六
「大福餅が食べたいとさ、は、は、は、」
と直きその傍に店を出した、二分心の下で手許暗く、小楊枝を削っていた、人柄なだけ、可憐らしい女隠居が、黒い頭巾の中から、隣を振向いて、掠れ掠れ笑って言う。
その隣の露店は、京染正紺請合とある足袋の裏を白く飜して、ほしほしと並べた三十ぐらいの女房で、中がちょいと隔っただけ、三徳用の言った事が大道でぼやけて分らず……但し吃驚するほどの大音であったので、耳を立てて聞合わせたものであった。
会得が行くとさも無い事だけ、おかしくなったものらしい。
「大福を……ほほほ、」と笑う。
とその隣が古本屋で、行火の上へ、髯の伸びた痩せた頤を乗せて、平たく蹲った病人らしい陰気な男が、釣込まれたやら、
「ふふふ、」
と寂しく笑う。
続いたのが、例の高張を揚げた威勢の可い、水菓子屋、向顱巻の結び目を、山から飛んで来た、と押立てたのが、仰向けに反を打って、呵々と笑出す。次へ、それから、引続いて――一品料理の天幕張の中などは、居合わせた、客交じりに、わはわはと笑を揺る。年内の御重宝九星売が、恵方の方へ突伏して、けたけたと堪らなそうに噴飯したれば、苦虫と呼ばれた歯磨屋が、うンふンと鼻で笑う。声が一所で、同音に、もぐらもちが昇天しようと、水道の鉄管を躍り抜けそうな響きで、片側一条、夜が鳴って、哄と云う。時ならぬに、木の葉が散って、霧の海に不知火と見える灯の間を白く飛ぶ。
なごりに煎豆屋が、かッと笑う、と遠くで凄まじく犬が吠えた。
軒の辺を通魔がしたのであろう。
北へも響いて、町尽の方へワッと抜けた。
時に片頬笑みさえ、口許に莞爾ともしない艶なのが、露店を守って一人居た。
縦通から横通りへ、電車の交叉点を、その町尽れの方へ下ると、人も店も、灯の影も薄く歯の抜けたような、間々を冷い風が渡る癖に、店を一ツ一ツ一重ながら、茫と渦を巻いたような霧で包む。同じ燻ぶった洋燈も、人の目鼻立ち、眉も、青、赤、鼠色の地の敷物ながら、さながら鶏卵の裡のように、渾沌として、ふうわり街燈の薄い影に映る。が、枯れた柳の細い枝は、幹に行燈を点けられたより、かえってこの中に、処々すっきりと、星に蒼く、風に白い。
その根に、茣蓙を一枚の店に坐ったのが、件の婦で。
年紀は六七……三十にまず近い。姿も顔も窶れたから、ちと老けて見えるのであろうも知れぬ。綿らしいが、銘仙縞の羽織を、なよなよとある肩に細く着て、同じ縞物の膝を薄く、無地ほどに細い縞の、これだけはお召らしいが、透切れのした前垂を〆めて、昼夜帯の胸ばかり、浅葱の鹿子の下〆なりに、乳の下あたり膨りとしたのは、鼻紙も財布も一所に突込んだものらしい。
ざっと一昔は風情だった、肩掛というのを四つばかりに畳んで敷いた。それを、褄は深いほど玉は冷たそうな、膝の上へ掛けたら、と思うが、察するに上へは出せぬ寸断の継填らしい。火鉢も無ければ、行火もなしに、霜の素膚は堪えられまい。
黒繻子の襟も白く透く。
油気も無く擦切るばかりの夜嵐にばさついたが、艶のある薄手な丸髷がッくりと、焦茶色の絹のふらしてんの襟巻。房の切れた、男物らしいのを細く巻いたが、左の袖口を、ト乳の上へしょんぼりと捲き込んだ袂の下に、利休形の煙草入の、裏の緋塩瀬ばかりが色めく、がそれも褪せた。
生際の曇った影が、瞼へ映して、面長なが、さして瘠せても見えぬ。鼻筋のすっと通ったを、横に掠めて後毛をさらりと掛けつつ、ものうげに払いもせず……切の長い、睫の濃いのを伏目になって、上気して乾くらしい唇に、吹矢の筒を、ちょいと含んで、片手で持添えた雪のような肱を搦む、唐縮緬の筒袖のへりを取った、継合わせもののその、緋鹿子の媚かしさ。
七
三枚ばかり附木の表へ、(一くみ)も仮名で書き、(二せん)も仮名で記して、前に並べて、きざ柿の熟したのが、こつこつと揃ったような、昔は螺が尼になる、これは紅茸の悟を開いて、ころりと参った張子の達磨。
目ばかり黒い、けばけばしく真赤な禅入を、木兎引の木兎、で三寸ばかりの天目台、すくすくとある上へ、大は小児の握拳、小さいのは団栗ぐらいな処まで、ずらりと乗せたのを、その俯目に、ト狙いながら、件の吹矢筒で、フッ。
カタリといって、発奮もなく引くりかえって、軽く転がる。その次のをフッ、カタリと飜る。続いてフッ、カタリと下へ。フッフッ、カタカタカタと毛を吹くばかりの呼吸づかいに連れて、五つ七つたちどころに、パッパッと石鹸玉が消えるように、上手にでんぐり、くるりと落ちる。
落ちると、片端から一ツ一ツ、順々にまた並べて、初手からフッと吹いて、カタリといわせる。……同じ事を、絶えず休まずに繰返して、この玩弄物を売るのであるが、玉章もなし口上もなしで、ツンとしたように黙っているので。
霧の中に笑の虹が、溌と渡った時も、独り莞爾ともせず、傍目も触らず、同じようにフッと吹く。
カタリと転がる。
「大福、大福、大福かい。」
とちと粘って訛のある、ギリギリと勘走った高い声で、亀裂を入らせるように霧の中をちょこちょこ走りで、玩弄物屋の婦の背後へ、ぬっと、鼠の中折を目深に、領首を覗いて、橙色の背広を着、小造りなのが立ったと思うと、
「大福餅、暖い!」
また疳走った声の下、ちょいと蹲む、と疾い事、筒服の膝をとんと揃えて、横から当って、婦の前垂に附着くや否や、両方の衣兜へ両手を突込んで、四角い肩して、一ふり、ぐいと首を振ると、ぴんと反らした鼻の下の髯とともに、砂除けの素通し、ちょんぼりした可愛い目をくるりと遣ったが、ひょんな顔。
……というものは、その、
「……暖い!……」を機会に、行火の箱火鉢の蒲団の下へ、潜込ましたと早合点の膝小僧が、すぽりと気が抜けて、二ツ、ちょこなんと揃って、灯に照れたからである。
橙背広のこの紳士は、通り掛りの一杯機嫌の素見客でも何でもない。冷かし数の子の数には漏れず、格子から降るという長い煙草に縁のある、煙草の脂留、新発明螺旋仕懸ニッケル製の、巻莨の吸口を売る、気軽な人物。
自から称して技師と云う。
で、衆を立たせて、使用法を弁ずる時は、こんな軽々しい態度のものではない。
下目づかいに、晃々と眼鏡を光らせ、額で睨んで、帽子を目深に、さも歴々が忍びの体。冷々然として落着き澄まして、咳さえ高うはせず、そのニコチンの害を説いて、一吸の巻莨から生ずる多量の沈澱物をもって混濁した、恐るべき液体をアセチリンの蒼光に翳して、屹と試験管を示す時のごときは、何某の教授が理化学の講座へ立揚ったごとく、風采四辺を払う。
そこで、公衆は、ただ僅に硝子の管へ煙草を吹込んで、びくびくと遣ると水が濁るばかりだけれども、技師の態度と、その口上のぱきぱきとするのに、ニコチンの毒の恐るべきを知って、戦慄に及んで、五割引が盛に売れる。
なかなかどうして、歯科散が試験薬を用いて、立合の口中黄色い歯から拭取った口塩から、たちどころに、黴菌を躍らして見せるどころの比ではない。
よく売れるから、益々得意で、澄まし返って説明する。
が、夜がやや深く、人影の薄くなったこうした時が、技師大得意の節で。今まで嚔を堪えたように、むずむずと身震いを一つすると、固くなっていた卓子の前から、早くもがらりと体を砕いて、飛上るように衝と腰を軽く、突然ひょいと隣のおでん屋へ入って、煮込を一串引攫う。
こいつを、フッフッと吹きながら、すぺりと古道具屋の天窓を撫でるかと思うと、次へ飛んで、あの涅槃に入ったような、風除葛籠をぐらぐら揺ぶる。
八
その時きゃっきゃっと高笑、靴をぱかぱかと傍へ外れて、どの店と見当を着けるでも無く、脊を屈めて蹲った婆さんの背後へちょいと踞んで、
「寒いですね。」
と声を掛けて、トントンと肩を叩いてやったもので。
「きゃっきゃっ、」とまた笑うて、横歩行きにすらすらすら、で、居合わす、古女房の背をドンと啖わす。突然、年増の行火の中へ、諸膝を突込んで、けろりとして、娑婆を見物、という澄ました顔付で、当っている。
露店中の愛嬌もので、総籬の柳縹さん。
すなわちまた、その伝で、大福暖いと、向う見ずに遣った処、手遊屋の婦は、腰のまわりに火の気が無いので、膝が露出しに大道へ、茣蓙の薄霜に間拍子も無く並んだのである。
橙色の柳縹子、気の抜けた肩を窄めて、ト一つ、大きな達磨を眼鏡でぎらり。
婦は澄ましてフッと吹く……カタリ……
はッと頤を引く間も無く、カタカタカタと残らず落ちると、直ぐに、そのへりの赤い筒袖の細い雪で、一ツ一ツ拾って並べる。
「堪らんですね、寒いですな、」
と髯を捻った。が、大きに照れた風が見える。
斜違にこれを視めて、前歯の金をニヤニヤと笑ったのは、総髪の大きな頭に、黒の中山高を堅く嵌めた、色の赤い、額に畝々と筋のある、頬骨の高い、大顔の役人風。迫った太い眉に、大い眼鏡で、胡麻塩髯を貯えた、頤の尖った、背のずんぐりと高いのが、絣の綿入羽織を長く着て、霜降のめりやすを太く着込んだ巌丈な腕を、客商売とて袖口へ引込めた、その手に一条の竹の鞭を取って、バタバタと叩いて、三州は岡崎、備後は尾ノ道、肥後は熊本の刻煙草を指示す……
「内務省は煙草専売局、印紙御貼用済。味は至極可えで、喫んで見た上で買いなさい。大阪は安井銀行、第三蔵庫の担保品。今度、同銀行蔵掃除について払下げに相成ったを、当商会において一手販売をする、抵当流れの安価な煙草じゃ、喫んで芳ゅう、香味、口中に遍うしてしかしてそのいささかも脂が無い。私は痰持じゃが、」
と空咳を三ツばかり、小さくして、竹の鞭を袖へ引込め、
「この煙草を用いてから、とんと悩みを忘れた。がじゃ、荒くとも脂がありとも、ただ強いのを望むという人には決してこの煙草は向かぬぞ。香味あって脂が無い、抵当流れの刻はどうじゃ。」
と太い声して、ちと充血した大きな瞳をぎょろりと遣る。その風采、高利を借りた覚えがあると、天窓から水を浴びそうなが、思いの外、温厚な柔和な君子で。
店の透いた時は、そこらの小児をつかまえて、
「あ、然じゃでの、」などと役人口調で、眼鏡の下に、一杯の皺を寄せて、髯の上を撫で下げ撫で下げ、滑稽けた話をして喜ばせる。その小父さんが、
「いや、若いもの。」
という顔色で、竹の鞭を、ト笏に取って、尖を握って捻向きながら、帽子の下に暗い額で、髯の白いに、金が顕な北叟笑。
附穂なさに振返った技師は、これを知ってなお照れた。
「今に御覧じろ。」
と遠灯の目ばたきをしながら、揃えた膝をむくむくと揺って、
「何て、寒いでしょう。おお寒い。」
と金切声を出して、ぐたりと左の肩へ寄凭る、……体の重量が、他愛ない、暖簾の相撲で、ふわりと外れて、ぐたりと膝の崩れる時、ぶるぶると震えて、堅くなったも道理こそ、半纏の上から触っても知れた。
げっそり懐手をしてちょいとも出さない、すらりと下った左の、その袖は、何も支えぬ、婦は片手が無いのであった。
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