「それにね、首……顔がないんです。あの、冷いほど、真白な、乳も、腰も、手足も残して。……微塵に轢かれたんでしょう。血の池で、白魚が湧いたように、お藻代さんの、顔だの、頬だのが。
堤防を離れた、電信のはりがねの上の、あの辺……崖の中途の椎の枝に、飛上った黒髪が――根をくるくると巻いて、倒に真黒な小蓑を掛けたようになって、それでも、優しい人ですから、すんなりと朝露に濡れていました。それでいて毛筋をつたわって、落ちる雫が下へ溜って、血だったそうです。」
「寒くなった。……出ようじゃないか。――ああ西日が当ると思ったら、向うの蕃椒か。慌てている。が雨は霽った。」
提灯なしに――二人は、歩行き出した。お町の顔の利くことは、いつの間にか、蓮根の中へ寄掛けて、傘が二本立掛けてあるのを振返って見たので知れる。
「……あすこに人が一人立っているね、縁台を少し離れて、手摺に寄掛って。」
「ええ、どしゃ降りの時、気がつきましたわ。私、おじさんの影法師かと思ったわ。――まだ麦酒があったでしょう。あとで一口めしあがるなぞは、洒落てるわね。」
「何だ、いま泣いた烏がもう出て笑う、というのは、もうちと殊勝な、お人柄の事なんだぜ。私はまた、なぜだか、前刻いった――八田――紺屋の干場の近くに家のあった、その男のような気がしたよ。小学校以来。それだって空な事過ぎるが、むかし懐かしさに、ここいら歩行かないとは限らない。――女づれだから、ちょっと言を掛けかねたろう。……
それだと、あすこで一杯やりかねない男だが、もうちと入組んだ事がある。――鹿落を日暮方出て此地へ来る夜汽車の中で、目の光る、陰気な若い人が真向に居てね。私と向い合うと、立掛けてあった鉄砲――あれは何とかいう猟銃さ――それを縦に取って、真鍮の蓋を、コツコツ開けたり、はめたりする。長い髪の毛を一振振りながら、(猟師と見えますか。)ニヤリと笑って、(フフン、世を忍ぶ――仮装ですよ。)と云ってね。袋から、血だらけな頬白を、(受取ってくれたまえ。)――そういって、今度は銃を横へ向けて撃鉄をガチンと掛けるんだ。(麁葉だが、いかがです。)――貰いものじゃあるが葉巻を出すと、目を見据えて、(贅沢なものをやりますな、僕は、主義として、そういうものは用いないです。)またそういって、撃鉄をカチッと行る。
貰いものの葉巻を吹かすより、霰弾で鳥をばらす方が、よっぽど贅沢じゃないか、と思ったけれど、何しろ、木胴鉄胴からくり胴鳴って通る飛団子、と一所に、隧道を幾つも抜けるんだからね。要するに仲蔵以前の定九郎だろう。
そこで、小鳥の回向料を包んだのさ。
十時四十分頃、二つさきの山の中の停車場へ下りた。が、別れしなに、袂から名札を出して、寄越そうとして、また目を光らして引込めてしまった。
――小鳥は比羅のようなものに包んでくれた。比羅は裂いて汽車の窓から――小鳥は――包み直して宿へ着いてから裏の川へ流した。が、眼張魚は、蟇だと諺に言うから、血の頬白は、になろうよ。――その男のだね、名刺に、用のありそうな人物が、何となく、立っていたんじゃないかとも思ったよ。」
家業がら了解は早い。
「その向の方なら、大概私が顔見知りよ。……いいえ、盗賊や風俗の方ばかりじゃありません。」
「いや、大きに――それじゃ違ったろう。……安心した。――時に……実は椎の樹を通ってもらおうと思ったが、お藻代さんの話のいまだ。今度にしようか。」
「ええ、どちらでも。……ですが、もうこの軒を一つ廻った塀外が、じきその椎の樹ですよ。棟に蔭がさすでしょう。路地の暗いのもそのせいですわ。」
「大きな店らしいのに、寂寞している。何屋だろう。」
「有名な、湯葉屋です。」
「湯葉屋――坊主になり損った奴の、慈姑と一所に、大好きなものだよ。豆府の湯へ箱形の波を打って、皮が伸びて浮く処をすくい上げる。よく、東の市場で覗いたっけ。……あれは、面白い。」
「入ってみましょう。」
「障子は開いている――ははあ、大きな湯の字か。こん度は映画と間違えなかった。しかし、誰も居ないが、……可いかい。」
「何かいったら、挨拶をしますわ。ちょっと参観に、何といいましょう、――見学に、ほほほ。」
掃清めた広い土間に、惜いかな、火の気がなくて、ただ冷たい室だった。妙に、日の静寂間だったと見えて、人の影もない。窓の並んだ形が、椅子をかたづけた学校に似ていたが、一列に続いて、ざっと十台、曲尺に隅を取って、また五つばかり銅の角鍋が並んで、中に液体だけは湛えたのに、青桐の葉が枯れつつ映っていた。月も十五に影を宿すであろう。出ようとすると、向うの端から、ちらちらと点いて、次第に竈に火が廻った。電気か、瓦斯を使うのか、ほとんど五彩である。ぱッと燃えはじめた。
この火が、一度に廻ると、カアテンを下ろしたように、窓が黒くなって、おかしな事には、立っている土間にひだを打って、皺が出来て、濡色に光沢が出た。
お町が、しっかりと手を取った。
背後から、
「失礼ですが、貴方……」
前刻の蓮根市の影法師が、旅装で、白皙の紳士になり、且つ指環を、竈の火に彩られて顕われた。
「おお、これは。」
名古屋に時めく大資産家の婿君で、某学校の教授と、人の知る……すなわち、以前、この蓮池邸の坊ちゃんであった。
「見覚えがおありでしょう。」
と斜に向って、お町にいった。
「まあ。」
時めく婿は、帽子を手にして、
「後刻、お伺いする処でした。」
驚破す、再び、うぐい亭の当夜の嫖客は――渠であった。
三人のめぐりあい。しかし結末にはならない。おなじ廓へ、第一歩、三人のつまさきが六つ入交った時である。
落葉のそよぐほどの、跫音もなしに、曲尺の角を、この工場から住居へ続くらしい、細長い、暗い土間から、白髪がすくすくと生えた、八十を越えよう、目口も褐漆に干からびた、脊の低い、小さな媼さんが、継はぎの厚い布子で、腰を屈めて出て来た。
蒼白になって、お町があとへ引いた。
「お姥さん、見物をしていますよ。」
と鷹揚に、先代の邸主は落ついて言った。
何と、媼は頤をしゃくって、指二つで、目を弾いて、じろりと見上げたではないか。
「無断で、いけませんでしたかね。」
外套氏は、やや妖変を感じながら、丁寧に云ったのである。
「どうなとせ。」
唾と泡が噛合うように、ぶつぶつと一言いったが、ふ、ふふん、と鼻の音をさせて、膝の下へ組手のまま、腰を振って、さあ、たしか鍋の列のちょうど土間へ曲角の、火の気の赫と強い、その鍋の前へ立つと、しゃんと伸びて、肱を張り、湯気のむらむらと立つ中へ、いきなり、くしゃくしゃの顔を突込んだ。
が、ばっと音を立てて引抜いた灰汁の面と、べとりと真黄色に附着いた、豆府の皮と、どっちの皺ぞ! 這ったように、低く踞んで、その湯葉の、長い顔を、目鼻もなしに、ぬっと擡げた。
口のあたりが、びくりと動き、苔の青い舌を長く吐いて、見よ見よ、べろべろと舐め下ろすと、湯葉は、ずり下り、めくれ下り、黒い目金と、耳までのマスクで、口が開いた、その白い顔は、湯葉一枚を二倍にして、土間の真中に大きい。
同時に、蛇のように、再び舌が畝って舐め廻すと、ぐしゃぐしゃと顔一面、山女を潰して真赤になった。
お町の肩を、両手でしっかとしめていて、一つ所に固った、我が足がよろめいて、自分がドシンと倒れたかと思う。名古屋の客は、前のめりに、近く、第一の銅鍋の沸上った中へ面を捺して突伏した。
「あッ。」
片手で袖を握んだ時、布子の裾のこわばった尖端がくるりと刎ねて、媼の尻が片隅へ暗くかくれた。竈の火は、炎を潜めて、一時に皆消えた。
同時に、雨がまた迫るように、窓の黒さが風に動いて、装り上ったように見透かさるる市街に、暮早き電燈の影があかく立って、銅の鍋は一つ一つ、稲妻に似てぴかぴかと光った。
足許も定まらない。土間の皺が裂けるかと思う時、ひいても離れなかった名古屋の客の顔が、湯気を飛ばして、辛うじて上るとともに、ぴちぴちと魚のごとく、手足を刎ねて、どっと倒れた。両腋を抱いて、抱起した、その色は、火の皮の膨れた上に、爛が紫の皺を、波打って、動いたのである。
市のあたりの人声、この時賑かに、古椎の梢の、ざわざわと鳴る風の腥蕈さ。
――病院は、ことさらに、お藻代の時とちがった、他のを選んだ。
生命に仔細はない。
男だ。容色なんぞは何でもあるまい。
ただお町の繰り言に聞いても、お藻代の遺書にさえ、黒髪のおくれ毛ばかりも、怨恨は水茎のあとに留めなかったというのに。――
現代――ある意味において――めぐる因果の小車などという事は、天井裏の車麩を鼠が伝うぐらいなものであろう。
待て、それとても不気味でない事はない。
魔は――鬼神は――あると見える。
附言。
今年、四月八日、灌仏会に、お向うの遠藤さんと、家内と一所に、麹町六丁目、擬宝珠屋根に桃の影さす、真宝寺の花御堂に詣でた。寺内に閻魔堂がある。遠藤さんが扉を覗いて、袖で拝んで、
「お釈迦様と、お閻魔さんとは、どういう関係があるんでしょう。」
唯今、七彩五色の花御堂に香水を奉仕した、この三十歳の、竜女の、深甚微妙なる聴問には弱った。要品を読誦する程度の智識では、説教も済度も覚束ない。
「いずれ、それは……その、如是我聞という処ですがね。と時に、見附を出て、美佐古(鮨屋)はいかがです。」
「いや。」
「これは御挨拶。」
いきな坊主の還俗したのでもないものが、こはだの鮨を売るんだから、ツンとして、愛想のないのに無理はない。
「朝飯を済ましたばかりなのよ。」
午後三時半である。ききたまえ。
「そこを見込んで誘いましたよ。」
「私もそうだろうと思ってさ。」
大通りを少しあるくと、向うから、羽織の袖で風呂敷づつみを抱いた、脊のすらりとした櫛巻の女が、もの静に来かかって、うつむいて、通過ぎた。
「いい女ね。見ましたか。」
「まったく。」
「しっとりとした、いい容子ね、目許に恐ろしく情のある、口許の優しい、少し寂しい。」
三人とも振返ると、町並樹の影に、その頸許が白く、肩が窶れていた。
かねて、外套氏から聞いた、お藻代の俤に直面した気がしたのである。
路地うちに、子供たちの太鼓の音が賑わしい。入って見ると、裏道の角に、稲荷神の祠があって、幟が立っている。あたかも旧の初午の前日で、まだ人出がない。地口行燈があちこちに昼の影を浮かせて、飴屋、おでん屋の出たのが、再び、気のせいか、談話中の市場を髣髴した。
縦通りを真直ぐに、中六を突切って、左へ――女子学院の塀に添って、あれから、帰宅の途を、再び中六へ向って、順に引返すと、また向うから、容子といい、顔立もおなじような――これは島田髷の娘さんであった――十八九のが行違った。
「そっくりね。」
「気味が悪いようですね。」
と家内も云った。少し遠慮して、間をおいて、三人で斉しく振返ると、一脈の紅塵、軽く花片を乗せながら、うしろ姿を送って行く。……その娘も、町の三辻の処で見返った。春闌に、番町の桜は、静である。
家へ帰って、摩耶夫人の影像――これだと速に説教が出来る、先刻の、花御堂の、あかちゃんの御母ぎみ――頂餅と華をささげたのに、香をたいて、それから記しはじめた。
昭和六(一九三一)年七月
●表記について
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- [#…]は、入力者による注を表す記号です。
- 「くの字点」をのぞくJIS X 0213にある文字は、画像化して埋め込みました。
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