謙三郎のなお辞するに、果は怒りて血相かえ、
「ええ、どういっても肯かないのか。私一人だから可いと思って、伯父さんがおいでの時なら、そんなこと、いわれやしまいが。え、お前、いつも口癖のように何とおいいだ。きっと養育された恩を返しますッて、立派な口をきく癖に。私がこれほど頼むものを、それじゃあ義理が済むまいが。あんまりだ、あんまりだ。」
謙三郎はいかんとも弁疏なすべき言を知らず、しばし沈思して頭を低れしが、叔母の背をば掻無でつつ、
「可うございます。何とでもいたしてきっと逢って参りましょう。」
謂われて叔母は振仰向き、さも嬉しげに見えたるが、謙三郎の顔の色の尋常ならざるを危みて、
「お前、可いのかい。何ともありゃしないかね。」
「いや、お憂慮には及びません。」
といと淋しげに微笑みぬ。
三
「奥様、どこへござらっしゃる。」
と不意に背後より呼留められ、人は知らずと忍び出でて、今しもようやく戸口に到れる、お通はハッと吐胸をつきぬ。
されども渠は聞かざる真似して、手早く鎖を外さんとなしける時、手燭片手に駈出でて、むずと帯際を引捉え、掴戻せる老人あり。
頭髪あたかも銀のごとく、額兀げて、髯まだらに、いと厳めしき面構の一癖あるべく見えけるが、のぶとき声にてお通を呵り、「夜夜中あてこともねえ駄目なこッた、断念さっせい。三原伝内が眼張ってれば、びくともさせるこっちゃあねえ。眼を眩まそうとってそりゃ駄目だ。何の戸外へ出すものか。こっちへござれ。ええ、こっちござれと謂うに。」
お通は屹と振返り、
「お放し、私がちょっと戸外へ出ようとするのを、何のお前がお構いでない、お放しよ、ええ! お放してば。」
「なりましねえ。麻畑の中へ行って逢おうたッて、そうは行かねえ。素直にこっちへござれッていに。」
お通は肩を動かしぬ。
「お前、主人をどうするんだえ。ちっと出過ぎやしないかね。」
「主人も糸瓜もあるものか、吾は、何でも重隆様のいいつけ通りにきっと勤めりゃそれで可いのだ。お前様が何と謂ったって耳にも入れるものじゃねえ。」
「邪険も大抵にするものだよ。お前あんまりじゃないかね。」
とお通は黒く艶かな瞳をもって老夫の顔をじろりと見たり。伝内はビクともせず、
「邪険でも因業でも、吾、何にも構わねえだ。旦那様のおっしゃる通りきっと勤めりゃそれで可いのだ。」
威をもって制することならずと見たる、お通は少しく気色を和らげ、
「しかしねえ、お前、そこには人情というものがあるわね。まあ、考えてみておくれ。一昨日の晩はじめて門をお敲きなすってから、今夜でちょうど三晩の間、むこうの麻畑の中に隠れておいでなすって、めしあがるものといっちゃ、一粒の御飯もなし、内に居てさえひどいものを、ま、蚊や蚋でどんなだろうねえ。脱営をなすったッて。もう、お前も知ってる通り、今朝ッからどの位、おしらべが来たか知れないもの、おつかまりなさりゃそれッきりじゃあないか。何の、ちょっとぐらい顔を見せたからって、見たからって、お前、この夜中だもの、ね、お前この夜中だもの、旦那に知れッこはありゃしないよ。でもそれでも料簡がならなけりゃお前でも可い、お前でも可いからね、実はあの隠れ忍んで、ようよう拵えたこの召食事をそっと届けて来ておくれ、よ、後生だよ。私に一目逢おうとってその位に辛抱遊ばす、それを私の身になっちゃあ、ま、どんなだろうとお思いだ。え、後生だからさ、もう、私ゃ居ても、起っても、居られやしないよ。後生だからさ、ちょっと届けて来ておくれなね。」
伝内はただ頭を掉るのみ。
「何を謂わッしても駄目なこんだ。そりゃ、は、とても駄目でござる。こんなことがあろうと思わっしゃればこそ、旦那様が扶持い着けて、お前様の番をさして置かっしゃるだ。」
お通はいとも切なき声にて、
「さ、さ、そのことは聞えたけれど……ああ、何といって頼みようもない。一層お前、わ、私の眼を潰しておくれ、そうしたら顔を見る憂慮もあるまいから。」
「そりゃ不可えだ。何でも、は、お前様に気を着けて、蚤にもささせるなという、おっしゃりつけだアもの。眼を潰すなんてあてごともない。飛んだことをいわっしゃる。それにしてもお前様眼が見えねえでも、口が利くだ。何でも、はあ、一切、男と逢わせることと、話談をさせることがならねえという、旦那様のおっしゃりつけだ。断念めてしまわっしゃい。何といっても駄目でござる。」
お通は胸も張裂くばかり、「ええ。」と叫びて、身を震わし、肩をゆりて、
「イ、一層、殺しておしまいよう。」
伝内は自若として、
「これ、またあんな無理を謂うだ。蚤にも喰わすことのならねえものを、何として、は、殺せるこんだ。さ駄々を捏ねねえでこちらへござれ。ひどい蚊だがのう。お前様アくわねえか。」
「ええ、蚊がくうどころのことじゃないわね。お前もあんまり因業だ、因業だ、因業だ。」
「なにその、いわっしゃるほど因業でもねえ。この家をめざしてからに、何遍も探偵が遣って来るだ。はい、麻畑と謂ってやりゃ、即座に捕まえられて、吾も、はあ、夜の目も合わさねえで、お前様を見張るにも及ばずかい、御褒美も貰えるだ。けンどもが、何も旦那様あ、訴人をしろという、いいつけはしなさらねえだから、吾知らねえで、押通しやさ。そンかわりにゃあまた、いいつけられたことはハイ一寸もずらさねえだ。何でも戸外へ出すことはなりましねえ。腕ずくでも逢わせねえから、そう思ってくれさっしゃい。」
お通はわっと泣出しぬ。
伝内は眉を顰めて、
「あれ、泣かあ。いつもねえことにどうしただ。お前様婚礼の晩床入もしねえでその場ッからこっちへ追出されて、今じゃ月日も一年越、男猫も抱かないで内にばかり。敷居も跨がすなといういいつけで、吾に眼張とれというこんだから、吾ゃ、お前様の、心が思いやらるるで、見ているが辛いでの、どんなに断ろうと思ったか知ンねえけんど、今の旦那様三代めで、代々養なわれた老夫だで、横のものをば縦様にしろと謂われた処で従わなけりゃなんねえので、畏ったことは畏ったが、さてお前様がさぞ泣続けるこんだろうと、生命が縮まるように思っただ。すると案じるより産が安いで、長い間こうやって一所に居るが、お前様の断念の可いには魂消たね。思いなしか、気のせいか、段々窶れるようには見えるけんど、ついぞ膝も崩した事なし、整然として威勢がよくって、吾、はあ、ひとりでに天窓が下るだ、はてここいらは、田舎も田舎だ。どこに居た処で何の楽もねえ老夫でせえ、つまらねえこったと思って、気が滅入るに、お前様は、えらい女だ。面壁イ九年とやら、悟ったものだと我あ折っていたんだがさ、薬袋もないことが湧いて来て、お前様ついぞ見たこともねえ泣かっしゃるね。御心中のウ察しねえでもねえけんどが、旦那様にゃあ、代えられましねえ。はて、お前様のようでもねえ。断念めてしまわっしゃい。どのみちこう謂い出したからにゃいくら泣いたってそりゃ駄目さ。」
しかり親仁のいいたるごとく、お通は今に一年間、幽閉されたるこの孤屋に処して、涙に、口に、はた容儀、心中のその痛苦を語りしこと絶えてあらず。修容正粛ほとんど端倪すべからざるものありしなり。されど一たび大磐石の根の覆るや、小石の転ぶがごときものにあらず。三昼夜麻畑の中に蟄伏して、一たびその身に会せんため、一粒の飯をだに口にせで、かえりて湿虫の餌となれる、意中の人の窮苦には、泰山といえども動かで止むべき、お通は転倒したるなり。
「そんなに解っているのなら、ちょっとの間、大眼に見ておくれ。」
と前後も忘れて身をあせるを、伝内いささかも手を弛めず、
「はて、肯分のねえ、どういうものだね。」
お通は涙にむせいりながら、
「ええ、肯分がなくッても可いよ、お放し、放しなってば、放しなよう。」
「是非とも肯かなけりゃ、うぬ、ふン縛って、動かさねえぞ。」
と伝内は一呵せり。
宜しこそ、近藤は、執着の極、婦人をして我に節操を尽さしめんか、終生空閨を護らしめ、おのれ一分時もその傍にあらずして、なおよく節操を保たしむるにあらざるよりは、我に貞なりとはいうことを得ずとなし、はじめよりお通の我を嫌うこと、蛇蝎もただならざるを知りながら、あたかも渠に魅入たらんごとく、進退隙なく附絡いて、遂にお通と謙三郎とが既に成立せる恋を破りて、おのれ犠牲を得たりしにもかかわらず、従兄妹同士が恋愛のいかに強きかを知れるより、嫉妬のあまり、奸淫の念を節し、当初婚姻の夜よりして、衾をともにせざるのみならず、一たびも来りてその妻を見しことあらざる、孤屋に幽閉の番人として、この老夫をば択びたれ。お通は止むなく死力を出して、瞬時伝内とすまいしが、風にも堪えざるかよわき婦人の、憂にやせたる身をもって、いかで健腕に敵し得べき。
手もなく奥に引立てられて、そのままそこに押据えられつ。
たといいかなる手段にても到底この老夫をして我に忠ならしむることのあたわざるをお通は断じつ。激昂の反動は太く渠をして落胆せしめて、お通は張もなく崩折れつつ、といきをつきて、悲しげに、
「老夫や、世話を焼かすねえ。堪忍しておくれ、よう、老夫や。」
と身を持余せるかのごとく、肱を枕に寝僵れたる、身体は綿とぞ思われける。
伝内はこの一言を聞くと斉しく、窪める両眼に涙を浮べ、一座退りて手をこまぬき、拳を握りてものいわず。鐘声遠く夜は更けたり。万籟天地声なき時、門の戸を幽に叩きて、
「通ちゃん、通ちゃん。」
と二声呼ぶ。
お通はその声を聞くや否や、弾械のごとく飛起きて、屹と片膝を立てたりしが、伝内の眼に遮られて、答うることを得せざりき。
戸外にては言途絶え、内を窺う気勢なりしが、
「通ちゃん、これだけにしても、逢わせないから、所詮あかないとあきらめるが……」
呼吸も絶げに途絶え途絶え、隙間を洩れて聞ゆるにぞ、お通は居坐直整えて、畳に両手を支えつつ、行儀正しく聞きいたる、背打ふるえ、髪ゆらぎぬ。
「実はね、叔母さんが、謂うから、仕方がないように、いっていたけれど、逢いたくッて、実はね、私が。」
といいかかれる時、犬二三頭高く吠えて、謙三郎を囲めるならんか、叱ッ叱ッと追うが聞えつ。
更に低まりたる音調の、風なき夜半に弱々しく、
「実はね、叔母さんに無理を謂って、逢わねばならないようにしてもらいたかった。だからね、私にどんなことがあろうとも叔母さんが気にかけないように。」
と謂う折しも凄まじく大戸にぶつかる音あり。
「あ、痛。」
と謙三郎の叫びたるは、足や咬まれし、手やかけられし、犬の毒牙にかかれるならずや。あとは途ぎれてことばなきに、お通はあるにもあられぬ思い、思わず起って駈出でしが、肩肱いかめしく構えたる、伝内を一目見て、蒼くなりて立竦みぬ。
これを見、彼を聞きたりし、伝内は何とかしけむ、つと身を起して土間に下立ち、ハヤ懸金に手を懸けつ。
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