「ええ、た、た、たまらねえたまらねえ、一か八かだ、逢わせてやれ。」
とがたりと大戸引開けたる、トタンに犬あり、颯と退きつ。
懸寄るお通を伝内は身をもて謙三郎にへだてつつ、謙三郎のよろめきながら内に入らんとあせるを遮り、
「うんや、そう[#「そう」は底本では「さう」]やすやすとは入れねえだ。旦那様のいいつけで三原伝内が番する間は、敷居も跨がすこっちゃあねえ。断て入るなら吾を殺せ。さあ、すっぱりとえぐらっしゃい。ええ、何を愚図々々、もうお前様方のように思い詰りゃ、これ、人一人殺されねえことあねえ筈だ。吾、はあ、自分で腹あ突いちゃあ、旦那様に済まねえだ。済まねえだから、死なねえだ、死なねえうちは邪魔アするだ。この邪魔物を殺さっしゃい、七十になる老夫だ。殺し惜くもねえでないか。さあ、やらっしゃい。ええ! 埒のあかぬ。」
と両手に襟を押開けて、仰様に咽喉仏を示したるを、謙三郎はまたたきもせで、ややしばらく瞶めたるが、銃剣一閃し、暗を切って、
「許せ!」
という声もろとも、咽喉に白刃を刺されしまま、伝内はハタと僵れぬ。
同時に内に入らんとせし、謙三郎は敷居につまずき、土間に両手をつきざまに俯伏になりて起きも上らず。お通はあたかも狂気のごとく、謙三郎に取縋りて、
「謙さん、謙さん、私ゃ、私ゃ、顔が見たかった。」
と肩に手を懸け膝に抱ける、折から靴音、剣摩の響。五六名どやどやと入来りて、正体もなき謙三郎をお通の手より奪い取りて、有無を謂わせず引立つるに、
呀とばかり跳起きたるまま、茫然として立ちたるお通の、歯をくいしばり、瞳を据えて、よろよろと僵れかかれる、肩を支えて、腕を掴みて、
「汝、どうするか、見ろ、太い奴だ。」
これ婚姻の当夜以来、お通がいまだ一たびも聞かざりし鬱し怒れる良人の声なり。
四
出征に際して脱営せしと、人を殺せし罪とをもて、勿論謙三郎は銃殺されたり。
謙三郎の死したる後も、清川の家における居馴れし八畳の渠が書斎は、依然として旧態を更めざりき。
秋の末にもなりたれば、籐筵に代うるに秋野の錦を浮織にせる、花毛氈をもってして、いと華々しく敷詰めたり。
床なる花瓶の花も萎まず、西向の
子の下なりし机の上も片づきて、硯の蓋に塵もおかず、座蒲団を前に敷き、傍なる桐火桶に烏金の火箸を添えて、と見ればなかに炭火も活けつ。
紫たんの角の茶盆の上には幾個の茶碗を俯伏せて、菓子を装りたる皿をも置けり。
机の上には一葉の、謙三郎の写真を祭り、あたりの襖を閉切りたれば、さらでも秋の暮なるに、一室森とほのあかるく四隅はようよう暗くなりて、ものの音さえ聞えざるに、火鉢に懸けたる鉄瓶の湯気のみ薄く立のぼりて、湯の沸る音静なり。折から彼方より襖を明けつ。一脈の風の襲入りて、立昇る湯気の靡くと同時に、陰々たるこの書斎をば真白き顔の覗きしが、
「謙さん。」
と呼び懸けつ。裳すらすら入りざま、ぴたと襖を立籠めて、室の中央に進み寄り、愁然として四辺を
し、坐りもやらず、頤を襟に埋みて悄然たる、お通の俤窶れたり。
やがて桐火桶の前に坐して、亡き人の蒲団を避けつつ、その傍に崩折れぬ。
「謙さん。」
とまた低声に呼びて、もの驚きをしたらんごとく、肩をすぼめて首低れつ。鉄瓶にそと手を触れて、
「おお、よく沸いてるね。」
と茶盆に眼を着け、その蓋を取のけ、冷かなる吸子の中を差覗き、打悄れたる風情にて、
「貴下、お茶でも入れましょうか。」
と写真を、じっと瞻りしが、はらはらと涙を溢して、その後はまたものいわず、深き思に沈みけむ、身動きだにもなさざりき。
落葉さらりと障子を撫でて、夜はようやく迫りつつ、あるかなきかのお通の姿も黄昏の色に蔽われつ。炭火のじょうの動く時、いかにしてか聞えつらむ。
「ツウチャン。」
とお通を呼べり。
再び、
「ツウチャン。」
とお通を呼べり。お通は黙想の夢より覚めて、声する方を屹と仰ぎぬ。
「ツウチャン。」
とまた繰返せり。お通はうかうかと立起りて、一歩を進め、二歩を行き、椽側に出で、庭に下り、開け忘れたりし裏の非常口よりふらふらと立出でて、いずこともなく歩み去りぬ。
かくて幾分時のその間、足のままに
えりし、お通はふと心着きて、
「おや、どこへ来たんだろうね。」
とその身みずからを怪みたる、お通は見るより色を変えぬ。
ここぞ陸軍の所轄に属する埋葬地の辺なりける。
銃殺されし謙三郎もまた葬られてここにあり。
かの夜、お通は機会を得て、一たび謙三郎と相抱き、互に顔をも見ざりしに、意中の人は捕縛されつ。
その時既に精神的絶え果つべかりし玉の緒を、医療の手にて取留められ、活くるともなく、死すにもあらで、やや二ヶ月を過ぎつる後、一日重隆のお通を強いて、ともに近郊に散策しつ。
小高き丘に上りしほどに、ふと足下に平地ありて広袤一円十町余、その一端には新しき十字架ありて建てるを見たり。
お通は見る眼も浅ましきに、良人は予め用意やしけむ、従卒に持って来させし、床几をそこに押並べて、あえてお通を抑留して、見る目を避くるを許さざりき。
武歩たちまち丘下に起りて、一中隊の兵員あり。樺色の囚徒の服着たる一個の縄附を挟みて眼界近くなりけるにぞ、お通は心から見るともなしに、ふとその囚徒を見るや否や、座右の良人を流眄に懸けつ。かつて「どうするか見ろ」と良人がいいし、それは、すなわちこれなりしよ。お通は十字架を一目見てしだに、なお且つ震いおののける先の状には引変えて、見る見る囚徒が面縛され、射手の第一、第二弾、第三射撃の響とともに、囚徒が固く食いしぼれる唇を洩る鮮血の、細く、長くその胸間に垂れたるまで、お通は瞬もせず瞻りながら、手も動かさず態も崩さず、石に化したるもののごとく、一筋二筋頬にかかれる、後毛だにも動かさざりし。
銃殺全く執行されて、硝烟の香の失せたるまで、尉官は始終お通の挙動に細かく注目したりけるが、心地好げに髯を捻りて、
「勝手に節操を破ってみろ。」
と片頬に微笑を含みてき。お通はその時蒼くなりて、
「もう、破ろうにも破られません。しかし死、死ぬことは何時でも。」
尉官はこれを聞きもあえず、
「馬鹿。」
と激しくいいすくめつ。お通の首の低るるを見て、
「従卒、家まで送ってやれ。」
命ぜられたる従卒は、お通がみずから促したるまで、恐れて起つことをだに得せざりしなり。
かくてその日の悲劇は終りつ。
お通は家に帰りてより言行ほとんど平時のごとく、あるいは泣き、あるいは怨じて、尉官近藤の夫人たる、風采と態度とを失うことをなさざりき。
しかりし後、いまだかつて許されざりし里帰を許されて、お通は実家に帰りしが、母の膝下に来るとともに、張詰めし気の弛みけむ、渠はあどけなきものとなりて、泣くも笑うも嬰児のごとく、ものぐるおしき体なるより、一日のばしにいいのばしつ。母は女を重隆の許に返さずして、一月余を過してき。
されば世に亡き謙三郎の、今も書斎に在すがごとく、且つ掃き、且つ拭い、机を並べ、花を活け、茶を煎じ、菓子を挟むも、みなこれお通が堪えやらず忍びがたなき追慕の念の、その一端をもらせるなる。母は女の心を察して、その挙動のほとんど狂者のごときにもかかわらず、制し、且つ禁ずることを得ざりしなり。
五
お通は琵琶ぞと思いしなる、名を呼ぶ声にさまよい出でて、思わず謙三郎の墳墓なる埋葬地の間近に来り、心着けば土饅頭のいまだ新らしく見ゆるにぞ、激しく往時を追懐して、無念、愛惜、絶望、悲惨、そのひとつだもなおよく人を殺すに足る、いろいろの感情に胸をうたれつ。就中重隆が執念き復讐の企にて、意中の人の銃殺さるるを、目前我身に見せしめ、当時の無念禁ずるあたわず。婦人の意地と、張とのために、勉めて忍びし鬱憤の、幾十倍の勢をもって今満身の血を炙るにぞ、面は蒼ざめ紅の唇白歯にくいしばりて、ほとんどその身を忘るる折から、見遣る彼方の薄原より丈高き人物顕れたり。
濶歩埋葬地の間をよぎりて、ふと立停ると見えけるが、つかつかと歩をうつして、謙三郎の墓に達り、足をあげてハタと蹴り、カッパと唾をはきかけたる、傍若無人の振舞の手に取るごとく見ゆるにぞ、意気激昂して煙りも立たんず、お通はいかで堪うべき。
駈寄る婦人の跫音に、かの人物は振返りぬ。これぞ近藤重隆なりける。
渠は旅団の留守なりし、いま山狩の帰途なり。ハタと面を合せる時、相隔ること三十歩、お通がその時の形相はいかに凄まじきものなりしぞ尉官は思わず絶叫して、
「殺す! 吾を、殺す※[#感嘆符三つ、214-10]」
というよりはやく、弾装したる猟銃を、戦きながら差向けつ。
矢や銃弾も中らばこそ、轟然一射、銃声の、雲を破りて響くと同時に、尉官は苦と叫ぶと見えし、お通が髷を両手に掴みて、両々動かざるもの十分時、ひとしく地上に重り伏せしが、一束の黒髪はそのまま遂に起たざりし、尉官が両の手に残りて、ひょろひょろと立上れる、お通の口は喰破れる良人の咽喉の血に染めり。渠はその血を拭わんともせで、一足、二足、三足ばかり、謙三郎の墓に居寄りつつ、裏がれたる声いと細く、
「謙さん。」
といえるがまま、がッくり横に僵れたり。
月青く、山黒く、白きものあり、空を飛びて、傍の枝に羽音を留めつ。葉を吹く風の音につれて、
「ツウチャン、ツウチャン、ツウチャン。」
と二たび三たび、谺を返して、琵琶はしきりに名を呼べり。琵琶はしきりに名を呼べり。
明治二十九(一八九六)年一月
●表記について
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