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古狢(ふるむじな)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-23 10:33:44  点击:  切换到繁體中文



 通り雨は一通りあがったが、土は濡れて、冷くて、翡翠かわせみの影が駒下駄をすべってまた映る……片褄端折かたづまはしょりに、乾物屋の軒を伝って、紅端緒べにはなおの草履ではないが、ついと楽屋口へ行くさまに、肩細く市場へ入ったのが、やがて、片手にビイルのびん、と見ると片手に持った硝子盃コップが、光りを分けて、二つになって並んだのは、お町さんも、一口つき合ってくれる気か。
「しゃッ、しゃッ。」
 思わず糶声せりごえを立てて、おじさんは、手を揚げながら、片手で外套の膝を叩いた。
「お手柄、お手柄。」
 土間はたちまち春になり、花のつぼみの一輪を、朧夜おぼろよにすかすごとく、お町の唇をビイルでめて、飲むほどに、蓮池のむかしをう身には本懐とも言えるであろう。根を掘上げたばかりと思う、見事な蓮根がさく内外うちそと、浄土の逆茂木さかもぎ。勿体ないが、五百羅漢ごひゃくらかん御腕おんうでを、組違えて揃う中に、大笊おおざる慈姑くわいが二杯。泥のままのと、一笊は、あい浅く、さっと青に洗上げたのを、ころころと三つばかり、お町が取って、七輪へ載せ、じょうを払い、火箸であしらい、なまめかしい端折はしょりのまま、懐紙ふところがみあおぐのに、手巾ハンケチで軽く髪のつやかばったので、ほんのりと珊瑚さんごの透くのが、三杯目の硝子盃に透いて、あの、唇だか、その珊瑚だか、花だか、蕾だか、蕩然とろりとなる。
「町子嬢、町子嬢。」
「は。」
 とえりの白さを、なめらかに、長く、傾いてちょっと嬌態しなる。
「気取ったな。」
「はあ。」
「一体こりゃどういう事になるんだい。」
慈姑くわいの田楽、ほほほ。」
 と、かんざしの珊瑚と、唇が、霞の中に、慈姑とは別に二つ動いて、
「おじさんは、小児こどもの時、お寺へ小僧さんにやられる処だったんだって……何も悪たれ坊ッてわけじゃない、賢くって、おとなしかったから。――そうすりゃきっと名僧知識になれたんだ。――おっかさんがそういって話すんだわ。」
「悪かったよ。その方がよかったんだよ。相済まなかったよ。」
 今度は、がばがばと手酌でぐ。
「ほほほほ、そのせいだか、精進男で、慈姑の焼いたのが大好きで、よく内へ来て頬張ったんだって……お母さんたら。」
「ああ、なさけない。慈姑とは何事です。おなじ発心をしたにしても、これがどじょうだと引導を渡す処だが、これじゃ、お念仏を唱えるばかりだ。――ああ、お町ちゃん。」
 わざとした歎息を、陽気に、ふッと吹いて、
「……そういえば、一昨日おとといの晩……途中で泊った、鹿落かおちの温泉でね。」
「ええ。」
「実際、お念仏を唱えたよ、真夜半まよなかさ。」
夜半よなか。」
 と七輪の上で、火の気ににぎやかな頬が肅然じっと沈んだ。
「……何、考えて見れば、くだらない事なんだが、鹿落は寂しい処だよ。そこを狙ったわけでもないが、来がけに一晩保養をしたがね。真北の海に向って山の中腹にあるんだから、長い板廊下を九十九折つづらおりとった形に通るんだ。――知っているかも知れないが。――座敷は三階だったけれど、下からは四階ぐらいに当るだろう。晩飯の烏賊いかえびは結構だったし、赤蜻蛉あかとんぼに海の夕霧で、景色もよかったが、もう時節で、しんしんと夜の寒さが身にみる。あすこいら一帯に、袖のない夜具だから、四布よのの綿の厚いのがごつごつおもたくって、肩がぞくぞくする。枕許まくらもと熱燗あつかんを貰って、硝子盃酒コップざけいきおいで、それでもぐっすり疲れて寝た。さあ何時頃だったろう。何しろ真夜半だ。かわやくのに、裏階子うらばしごを下りると、これが、頑丈な事は、巨巌おおいわ斫開きりひらいたようです。下りると、片側に座敷が五つばかり並んで、向うの端だけ客が泊ったらしい。ところが、次の間つきで、奥だけかすかにともれていて、あとが暗い。一方が洗面所で、そばに大きな石の手水鉢ちょうずばちがある、かがんで手を洗うように出来ていて、かけひ谿河たにがわの水を引くらしい……しょろ、しょろ、ちゃぶりと、これはね、座敷で枕にまで響いたんだが、風の声も聞こえない。」
「まあ……」
「すぐの、だだッ広い、黒い板の間の向うが便所なんだが、その洗面所に一つ電燈でんきいているきりだから、いとどさえ夜ふけの山気にされて、薄暗かったと思っておくれ。」
可厭いやあね。」
「止むを得ないよ。……実際なんだから。晩に見た心覚えでは、この間に、板戸があって、一枚開いていたように思ったんだが、それが影もなかった。思いちがいなんだろう。
 山霧の冷いのが――すぐ外は崖の森だし――窓から、隙間から、立てむと見えて、薄いもやのようなものが、敷居に立って、それに木目がありそうに見える。ところで、穿いた草履が、笹葉ささっぱでも踏む心持こころもちにバサリとする。……暗い中に、三つ並んでいるんです。」
「あの、鹿落。」
 と、瞳を凝らした、お町の眉に、その霧がほのかにうつッた。
「三階の裏階子を下りた処だわね、三つ並んだ。」
「どうかしたかい。」
「どうして……それから。」
 お町は聞返して、また息を引いた。
「その真中まんなかの戸が、バタン……と。」
「あら……」
「いいえさ、おどかすんじゃあない。そこで、いきなり開いたんだと、余計驚いたろうが――開いていたんだよ。ただし、開いていた、その黒い戸の、裏桟に、白いものが一条ひとすじ、うねうねとつたわっている。」
「…………」
「どこからか、細目にあかりが透くのかしら?……その端の、ふわりと※(「匸<扁」、第4水準2-3-48)うすひらったい処へ、指が立って、白くねて、動いたと思うと、すッとしまった。招いたような形だが、串戯じょうだんじゃあない、人が行ったので閉めたのさ。あとで思ってもまったく色が白かった、うつくしい女の手だよ――あ、どうした。」
 その唇が、眉とともにゆがんだと思うと、はらりと薫って、胸にひやり、円髷まるまげ手巾ハンケチの落ちかかる、一重ひとえだけは隔てたが、お町の両の手が、咄嗟とっさに外套の袖をしごくばかりに引掴ひきつかんで、肩と袖で取縋とりすがった。片褄の襦袢が散って、山茶花さざんかのようにこぼれた。
 この身動みじろぎに、七輪の慈姑くわいが転げて、コンと向うへ飛んだ。一個ひとつは、こげ目が紫立って、蛙の人魂ひとだまのように暗い土間に尾さえく。
 しばらくすると、息つぎの麦酒ビイルに、色を直して、お町が蛙の人魂の方を自分で食べ、至極尋常なのは、皮をがして、おじさんに振舞ったくらいであるから。――次の話が、私はじめ、読者諸君も安心して聞くことを得るのである。

 一体、外套氏が、この際、いまの鹿落の白い手を言出したのは、決して怪談がかりに娘をおどかすつもりのものではなかった。近間ではあるし、ここを出たら、それこそ、ちちろ鳴く虫が糸を繰るに紛れる、その椎樹しいのき――(釣瓶つるべおろし)(小豆あずきとぎ)などいうばけものは伝統的につきものの――樹の下を通って見たかった。車麩くるまぶの鼠におびえた様子では、同行を否定されそうな形勢だった処から、「お町さん、念仏を唱えるばかり吃驚びっくりした、かわやの戸の白い手も、先へ入っていた女が、人影に急いでを閉めただけの事で、何でもないのだ。」と、おくれせながら、正体見たり枯尾花流に――続いて説明に及ぶと、澄んで沈んだ真顔になって、鹿落の旅館の、その三つ並んだ真中まんなかの厠は、取壊して今はないはずだ、と言って、先手に、もう知っている。……
 はてな、そういえば、朝また、ようをたした時は、ここへ白い手が、と思う真中のは、壁が抜けて、不状ぶざまに壊れて、向うが薮畳やぶだたみになっていたのを思出す。……何、昨夜ゆうべは暗がりで見損みそこなったにして、一向気にも留めなかったのに。……

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