あとへ引返して、すぐ宮前の通から、小橋を一つ、そこも水が走っている、門ばかり、家は形もない――潜門を押して入ると――植木屋らしいのが三四人、土をほって、運んでいました。」
――別荘の売りものを、料理屋が建直すのだったそうである。
「築山のあとでしょう。葉ばかりの菖蒲は、根を崩され、霧島が、ちらちらと鍬の下に見えます。おお御隠居様、大旦那、と植木屋は一斉に礼をする。ちょっと邪魔をしますよ。で、折れかかった板橋を跨いで、さっと銀をよないだ一幅の流の汀へ出ました。川というより色紙形の湖です。一等、水の綺麗な場所でな。居士が言いましたよ。耕地が一面に向うへ展けて、正面に乙女峠が見渡される……この荒庭のすぐ水の上が、いま詣でた榎の宮裏で、暗いほどな茂りです。水はその陰から透通る霞のように流れて、幅十間ばかり、水筋を軽くすらすらと引いて行きます。この水面に、もし、ふっくりとした浪が二ツ処立ったら、それがすぐに美人の乳房に見えましょう。宮の森を黒髪にして、ちょうど水脈の血に揺らぐのが真白な胸に当るんですね、裳は裾野をかけて、うつくしく雪に捌けましょう。――
椿が一輪、冷くて、燃えるようなのが、すっと浮いて来ると、……浮藻――藻がまた綺麗なのです。二丈三丈、萌黄色に長く靡いて、房々と重って、その茂ったのが底まで澄んで、透通って、軟な細い葉に、ぱらぱらと露を丸く吸ったのが水の中に映るのですが――浮いて通るその緋色の山椿が……藻のそよぐのに引寄せられて、水の上を、少し斜に流れて来て、藻の上へすっと留まって、熟となる。……浅瀬もこの時は、淵のように寂然とする。また一つ流れて来ます。今度は前の椿が、ちょっと傾いて招くように見えて、それが寄るのを、いま居た藻の上に留めて、先のは漾って、別れて行く。
また一輪浮いて来ます。――何だか、天の川を誘い合って、天女の簪が泳ぐようで、私は恍惚、いや茫然としたのですよ。これは風情じゃ……と居士も、巾着じめの煙草入の口を解いて、葡萄に栗鼠を高彫した銀煙管で、悠暢としてうまそうに喫んでいました。
目の前へ――水が、向う岸から両岐に尖って切れて、一幅裾拡がりに、風に半幅を絞った形に、薄い水脚が立った、と思うと、真黒な面がぬいと出ました。あ、この幽艶清雅な境へ、凄まじい闖入者! と見ると、ぬめりとした長い面が、およそ一尺ばかり、左右へ、いぶりを振って、ひゅっひゅっと水を捌いて、真横に私たちの方へ切って来る。鰌か、鯉か、鮒か、鯰か、と思うのが、二人とも立って不意に顔を見合わせた目に、歴々と映ると思う、その隙もなかった。
――馬じゃ……
と居士が、太く怯えた声で喚いた。私もぎょっとして後へ退った。
いや、嘘のような話です――遥に蘆の湖を泳ぐ馬が、ここへ映ったと思ったとしてもよし、軍書、合戦記の昔をそのまま幻に視たとしても、どっち道夢見たように、瞬間、馬だと思ったのは事実です。
やあい、そこへ遁げたい……泳いでらい、畜生々々。わんぱくが、四五人ばらばらと、畠の縁へ両方から、向う岸へ立ちました。
――鼠じゃ……鼠じゃ、畜生めが――
と居士がはじめて言ったのです。ばしゃんばしゃん、氷柱のように水が刎ねる、小児たちは続けさまに石を打った。この騒ぎに、植木屋も三人ばかり、ずッと来て、泳ぐ、泳ぐ、泳ぐ、泳ぐ……と感に堪えて見ている。
見事なものです。実際巧に泳ぐ。が、およそ中流の処を乗切れない。向って前へ礫が落ちると、すっと引く。横へ飛ぶと、かわして避ける。避けつつ渡るのですから間がありました。はじめは首だけ浮いたのですが、礫を避けるはずみに飛んで浮くのが見えた時は可恐い兀斑の大鼠で。畜生め、若い時は、一手、手裏剣も心得たぞ――とニヤニヤと笑いながら、居士が石を取って狙ったんです。小児の手からは、やや着弾距離を脱して、八方こっちへ近づいた処を、居士が三度続けて打った。二度とも沈んで、鼠の形が水面から見えなくなっては、二度とも、むくむくと浮いて出て、澄ましてまた水を切りましたがね、あたった! と思う三度の時には、もう沈んだきり、それきりまるで見えなくなる。……
水は清く流れました、が、風が少し出ましてね、何となくざっと鳴ると、……まさか、そこへ――水を潜って遁げたのではありますまいが、宮裏の森の下の真暗な中に落重った山椿の花が、ざわざわと動いて、あとからあとから、乱れて、散って、浮いて来る。……大木の椿も、森の中に、いま燃ゆるように影を分けて、その友だちを覗いたようです。――これはまた見ものになった――見るうちに、列を織って、幾つともなく椿の花が流れて行く。……一町ばかり下に、そこに第一の水車が見えます。四五間さきに水車、また第三の水車、第四、第五と続いたのが見えます。流の折曲る処に、第六のが半輪の月形に覗いていました。――見る内に、その第一の水車の歯へ、一輪紅椿が引掛った――続いて三ツ四ツ、くるりと廻るうちに七ツ十ウ……たちまちくるくると緋色に累ると、直ぐ次の、また次の車へもおなじように引搦って、廻りながら累るのが、流れる水脚のままなんですから、早いも遅いも考える間はありません。揃って真紅な雪が降積るかと見えて、それが一つ一つ、舞いながら、ちらちらと水晶を溶いた水に揺れます。呆気に取られて、ああ、綺麗だ、綺麗だ、と思ううちに、水玉を投げて、紅の※[#「さんずい+散」、70-7]を揚げると、どうでしょう、引いている川添の家ごとの軒より高く、とさかの燃えるように、水柱を、颯と揃って挙げました。
居士が、けたたましく二つ三つ足蹈をして、胸を揺って、(火事じゃ、……宿じゃ、おたにの方じゃ――御免。)とひょこひょこと日和下駄で駆出しざまに、門を飛び出ようとして、振返って、(やあ、皆も来てくれ。)尋常ごとではありません。植木屋徒も誘われて、残らずどやどや駆けて出る。私はとぼんとして、一人、離島に残された気がしたんです。こんな島には、あの怪い大鼠も棲もうと思う、何となく、気を打って、みまわしますとね。」
「はあ――」
「ものの三間とは離れません。宮裏に、この地境らしい、水が窪み入った淀みに、朽ちた欄干ぐるみ、池の橋の一部が落込んで、流とすれすれに見えて、上へ落椿が溜りました。うつろに、もの寂しくただ一人で、いまそれを見た時に、花がむくむくと動くと、真黒な面を出した、――尖った馬です。」
「や。」
「鼠です。大鼠がずぶずぶと水を刎ねて、鯰がギリシャ製の尖兜を頂いたごとく――のそりと立って、黄色い目で、この方をじろりと。」
「…………」
声は、カーンと響いて、真暗になった。――隧道を抜けるのである。
「思わず畜生! と言ったが夢中で遁げました。水車のあたりは、何にもありません、流がせんせんと響くばかり静まり返ったものです。ですが――お谷さん――もう分ったでしょう。欄干に凭れて東海道を覗いた三島宿の代表者。……これが生得絵を見ても毛穴が立つほど鼠が嫌なんだと言います。ここにおいて、居士が、騎士に鬢髪を染めた次第です。宿のその二階家の前は、一杯の人だかりで……欄干の二階の雨戸も、軒の大戸も、ぴったりと閉まっていました。口々に雑談をするのを聞くと、お谷さんが、朝化粧の上に、七つ道具で今しがた、湯へ行こうと、門の小橋を跨ぎかけて、あッと言った、赤い鼠! と、あ、と声を内へ引いて遁込んで、けたたましい足音で、階子壇を駆上がると、あれえあれえと二階を飛廻って欄干へ出た。赤い鼠がそこまで追廻したものらしい。キャッとそこで悲鳴を立てると、女は、宙へ、飛上った。粂の仙人を倒だ、その白さったら、と消防夫らしい若い奴は怪しからん事を。――そこへ、両手で空を掴んで煙を掻分けるように、火事じゃ、と駆つけた居士が、(やあ、お谷、軒をそれ火が嘗めるわ、ええ何をしとる)と太鼓ぬけに上って、二階へ出て、縁に倒れたのを、――その時やっと女中も手伝って、抱込んだと言います。これじゃ戸をしめずにはおられますまい。」
「驚きました、実に驚きましたな……三島一と言いながら、海道一の、したたかな鼠ですな。」
自動車は隧道へ続けて入った。
「国境を越えましたよ。」
と主人が言った。
「……時に、お話につれて申すようですけれども、それを伺ってはどうやら黙っておられないような気がしますので。……さあ、しかもちょうど、昨年、その頃です。江の浦口野の入海へ漾った、漂流物がありましてな、一頃はえらい騒ぎでございましたよ。浜方で拾った。それが――困りましたな――これもお話の中にありましたが、大な青竹の三尺余のずんどです。
一体こうした僻地で、これが源氏の畠でなければ、さしずめ平家の落人が隠れようという処なんで、毎度怪い事を聞きます。この道が開けません、つい以前の事ですが。……お待ち下さい……この浦一円は鰯の漁場で、秋十月の半ばからは袋網というのを曳きます、大漁となると、大袈裟ではありません、海岸三里四里の間、ずッと静浦の町中まで、浜一面に鰯を乾します。畝も畑もあったものじゃありません、廂下から土間の竈まわりまで、鰯を詰込んで、どうかすると、この石柵の上まで敷詰める。――ところが、大漁といううちにも、その時は、また夥多く鰯があがりました。獅子浜在の、良介に次吉という親子が、気を替えて、烏賊釣に沖へ出ました。暗夜の晩で。――しかし一尾もかかりません。思切って船を漕戻したのが子の刻過ぎで、浦近く、あれ、あれです、……あの赤島のこっちまで来ると、かえって朦朧と薄あかりに月がさします。びしゃりびしゃり、ばちゃばちゃと、舷で黒いものが縺れて泳ぐ。」
「鼠。」
「いや、お待ち下さい、人間で。……親子は顔を見合わせたそうですが、助け上げると、ぐしょ濡れの坊主です。――仔細を聞いても、何にも言わない。雫の垂る細い手で、ただ、陸を指して、上げてくれ、と言うのでしてな。」
「可厭だなあ。」
「上げるために助けたのだから、これに異議はありません。浜は、それ、その時大漁で、鰯の上を蹈んで通る。……坊主が、これを皆食うか、と云った。坊主だけに鰯を食うかと聞くもいいが、ぬかし方が頭横柄で。……血の気の多い漁師です、癪に触ったから、当り前よ、と若いのが言うと、(人間の食うほどは俺も食う、)と言いますとな、両手で一掴みにしてべろべろと頬張りました。頬張るあとから、取っては食い、掴んでは食うほどに、あなた、だんだん腹這いにぐにゃぐにゃと首を伸ばして、ずるずると鰯の山を吸込むと、五斛、十斛、瞬く間に、満ちみちた鰯が消えて、浜の小雨は貝殻をたたいて、暗い月が砂に映ったのです。(まだあるか、)と仰向けに起きた、坊主の腹は、だぶだぶとふくれて、鰯のように青く光って、げいと、口から腥い息を吹いた。随分大胆なのが、親子とも気絶しました。鮟鱇坊主と、……唯今でも、気味の悪い、幽霊の浜風にうわさをしますが、何の化ものとも分りません。――
といった場処で。――しかし、昨年――今度の漂流物は、そんな可厭らしいものではないので。……青竹の中には、何ともたとえがたない、美しい女像がありました。ところが、天女のようだとも言えば、女神の船玉様の姿だとも言いますし、いや、ぴらぴらの簪して、翡翠の耳飾を飾った支那の夫人の姿だとも言って、現に見たものがそこにある筈のものを、確と取留めたことはないのでございますが、手前が申すまでもありません。いわゆる、流れものというものには、昔から、種々の神秘な伝説がいくらもあります。それが、目の前へ、その不思議が現われて来たものなんです。第一、竹筒ばかりではない。それがもう一重、セメン樽に封じてあったと言えば、甚しいのは、小さな櫂が添って、箱船に乗せてあった、などとも申します。
何しろ、美い像だけは事実で。――俗間で、濫に扱うべきでないと、もっともな分別です。すぐに近間の山寺へ――浜方一同から預ける事にしました。が、三日も経たないのに、寺から世話人に返して来ました。預った夜から、いままでに覚えない、凄じい鼠の荒れ方で、何と、昼も騒ぐ。……(困りましたよ、これも、あなたのお話について言うようですが)それが皆その像を狙うので、人手は足りず、お守をしかねると言うのです。猫を紙袋に入れて、ちょいとつけばニャンと鳴かせる、山寺の和尚さんも、鼠には困った。あと、二度までも近在の寺に頼んだが、そのいずれからも返して来ます。おなじく鼠が掛るので。……ところが、最初の山寺でもそうだったと申しますが、鼠が女像の足を狙う。……朝顔を噛むようだ。……唯今でも皆がそう言うのでございますがな、これが変です。足を狙うのが、朝顔を噛むようだ。爪さきが薄く白いというのか、裳、褄、裾が、瑠璃、青、紅だのという心か、その辺が判明いたしません。承った処では、居士だと、牡丹のおひたしで、鼠は朝顔のさしみですかな。いや、お話がおくれましたが、端初から、あなた――美しい像は、跣足だ。跣足が痛わしい、お最惜い……と、てんでに申すんですが、御神体は格段……お仏像は靴を召さないのが多いようで、誰もそれを怪まないのに、今度の像に限って、おまけに、素足とも言わない、跣足がお痛わしい――何となく漂泊流離の境遇、落ちゅうどの様子があって、お最惜い。そこを鼠が荒すというのは、女像全体にかかる暗示の意味が、おのずから人の情に憑ったのかも知れません。ところで、浜方でも相談して、はじめ、寄り着かれた海岸近くに、どこか思召しにかなった場所はなかろうかと、心して捜すと、いくらもあります。これは陸で探るより、船で見る方が手取り早うございますよ。樹の根、巌の角、この巌山の切崖に、しかるべき室に見立てられる巌穴がありました。石工が入って、鑿で滑にして、狡鼠を防ぐには、何より、石の扉をしめて祭りました。海で拾い上げたのが巳の日だった処から、巳の日様。――しかし弁財天の御縁日だというので、やがて、皆が(巳の時様)。――巳の時様、とそう云っているのでございます。朝に晩に、聞いて存じながら、手前はまだ拝見しません。沼津、三島へ出ますにも、ここはぐっと大廻りになります。出掛けるとなると、いつも用事で、忙しいものですから。……
――御都合で、今日、御案内かたがた、手前も拝見をしましても……」
「願う処ですな。」
そこで、主人が呼掛けようとしたらしい運転手は、ふと辰さん(運転手)の方で輪を留めた。
「どうした。」
あたかもまた一つ、颯と冷い隧道の口である。
「ええ、あの出口へ自動車が。」
「おおそうか。……ええ、むやみに動かしては危いぞ。」
「むこうで、かわしたようです。」
隧道を、爆音を立てながら、一息に乗り越すと、ハッとした、出る途端に、擦違うように先方のが入った。
「危え、畜生!」
喚くと同時に、辰さんは、制動機を掛けた。が、ぱらぱらと落ちかかる巌膚の清水より、私たちは冷汗になった。乗違えた自動車は、さながら、蔽いかかったように見えて、隧道の中へ真暗に消えたのである。
主人が妙に、寂しく笑って、
「何だか、口の尖がった、色の黒い奴が乗っていたようですぜ。」
「隧道の中へ押立った耳が映ったようだね。」
と記者が言った。
「辰さん。」
いま、出そうとする運転手を呼んで、
「巳の時さん――それ、女像の寄り神を祭ったというのは、もっと先方だっけね。」
「旦那、通越しました。」
「おや、はてな、獅子浜へ出る処だと思ったが。」
「いいえ、多比の奥へ引込んだ、がけの処です。」
「ああ、竜が、爪で珠をつかんでいようという肝心の処だ。……成程。」
「引返しましょうよ。」
「車はかわります。」
途中では、遥に海ぞいを小さく行く、自動車が鼠の馳るように見えて、岬にかくれた。
山藤が紫に、椿が抱いた、群青の巌の聳えたのに、純白な石の扉の、まだ新しいのが、ひたと鎖されて、緋の椿の、落ちたのではない、優い花が幾組か祠に供えてあった。その花には届くが、低いのでも階子か、しかるべき壇がなくては、扉には触れられない。辰さんが、矗立して、巌の根を踏んで、背のびをした。が、けたたましく叫んで、仰向けに反って飛んで、手足を蛙のごとく刎ねて騒いだ。
おなじく供えた一束の葉の蔭に、大な黒鼠が耳を立て、口を尖らしていたのである。
憎い畜生かな。
石を打つは、その扉を敲くに相同じい。まして疵つくるおそれあるをや。
「自動車が持つ、ありたけの音を、最高度でやッつけたまえ。」
と記者が云った。
運転手は踊躍した。もの凄まじい爆音を立てると、さすがに驚いたように草が騒いだ。たちまち道を一飛びに、鼠は海へ飛んで、赤島に向いて、碧色の波に乗った。
――馬だ――馬だ――馬だ――
遠く叫んだ、声が響いて、小さな船は舳を煽り、漁夫は手を挙げた。
その泳いだ形容は、読者の想像に任せよう。
巳の時の夫人には、後日の引見を懇請して、二人は深く礼した。
そのまま、沼津に向って、車は白鱗青蛇の背を馳せた。
大正十五(一九二六)年十月
●表記について
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