが、ハテ真暗である。いやいや、提灯が一燈ぼうと薄白く点いている。そこにもう一枚扉があって閉まっていた。その裡が湯どのらしい。
「半作事だと言うから、まだ電燈が点かないのだろう。おお、二つ巴の紋だな。大星だか由良之助だかで、鼻を衝く、鬱陶しい巴の紋も、ここへ来ると、木曾殿の寵愛を思い出させるから奥床しい。」
と帯を解きかけると、ちゃぶり――という――人が居て湯を使う気勢がする。この時、洗面所の水の音がハタとやんだ。
境はためらった。
が、いつでもかまわぬ。……他が済んで、湯のあいた時を知らせてもらいたいと言っておいたのである。誰も入ってはいまい。とにかくと、解きかけた帯を挟んで、ずッと寄って、その提灯の上から、扉にひったりと頬をつけて伺うと、袖のあたりに、すうーと暗くなる、蝋燭が、またぽうと明くなる。影が痣になって、巴が一つ片頬に映るように陰気に沁み込む、と思うと、ばちゃり……内端に湯が動いた。何の隙間からか、ぷんと梅の香を、ぬくもりで溶かしたような白粉の香がする。
「婦人だ」
何しろ、この明りでは、男客にしろ、一所に入ると、暗くて肩も手も跨ぎかねまい。乳に打着かりかねまい。で、ばたばたと草履を突っ掛けたまま引き返した。
「もう、お上がりになりまして?」と言う。
通いが遠い。ここで燗をするつもりで、お米がさきへ銚子だけ持って来ていたのである。
「いや、あとにする。」
「まあ、そんなにお腹がすいたんですの。」
「腹もすいたが、誰かお客が入っているから。」
「へい、……こっちの湯どのは、久しく使わなかったのですが、あの、そう言っては悪うございますけど、しばらくぶりで、お掃除かたがた旦那様に立てましたのでございますから、……あとで頂きますまでも、……あの、まだどなたも。」
「かまやしない。私はゆっくりでいいんだが、婦人の客のようだったぜ。」
「へい。」
と、おかしなベソをかいた顔をすると、手に持つ銚子が湯沸しにカチカチカチと震えたっけ、あとじさりに、ふいと立って、廊下に出た。一度ひっそり跫音を消すや否や、けたたましい音を、すたんと立てて、土間の板をはたはたと鳴らして駈け出した。
境はきょとんとして、
「何だい、あれは……」
やがて膳を持って顕われたのが……お米でない、年増のに替わっていた。
「やあ、中二階のおかみさん。」
行商人と、炬燵で睦まじかったのはこれである。
「御亭主はどうしたい。」
「知りませんよ。」
「ぜひ、承りたいんだがね。」
半ば串戯に、ぐッと声を低くして、
「出るのかい……何か……あの、湯殿へ……まったく?」
「それがね、旦那、大笑いなんでございますよ。……どなたもいらっしゃらないと思って、申し上げましたのに、御婦人の方が入っておいでだって、旦那がおっしゃったと言うので、米ちゃん、大変な臆病なんですから。……久しくつかいません湯殿ですから、内のお上さんが、念のために、――」
「ああそうか、……私はまた、ちょっと出るのかと思ったよ。」
「大丈夫、湯どのへは出ませんけれど、そのかわりお座敷へはこんなのが、ね、貴方。」
「いや、結構。」
お酌はこの方が、けっく飲める。
夜は長い、雪はしんしんと降り出した。床を取ってから、酒をもう一度、その勢いでぐっすり寝よう。晩飯はいい加減で膳を下げた。
跫音が入り乱れる。ばたばたと廊下へ続くと、洗面所の方へ落ち合ったらしい。ちょろちょろと水の音がまた響き出した。男の声も交じって聞こえる。それが止むと、お米が襖から円い顔を出して、
「どうぞ、お風呂へ。」
「大丈夫か。」
「ほほほほ。」
とちとてれたように笑うと、身を廊下へ引くのに、押し続いて境は手拭を提げて出た。
橋がかりの下り口に、昨夜帳場に居た坊主頭の番頭と、女中頭か、それとも女房かと思う老けた婦と、もう一人の女中とが、といった形に顔を並べて、一団になってこなたを見た。そこへお米の姿が、足袋まで見えてちょこちょこと橋がかりを越えて渡ると、三人の懐へ飛び込むように一団。
「御苦労様。」
わがために、見とどけ役のこの人数で、風呂を検べたのだと思うから声を掛けると、一度に揃ってお時儀をして、屋根が萱ぶきの長土間に敷いた、そのあゆみ板を渡って行く。土間のなかばで、そのおじやのかたまりのような四人の形が暗くなったのは、トタンに、一つ二つ電燈がスッと息を引くように赤くなって、橋がかりのも洗面所のも一齊にパッと消えたのである。
と胸を吐くと、さらさらさらさらと三筋に……こう順に流れて、洗面所を打つ水の下に、さっきの提灯が朦朧と、半ば暗く、巴を一つ照らして、墨でかいた炎か、鯰の跳ねたか、と思う形に点れていた。
いまにも電燈が点くだろう。湯殿口へ、これを持って入る気で、境がこごみざまに手を掛けようとすると、提灯がフッと消えて見えなくなった。
消えたのではない。やっぱりこれが以前のごとく、湯殿の戸口に点いていた。これはおのずから雫して、下の板敷の濡れたのに、目の加減で、向うから影が映したものであろう。はじめから、提灯がここにあった次第ではない。境は、斜めに影の宿った水中の月を手に取ろうとしたと同じである。
爪さぐりに、例の上がり場へ……で、念のために戸口に寄ると、息が絶えそうに寂寞しながら、ばちゃんと音がした。ぞッと寒い。湯気が天井から雫になって点滴るのではなしに、屋根の雪が溶けて落ちるような気勢である。
ばちゃん、……ちゃぶりと微かに湯が動く。とまた得ならず艶な、しかし冷たい、そして、におやかな、霧に白粉を包んだような、人膚の気がすッと肩に絡わって、頸を撫でた。
脱ぐはずの衣紋をかつしめて、
「お米さんか。」
「いいえ。」
と一呼吸間を置いて、湯どのの裡から聞こえたのは、もちろんわが心がわが耳に響いたのであろう。――お米でないのは言うまでもなかったのである。
洗面所の水の音がぴったりやんだ。
思わず立ち竦んで四辺を見た。思い切って、
「入りますよ、御免。」
「いけません。」
と澄みつつ、湯気に濡れ濡れとした声が、はっきり聞こえた。
「勝手にしろ!」
我を忘れて言った時は、もう座敷へ引き返していた。
電燈は明るかった。巴の提灯はこの光に消された。が、水は三筋、さらにさらさらと走っていた。
「馬鹿にしやがる。」
不気味より、凄いより、なぶられたような、反感が起こって、炬燵へ仰向けにひっくり返った。
しばらくして、境が、飛び上がるように起き直ったのは、すぐ窓の外に、ざぶり、ばちゃばちゃばちゃ、ばちゃ、ちゃッと、けたたましく池の水の掻き攪さるる音を聞いたからであった。
「何だろう。」
ばちゃばちゃばちゃ、ちゃッ。
そこへ、ごそごそと池を廻って響いて来た。人の来るのは、なぜか料理番だろうと思ったのは、この池の魚を愛惜すると、聞いて知ったためである。……
「何だい、どうしたんです。」
雨戸を開けて、一面の雪の色のやや薄い処に声を掛けた。その池も白いまで水は少ないのであった。
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