泉鏡花集成8 |
ちくま文庫、筑摩書房 |
1996(平成8)年5月23日 |
1996(平成8)年5月23日第1刷 |
鏡花全集 |
岩波書店 |
1942(昭和17)年7月刊行開始 |
「しゃッ、しゃッ、しゃあっ!……」
寄席のいらっしゃいのように聞こえるが、これは、いざいざ、いでや、というほどの勢いの掛声と思えば可い。
「しゃあっ! 八貫―ウん、八貫、八貫、八貫と十ウ、九貫か、九貫と十ウだ、……十貫!」
目の下およそ八寸ばかり、濡色の鯛を一枚、しるし半纏という処を、めくら縞の筒袖を両方大肌脱ぎ、毛だらけの胸へ、釣身に取って、尾を空に、向顱巻の結びめと一所に、ゆらゆらと刎ねさせながら、掛声でその量を増すように、魚の頭を、下腹から膝頭へ、じりじりと下ろして行くが、
「しゃッ、しゃッ。」
と、腰を切って、胸を反らすと、再び尾から頭へ、じりじりと響を打たして釣下げる。これ、値を上げる寸法で。
「しゃッ、十貫十ウ、十貫二百、三百、三百ウ。」
親仁の面は朱を灌いで、その吻は蛸のごとく、魚の鰭は萌黄に光った。
「力は入るね、尾を取って頭を下げ下げ、段々に糶るのは、底力は入るが、見ていて陰気だね。」
と黒い外套を着た男が、同伴の、意気で優容の円髷に、低声で云った。
「そう。でも大鯛をせるのには、どこでもああするのじゃアありません?……」
人だちの背後から覗いていたのが、連立って歩き出して、
「……と言われると、第一、東京の魚河岸の様子もよく知らないで、お恥かしいよ。――ここで言っては唐突で、ちと飛離れているけれど、松江だね、出雲の。……茶町という旅館間近の市場で見たのは反対だっけ――今の……」
外套の袖を手で掲げて、
「十貫、百と糶上げるのに、尾を下にして、頭を上へ上へと上げる。……景気もよし、見ているうちに値が出来たが、よう、と云うと、それ、その鯛を目の上へ差上げて、人の頭越しに飜然と投げる。――処をすかさず受取るんだ、よう、と云って後の方で。……威勢がいい。それでいて、腰の矢立はここのも同じだが、紺の鯉口に、仲仕とかのするような広い前掛を捲いて、お花見手拭のように新しいのを頸に掛けた処なぞは、お国がら、まことに大どかなものだったよ。」
「陽気ね、それは。……でも、ここは近頃の新開ですもの。お魚はほんのつけたりで、おもに精進ものの取引をするんですよ。そういっては、十貫十ウの、いまの親仁に叱られるかも知れないけれど、皆が蓮根市場というくらいなんですわ。」
「成程、大きに。――しかもその実、お前さんと……むかしの蓮池を見に、寄道をしたんだっけ。」
と、外套は、洋杖も持たない腕を組んだ。
話の中には――この男が外套を脱ぐ必要もなさそうだから、いけぞんざいだけれども、懇意ずく、御免をこうむって、外套氏としておく。ただ旅客でも構わない。
が、私のこの旅客は、実は久しぶりの帰省者であった。以前にも両三度聞いた――渠の帰省談の中の同伴は、その容色よしの従姉なのであるが、従妹はあいにく京の本山へ参詣の留守で、いま一所なのは、お町というその娘……といっても一度縁着いた出戻りの二十七八。で、親まさりの別嬪が冴返って冬空に麗かである。それでも、どこかひけめのある身の、縞のおめしも、一層なよやかに、羽織の肩も細りとして、抱込んでやりたいほど、いとしらしい風俗である。けれども家業柄――家業は、土地の東の廓で――近頃は酒場か、カフェーの経営だと、話すのに幅が利くが、困った事にはお茶屋、いわゆるおん待合だから、ちと申憎い、が、仕方がない。それだけにまた娘の、世馴れて、人見知りをしない様子は、以下の挙動で追々に知れようと思う。
ちょうどいい。帰省者も故郷へ錦ではない。よって件の古外套で、映画の台本や、仕入ものの大衆向で、どうにか世渡りをしているのであるから。
「陽気も陽気だし、それに、山に包まれているんじゃない、その市場のすぐ見通しが、大きな湖だよ、あの、有名な宍道湖さ。」
「あら、山の中だって、おじさん、こちらにも、海も、湖も、大きなのがありますわ。」
湖は知らず、海に小さなのといっては断じてあるまい。何しろ、話だけでも東京が好きで、珍らしく土地自慢をしない娘も、対手が地方だけに、ちょっと反感を持ったらしい。
いかにも、湖は晃々と見える。が、水が蒼穹に高い処に光っている。近い山も、町の中央の城と向合った正面とは違い、場末のこの辺は、麓の迫る裾になり、遠山は波濤のごとく累っても、奥は時雨の濃い雲の、次第に霧に薄くなって、眉は迫った、すすき尾花の山の端は、巨きな猪の横に寝た態に似た、その猪の鼻と言おう、中空に抽出た、牙の白いのは湖である。丘を隔てて、一条青いのは海である。
その水の光は、足許の地に影を映射して、羽織の栗梅が明く澄み、袖の飛模様も千鳥に見える。見ると、やや立離れた――一段高く台を蹈んで立った――糶売の親仁は、この小春日の真中に、しかも夕月を肩に掛けた銅像に似ていた。
「あの煙突が邪魔だな。」
ここを入って行きましょうと、同伴が言う、私設の市場の入口で、外套氏は振返って、その猪の鼻の山裾を仰いで言った。
「あれ、温泉よ。」
「温泉?」
「いま通って来たじゃありませんか、おじさん。」
「ああ、あの紺屋の物干場と向い合った……蟋蟀がないていた……」
蟋蟀は……ここでも鳴く。
「その紺屋だって、あったのは昔ですわ。垣も何にもなくなって、いまは草場でしたわね。」
「そうだっけな――実は、あのならびに一人、おなじ小学校の組の友だちが居てね。……八田なにがし……」
「そのお飯粒で蛙を釣って遊んだって、御執心の、蓮池の邸の方とは違うんですか。」
鯛はまだ値が出来ない。山の端の薄に顱巻を突合せて、あの親仁はまた反った。
「違うんだよ。……何も更めて名のるほどの事もないんだけれど、子供ッて妙なもので、まわりに田があるから、ああ八田だ、それにしても八ツはない。……そんなことを独り合点した事も思出しておかしいし、余り様子が変っているので、心細いようにもなって、ついうっかりして――活動写真の小屋が出来た……がらんとしている、不景気だな、とぎょっとして、何、昼間は休みなのだろう、にしておいたよ。そういえば煙突も真正面で、かえって、あんなに高く見えなかったもんだから、明取りかと思ったっけ。……映画の明取りはちと変だね。どうかしている。」
と笑いながら、
「そうかい、温泉かい……こんな処に。」
「沸すんですよ……ただの水を。」
「ただの水はよかった、成程。」
「でも、温泉といった方が景気がいいからですわ。そしてね、おじさん、いまの、あれ、狢の湯っていうんですよ。」
「狢の湯?……」
と同伴の顔を見た時は、もうその市場の裡を半ば過ぎていた。まだ新しく、ほんの仮設らしい、通抜けで、ただ両側に店が並んだが、二三個処うつろに穴があいて、なぜか箪笥の抽斗の一つ足りないような気がする。今来た入口に、下駄屋と駄菓子屋が向合って、駄菓子屋に、ふかし芋と、茹でた豌豆を売るのも、下駄屋の前ならびに、子供の履ものの目立って紅いのも、もの侘しい。蒟蒻の桶に、鮒のバケツが並び、鰌の笊に、天秤を立掛けたままの魚屋の裏羽目からは、あなめあなめ空地の尾花が覗いている……といった形。
――あとで地の理をよく思うと、ここが昔の蓮池の口もとだったのだそうである。――
「皆その御眷属が売っているようだ。」
「何? おじさん。」
「いえね、その狢の湯の。」
「あら聞こえると悪ござんすわ。」
とたしなめる目づかいが、つい横の酒類販売店の壜に、瞳が蝶のようにちらりと映って、レッテルの桜に白い頬がほんのりする。
「決して悪く云ったのじゃない。……これで地口行燈が五つ六つあってごらん。――横露地の初午じゃないか。お祭のようだと祝ったんだよ。」
「そんな事……お祭だなんのといって、一口飲みたくなったんじゃあ、ありません? おっかさん(外套氏の従姉をいう)ならですけど、可厭よ、私、こんな処で、腰掛けて一杯なんぞ。」
「大丈夫。いくら好きだって、蕃椒では飲めないよ。」
と言った。
市場を出た処の、乾物屋と思う軒に、真紅な蕃椒が夥多しい。……新開ながら老舗と見える。わかめ、あらめ、ひじきなど、磯の香も芬とした。が、それが時雨でも誘いそうに、薄暗い店の天井は、輪にかがって、棒にして、揃えて掛けた、車麩で一杯であった。
「見事なものだ。村芝居の天井に、雨車を仕掛けた形で、妙に陰気だよ。」
串戯ではない。日向に颯と村雨が掛った、薄の葉摺れの音を立てて。――げに北国の冬空や。
二人は、ちょっとその軒下へ入ったが、
「すぐ晴れますわ、狐の嫁入よ。」
という、斜に見える市場の裏羽目に添って、紅蓼と、露草の枯れがれに咲いて残ったのが、どちらがその狐火の小提灯だか、濡々と灯れて、尾花に戦いで……それ動いて行く。
「そうか、私はまた狐の糸工場かと思った。雨あしの白いのが、天井の車麩から、ずらずらと降って来るようじゃあないか。」
「可厭、おじさん。」
と捩れるばかり、肩を寄せて、
「気味が悪い。」
「じゃあ、言直そう。ここは蓮池のあとらしいし、この糸で曼陀羅が織れよう。」
「ええ、だって、極楽でも、地獄でも、その糸がいけないの。」
「糸が不可いとは。」
「……だって、椎の木婆さんが、糸車を廻す処ですもの、小豆洗ともいうんですわ。」
後前を見廻して、
「それはね、城のお殿様の御寵愛の、その姉さんだったと言いましてね。むかし、魔法を使うように、よく祈りのきいた、美しい巫女がそこに居て、それが使った狢だとも言うんですがね。」
あなたは知らないのか、と声さえ憚ってお町が言った。――この乾物屋と直角に向合って、蓮根の問屋がある。土間を広々と取り、奥を深く、森と暗い、大きな家で、ここを蓮根市とも呼ぶのは、その故だという。屋の棟を、うしろ下りに、山の中腹と思う位置に、一朶の黒雲の舞下ったようなのが、年数を知らない椎の古木の梢である。大昔から、その根に椎の樹婆叉というのが居て、事々に異霊妖変を顕わす。徒然な時はいつも糸車を廻わしているのだそうである。もともと私どもの、この旅客は、その小学校友だちの邸あとを訪うために来た。……その時分には遊びに往来もしたろうものを、あの、椎の樹婆叉を知らないのかと、お町が更に怪しんで言うのであった。が、八ツや十ウのものを、わざと親たちは威しもしまい。……近所に古狢の居る事を、友だちは矜りはしなかったに違いない。
――町の湯の名もそれから起った。――そうか、椎の木の大狢、経立ち狢、化婆々。
「あれえ。」
「…………」
「可厭、おじさんは。」
「あやまった、あやまった。」
鉄砲で狙われた川蝉のように、日のさす小雨を、綺麗な裾で蓮の根へ飛んで遁げた。お町の後から、外套氏は苦笑いをしながら、その蓮根問屋の土間へ追い続いて、
「決して威す気で言ったんじゃあない。――はじめは蛇かと思って、ぞっとしたっけ。」
椎の樹婆叉の話を聞くうちに、ふと見ると、天井の車麩に搦んで、ちょろちょろと首と尾が顕われた。その上下に巻いて廻るのを、蛇が伝う、と見るとともに、車麩がくるくると動くようで、因果車が畝って通る。……で悚気としたが、熟と視ると、鼠か、溝鼠か、降る雨に、あくどく濡れて這っている。……時も時だし、や、小さな狢が天井へ、とうっかり饒舌って、きれいな鳥を蓮池へ飛ばしたのであった。
「そんな事に驚く奴があるものか。」
「だって、……でも、もう大丈夫だわ、ここへ来れば人間の狸が居るから。」
と、大きに蓮葉で、
「権ちゃん――居るの。」
獣ならば目が二つ光るだろう。あれでも人が居るかと思う。透かして見れば帳場があって、その奥から、大土間の内側を丸太で劃った――(朝市がそこで立つ)――その劃の外側を廻って、右の権ちゃん……めくら縞の筒袖を懐手で突張って、狸より膃肭臍に似て、ニタニタと顕われた。廓の美人で顔がきく。この権ちゃんが顕われると、外土間に出張った縁台に腰を掛けるのに――市が立つと土足で糶上るのだからと、お町が手巾でよく払いて、縁台に腰を掛けるのだから、じかに七輪の方がいい、そちこち、お八つ時分、薬鑵の湯も沸いていようと、遥な台所口からその権ちゃんに持って来させて、御挨拶は沢山……大きな坊やは、こう見えても人見知りをするから、とくるりと権ちゃんに背後を向かせて、手で叩く真似をすると、えへへ、と権ちゃんの引込んだ工合が、印は結ばないが、姉さんの妖術に魅ったようであった。
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