書物の王国11 分身 |
国書刊行会 |
1999(平成11)年1月22日 |
1999(平成11)年1月22日初版第1刷 |
1999(平成11)年1月22日初版第1刷 |
鏡花全集 第四卷 |
岩波書店 |
1941(昭和16)年3月15日 |
もとより何故という理はないので、墓石の倒れたのを引摺寄せて、二ツばかり重ねて台にした。
その上に乗って、雨戸の引合せの上の方を、ガタガタ動かして見たが、開きそうにもない。雨戸の中は、相州西鎌倉乱橋の妙長寺という、法華宗の寺の、本堂に隣った八畳の、横に長い置床の附いた座敷で、向って左手に、葛籠、革鞄などを置いた際に、山科という医学生が、四六の借蚊帳を釣って寝て居るのである。
声を懸けて、戸を敲いて、開けておくれと言えば、何の造作はないのだけれども、止せ、と留めるのを肯かないで、墓原を夜中に徘徊するのは好心持のものだと、二ツ三ツ言争って出た、いまのさき、内で心張棒を構えたのは、自分を閉出したのだと思うから、我慢にも恃むまい。……
冷い石塔に手を載せたり、湿臭い塔婆を掴んだり、花筒の腐水に星の映るのを覗いたり、漫歩をして居たが、藪が近く、蚊が酷いから、座敷の蚊帳が懐しくなって、内へ入ろうと思ったので、戸を開けようとすると閉出されたことに気がついた。
それから墓石に乗って推して見たが、原より然うすれば開くであろうという望があったのではなく、唯居るよりもと、徒らに試みたばかりなのであった。
何にもならないで、ばたりと力なく墓石から下りて、腕を拱き、差俯向いて、じっとして立って居ると、しっきりなしに蚊が集る。毒虫が苦しいから、もっと樹立の少い、広々とした、うるさくない処をと、寺の境内に気がついたから、歩き出して、卵塔場の開戸から出て、本堂の前に行った。
然まで大きくもない寺で、和尚と婆さんと二人で住む。門まで僅か三四間、左手は祠の前を一坪ばかり花壇にして、松葉牡丹、鬼百合、夏菊など雑植の繁った中に、向日葵の花は高く蓮の葉の如く押被さって、何時の間にか星は隠れた。鼠色の空はどんよりとして、流るる雲も何にもない。なかなか気が晴々しないから、一層海端へ行って見ようと思って、さて、ぶらぶら。
門の左側に、井戸が一個。飲水ではないので、極めて塩ッ辛いが、底は浅い、屈んでざぶざぶ、さるぼうで汲み得らるる。石畳で穿下した合目には、このあたりに産する何とかいう蟹、甲良が黄色で、足の赤い、小さなのが数限なく群って動いて居る。毎朝この水で顔を洗う、一杯頭から浴びようとしたけれども、あんな蟹は、夜中に何をするか分らぬと思ってやめた。
門を出ると、右左、二畝ばかり慰みに植えた青田があって、向う正面の畦中に、琴弾松というのがある。一昨日の晩宵の口に、その松のうらおもてに、ちらちら灯が見えたのを、海浜の別荘で花火を焚くのだといい、否、狐火だともいった。その時は濡れたような真黒な暗夜だったから、その灯で松の葉もすらすらと透通るように青く見えたが、今は、恰も曇った一面の銀泥に描いた墨絵のようだと、熟と見ながら、敷石を蹈んだが、カラリカラリと日和下駄の音の冴えるのが耳に入って、フと立留った。
門外の道は、弓形に一条、ほのぼのと白く、比企ヶ谷の山から由井ヶ浜の磯際まで、斜に鵲の橋を渡したよう也。
ハヤ浪の音が聞えて来た。
浜の方へ五六間進むと、土橋が一架、並の小さなのだけれども、滑川に架ったのだの、長谷の行合橋だのと、おなじ名に聞えた乱橋というのである。
この上で又た立停って前途を見ながら、由井ヶ浜までは、未だ三町ばかりあると、つくづく然う考えた。三町は蓋し遠い道ではないが、身体も精神も共に太く疲れて居たからで。
しかしそのまま素直に立ってるのが、余り辛かったから又た歩いた。
路の両側しばらくのあいだ、人家が断えては続いたが、いずれも寝静まって、白けた藁屋の中に、何家も何家も人の気勢がせぬ。
その寂寞を破る、跫音が高いので、夜更に里人の懐疑を受けはしないかという懸念から、誰も咎めはせぬのに、抜足、差足、音は立てまいと思うほど、なお下駄の響が胸を打って、耳を貫く。
何か、自分は世の中の一切のものに、現在、恁く、悄然、夜露で重ッくるしい、白地の浴衣の、しおたれた、細い姿で、首を垂れて、唯一人、由井ヶ浜へ通ずる砂道を辿ることを、見られてはならぬ、知られてはならぬ、気取られてはならぬというような思であるのに、まあ! 廂も、屋根も、居酒屋の軒にかかった杉の葉も、百姓屋の土間に据えてある粉挽臼も、皆目を以て、じろじろ睨めるようで、身の置処ないまでに、右から、左から、路をせばめられて、しめつけられて、小さく、堅くなつて、おどおどして、その癖、駆け出そうとする勇気はなく、凡そ人間の歩行に、ありッたけの遅さで、汗になりながら、人家のある処をすり抜けて、ようよう石地蔵の立つ処。
ほッと息をすると、びょうびょうと、頻に犬の吠えるのが聞えた。
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