前段既に説けるが如く、予が此塾に入りたりしは、学問すべきためにはあらで、いかなる不思議のあらむかを窺見むと思ひしなり。我には許せ。性として奇怪なる事とし謂へば、見たさ、聞きたさに堪へざれども、固より頼む腕力ありて、妖怪を退治せむとにはあらず、胸に蓄ふる学識ありて、怪異を研究せむとにもあらず。俗に恐いもの見たさといふ好事心のみなり。
さて松川に入塾して、直ちに不開室を探検せんとせしが、不開室は密閉したるが上に板戸を釘付にしたれば開くこと無し。僅に板戸の隙間より内の模様を窺ふに、畳二三十も敷かるべく、柱は参差と立ならべり。日中なれども暗澹として日の光幽に、陰々たる中に異形なる雨漏の壁に染みたるが仄見えて、鬼気人に逼るの感あり。即ち隙見したる眼の無事なるを取柄にして、何等の発見せし事なく、踵を返して血天井を見る。こゝも用無き部屋なれば、掃除せしこともあらずと見えて、塵埃床を埋め、鼠の糞梁に堆く、障子襖も煤果てたり。そこぞと思ふ天井も、一面に黒み渡りて、年経る血の痕の何処か弁じがたし、更科の月四角でもなかりけり、名所多くは失望の種となる。されどなほ余すところの竹藪あり、蓋し土地の人は八幡に比し、恐れて奥を探る者無く、見るから物凄き白日闇の別天地、お村の死骸も其処に埋めつと聞くほどに、うかとは足を入難し、予は先づ支度に取懸れり。
誰にか棄てられけむ、一頭流浪の犬の、予が入塾の初より、数々庭前に入来り、そこはかと餌をるあり。予は少しく思ふよしあれば、其頭を撫で、背を摩りなどして馴近け、賄の幾分を割きて与ふること両三日、早くも我に臣事して、犬は命令を聞くべくなれり。
四
水曜日は諸学校に授業あるに関らず、私塾大抵は休暇なり。予は閑に乗じ、庭に出でて彼の竹藪に赴けり。然るに予てより斥候の用に充てむため馴し置きたる犬の此時折よく来りければ、彼を真先に立たしめて予は大胆にも藪に入れり。行くこと未だ幾干ならず、予に先むじて駈込みたる犬は奥深く進みて見えずなりしが、呀何事の起りしぞ、乳虎一声高く吠えて藪中俄に物騒がし、其響に動揺せる満藪の竹葉相触れてざわ/\/\と音したり。予はひやりとして立停まりぬ。稍ありて犬は奥より駈来り、予が立てる前を閃過して藪の外へ飛出だせり。其剣幕に驚きまどひて予も慌たゞしく逃出だし、只見れば犬は何やらむ口に銜へて躍り狂ふ、こは怪し口に銜へたるは一尾の魚なり、そも何ぞと見むと欲して近寄れば、獲物を奪ふとや思ひけむ、犬は逸散に逃去りぬ。予は茫然として立ちたりけるが、想ふに藪の中に住居へるは、狐か狸か其類ならむ。渠奴犬の為に劫かされ、近鄰より盗来れる午飯を奪はれしに極まりたり、然らば何ほどのことやある、と爰に勇気を回復して再び藪に侵入せり。
畳翠滋蔓繁茂せる、竹と竹との隙間を行くは、篠突く雨の間を潜りて濡れまじとするの難きに肖たり。進退頗る困難なるに、払ふ物無き蜘蛛の巣は、前途を羅して煙の如し。蛇も閃きぬ、蜥蜴も見えぬ、其他の湿虫群をなして、縦横交馳し奔走せる状、一眼見るだに胸悪きに、手足を縛され衣服を剥がれ若き婦人の肥肉を酒塩に味付けられて、虫の膳部に佳肴となりしお村が当時を憶遣りて、予は思はずも慄然たり。
こゝはや藪の中央ならむと旧来し方を振返れば、真昼は藪に寸断されて点々星に髣髴たり。なほ何程の奥やあると、及び腰に前途を視む。時其時、玄々不可思議奇絶怪絶、紅きものちらりと見えて、背向の婦人一人、我を去る十歩の内に、立ちしは夢か、幻か、我はた現心になりて思はず一歩引退れる、とたんに此方を振返りし、眼口鼻眉如何で見分けむ、唯、丸顔の真白き輪郭ぬつと出でしと覚えしまで、予が絶叫せる声は聞えで婦人が言は耳に入りぬ、「こや人に説ふ勿れ、妾が此処にあることを」一種異様の語気音調、耳朶にぶんと響き、脳にぐわら/\と浸み渡れば、眼眩み、心消え、気も空になり足漾ひ、魂ふら/\と抜出でて藻脱となりし五尺の殻の縁側まで逃げたるは、一秒を経ざる瞬間なりき。腋下に颯と冷汗流れて、襦袢の背はしとゞ濡れたり。馳せて書斎に引籠り机に身をば投懸けてほつと吐く息太く長く、多時観念の眼を閉ぢしが、「さても見まじきものを見たり」と声を発して呟きける。「忍ぶれど色に出にけり我恋は」と謂ひしは粋なる物思ひ、予はまた野暮なる物思に臆病の色頬に出でて蒼くなりつゝ結ぼれ返るを、物や思ふと松川はじめ通学生等に問はるゝ度に、口の端むず/\するまで言出だしたさに堪ざれども、怪しき婦人が予を戒め、人に勿謂ひそと謂へりしが耳許に残り居りて、語出でむと欲する都度、おのれ忘れしか、秘密を漏らさば、活けては置かじと囁く様にて、心済まねば謂ひも出でず、もしそれ胸中の疑を吐きて智識の教を請けむには、胸襟乃ち春開けて臆病疾に癒えむと思へど、無形の猿轡を食まされて腹のふくるゝ苦しさよ、斯くて幽玄の裡に数日を閲せり。
一夕、松川の誕辰なりとて奥座敷に予を招き、杯盤を排し酒肴を薦む、献酬数回予は酒といふ大胆者に、幾分の力を得て積日の屈託稍散じぬ。談話の次手に松川が塾の荒涼たるを歎ちしより、予は前日藪を検せし一切を物語らむと、「実は……」と僅に言懸けける、正に其時、啾々たる女の泣声、針の穴をも通らむず糸より細く聞えにき。予は其を聞くと整しく口をつぐみて悄気返れば、春雨恰も窓外に囁き至る、瀟々の音に和し、長吁短歎絶えてまた続く、婦人の泣音怪むに堪へたり。
五
「あれは何が泣くのでせう」と松川に問へば苦い顔して、談話を傍へそらしたるにぞ推しては問はで黙して休めり。ために折角の酔は醒めたれども、酔うて席に堪へずといひなし、予は寝室に退きつ。思へば好事には泣くとぞ謂ふなる密閉室の一件が、今宵誕辰の祝宴に悠々歓を尽すを嫉み、不快なる声を発して其快楽を乱せるならむか、あはれ忌むべしと夜着を被りぬ。眼は眠れども神は覚めたり。
寝られぬまゝに夜は更けぬ。時計一点を聞きて後、漸く少しく眠気ざし、精神朦々として我我を弁ぜず、所謂無現の境にあり。時に予が寝ねたる室の襖の、スツとばかりに開く音せり。否唯音のしたりと思へるのみ、別に誰そやと問ひもせず、はた起直りて見むともせず、うつら/\となし居れり。然るにまた畳を摺来る跫音聞えて、物あり、予が枕頭に近寄る気勢す、はてなと思ふ内に引返せり。少時してまた来る、再び引返せり、三たびせり。
此に於て予は猛然と心覚めて、寝返りしつゝ眼をき、不図一見して蒼くなりぬ。予は殆ど絶せむとせり、そも何者の見えしとするぞ、雪もて築ける裸体の婦人、あるが如く無きが如き灯の蔭に朦朧と乳房のあたりほの見えて描ける如く彳めり。
予は叫ばむとするに声出でず、蹶起きて逃げむと急るに、磐石一座夜着を圧して、身動きさへも得ならねば、我あることを気取らるまじと、愚や一縷の鼻息だもせず、心中に仏の御名を唱へながら、戦く手足は夜着を煽りて、波の如くに揺らめいたり。
婦人は予を凝視むるやらむ、一種の電気を身体に感じて一際毛穴の弥立てる時、彼は得もいはれぬ声を以て「藪にて見しは此人なり、テモ暖かに寝たる事よ」と呟けるが、まざ/\と聞ゆるにぞ、気も魂も身に添はで、予は一竦に縮みたり。
斯くて婦人が無体にも予が寝し衾をかゝげつゝ、衝と身を入るゝに絶叫して、護謨球の如く飛上り、室の外に転出でて畢生の力を籠め、艶魔を封ずるかの如く、襖を圧へて立ちけるまでは、自分なせし業とは思はず、祈念を凝せる神仏がしかなさしめしを信ずるなり。
寒さは寒し恐しさにがた/\震[#「がた/\震」は底本では「がた/\震 ぶるひ」]少しも止まず、遂に東雲まで立竦みつ、四辺のしらむに心を安んじ、圧へたる戸を引開くれば、臥戸には藻脱の殻のみ残りて我も婦人も見えざりけり。其夜の感情、よく筆に写すを得ず、いかむとなれば予は余りの恐しさに前後忘却したればなり。
然らでも前日の竹藪以来、怖気の附きたる我なるに、昨夜の怪異に胆を消し、もはや斯塾に堪らずなりぬ。其日の中に逃帰らむかと已に心を決せしが、さりとては余り本意無し、今夜一夜辛抱して、もし再び昨夜の如く婦人の来ることもあらば度胸を据ゑて其の容貌と其姿態とを観察せむ、あはよくば勇を震ひて言葉を交し試むべきなり。よしや執着の留りて怨を後世に訴ふるとも、罪なき我を何かせむ、手にも立たざる幻影にさまで恐るゝことはあらじ、と白昼は何人も爾く英雄になるぞかし。逢魔が時の薄暗がりより漸次に元気衰へつ、夜に入りて雨の降り出づるに薄ら淋しくなり増りぬ。漫に昨夜を憶起して、転た恐怖の念に堪へず、斯くと知らば日の中に辞して斯塾を去るべかりし、よしなき好奇心に駆られし身は臆病神の犠牲となれり。
只管洋灯を明くする、これせめてもの附元気、机の前に端坐して石の如くに身を固め、心細くも唯一人更け行く鐘を数へつゝ「早一時か」と呟く時、陰々として響き来る、怨むが如き婦人の泣声、柱を回り襖を潜り、壁に浸入る如くなり。
南無三膝を立直し、立ちもやらず坐りも果てで、魂宙に浮く処に、沈んで聞こゆる婦人の声、「山田山田」と我が名を呼ぶ、呀と頭を掉傾け、聞けば聞くほど判然と疑も無き我が名の山田「山田山田」と呼立つるが、囁く如く近くなり、叫ぶが如くまた遠くなる、南無阿弥陀仏コハ堪らじ。
六
今はハヤ須臾の間も忍び難し、臆病者と笑はば笑へ、恥も外聞も要らばこそ、予は慌しく書斎を出でて奥座敷の方に駈行きぬ。蓋し松川の臥戸に身を投じて、味方を得ばやと欲ひしなり。
既にして、松川が閨に到れば、こはそもいかに彼の泣声は正に此室の裡よりす、予は入るにも入られず愕然として襖の外に戦きながら突立てり。
然るに松川は未だ眠らでぞある。鬱し怒れる音調以て、「愛想の尽きた獣だな、汝、苟くも諸生を教へる松川の妹でありながら、十二にもなつて何の事だ、何うしたらまたそんなに学校が嫌なのだ。これまで幾度と数知れず根競と思つて意見をしても少しも料簡が直らない、道で遊んで居ては人眼に立つと思ふかして途方も無い学校へ行くてつちやあ家を出て、此頃は庭の竹藪に隠れて居る。此間見着けた時には、腹は立たないで涙が出たぞ」と切歯をなして憤る。
傍より老いたる婦人の声として「これお長、母様のいふ事も兄様のおつしやる事もお前は合点が行かないかい、狂気の様な娘を持つた私や何といふ因果であらうね。其癖、犬に吠えられた時、お弁当のお菜を遣つて口塞をした気転なんぞ、満更の馬鹿でも無いに」と愚痴を零す[#ルビの「こぼ(す)」は底本では「にぼ(す)」]は母親ならむ。
松川は腹立たしげに「其が馬鹿智慧と謂ふもんだ、馬鹿に小才のあるのはまるつきりの馬鹿よりなほ不可い。彼の時藪の中から引摺出して押入の中へ入れて置くと、死ぬ様な声を出して泣くもんだから――何時だつけ、むゝ俺が誕生の晩だ――山田に何が泣いてるのだと問はれて冷汗を掻いたぞ。貴様が法外な白痴だから己に妹があると謂ふことは人に秘して居る位、山田の知らないのも道理だが、これ/\で意見をするとは恥かしくつて言はれもしない。それでも親の慈悲や兄の情で何うかして学校へも行く様に真人間にして遣りたいと思へばこそ性懲を附けよう為に、昨夜だつて左様だ、一晩裸にして夜着も被せずに打棄つて置いたのだ。すると何うだ、己にお謝罪をすれば未しも可愛気があるけれど、いくら寒いたつて余りな、山田の寝床へ潜込みに行きをつた。彼が妖怪と思違ひをして居るのも否とは謂はれぬ。妖怪より余程怖い馬鹿だもの、今夜はもう意見をするんぢやあないから謝罪たつて承知はしない、撲殺すのだから左様思へ」と笞の音ひうと鳴りて肉を鞭つ響せり。女はひい/\と泣きながら、「姉様謝罪をして頂戴よう、あいたゝ、姉様よう」と、哀なる声にて助を呼ぶ。
今姉さんと呼ばれしは松川の細君なり。「これまで幾度謝罪をして進げましても、お前様の料簡が直らないから、もうもう何と謂つたつて御肯入れなさらない、妾が謂つたつて所詮駄目です、あゝ、余り酷うございますよ。少し御手柔に遊ばせ、あれ/\それぢやあ真個に死んでしまひますわね、母様、もし旦那つてば、御二人で御折檻なさるから仕様が無い、えゝ何うせうね、一寸来て下さい」と声震はし「山田さん、山田さん」我を呼びしは、さては是か。
●表記について
- このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。
- [#…]は、入力者による注を表す記号です。
- 「くの字点」は「/\」で、「濁点付きくの字点」は「/″\」で表しました。
- 「くの字点」をのぞくJIS X 0213にある文字は、画像化して埋め込みました。
- 傍点や圏点、傍線の付いた文字は、強調表示にしました。
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